乃々と別れ二人で電車に乗った後も、紫乃の表情はずっと落ち込んだままだった。それほど、朝美との別れが寂しかったのだろう。

 十年前にも、彼女は同じ痛みを感じていたのかもしれない。ただあの時と違うのは、隣に朝陽がいるということだった。

「紫乃、朝美さんに嘘ついちゃった……」
「姉ちゃんなら、きっと笑って許してくれるよ。それに、あの人ならなんとなく分かってたと思う。そういうところは、勘の鋭い人だから」

 紫乃は朝美に対して嘘をつき続けることを望んでいるが、朝陽は彼女の言葉が真実になることを望んでいる。

 今度は、彩と紫乃と乃々が揃って浜織に来て欲しい。二人に生きることを諦めないで欲しいのだ。

 電車に揺られながら、どうすればそんな未来が訪れるのかを、朝陽は必死に考えた。しかしそれは未だに思い浮かばない。

 せめて紫乃がいなくなったりしなければ、解決策を探る時間が得られるというのに。

「僕はやっぱり、紫乃に居なくならないでほしい。きっと、みんなが望んでることだよ。みんな、紫乃が生きることを望んでくれてる」

 その説得に、紫乃は弱々しく首を振った。

「前にも言ったけど、紫乃はもうみんなに迷惑をかけたくないの……彩ちゃんにも、朝陽くんにも……紫乃がここにいたら、ずっと彩ちゃんは出て来れないから……」
「諦めなければ、解決策が見つかるかもしれないよ。それに、紫乃は迷惑なんてかけてない。今も、昔だって……」
「解決策なんて、見つからないよ……自分のことは、自分が一番よく分かってるから。紫乃がこの世界からいなくならないと、彩ちゃんは戻ってこない。それが、唯一の解決策。それに……」

 一度紫乃は言葉を区切る。今から話すことをためらっているように見えて、朝陽は自然と彼女の言葉に身構えてしまう。

「それに……今日は玉泉さんのコンクールだったんでしょ……?」
「あぁ、知ってたんだ……」
「うん。朝美さんから聞いたの」

 別に、話したことに悪気なんてないのだろう。そもそも朝美は今起きていることについて、何も知らされていないのだ。

「コンクールには行けなかったけど、それは紫乃が悪いわけじゃないよ。ただ偶然、その日が重なっただけなんだから」
「偶然でも、重なっちゃったのは事実だから。紫乃のせいで……」
「だから、本当に紫乃のせいなんかじゃないって。僕は今ここにいることを拒むこともできた。それでも僕は、ここに来ることを選んだんだ。今ここにいるのは全部、僕の意思だ」

 朝陽はハッキリ言い切る。

 自分は彩と再び話をするために、この道を選んだ。そして同時に、紫乃に生きていてほしいから、この道を選んだのだ。

 十年前の出来事を思い出す。

 ずっと部屋の中で、外の世界に怯えていた女の子。自分で作った繭の中に閉じこもり、彼女は他人との交流を避けてきた。

 朝陽はそんな女の子に、もし病気が治ったら外の世界を見せてあげたいと思った。しかしそれは叶わないことだと彼女は言い、拒絶した。

 だけど今は、紫乃が怯えていた世界に二人で足を付けている。美しさで満ちたこの世界。いろんな美しいものを、彼女にはこれからも見つけてほしかった。

 きっとそれは彩も願っていたことだ。だから自分を犠牲にしてまで、紫乃がこの先を生きることを望んだ。

 些細なすれ違い。どうすれば、みんなが笑っていられるのか。

 それだけを、ただ朝陽は考え続けた。

 紫乃は朝陽の言葉を聞いたきり、ただずっと俯いている。両手を固く握りしめていて、口元はわずかに震えている。それがわずかに開いて、彼女は呟くように朝陽へ訊ねた。

「紫乃のお母さんって、どんな人だった……?」
「え?」
「朝陽くんから見て、紫乃のお母さんがどんな人だったかを知りたいの……」

 おかしなことを聞くのだなと思ったが、朝陽はあの時感じたことを素直に伝えた。

「優しい人だったよ。泣いてる僕を家に上げてくれて、ケーキをご馳走してくれたんだ。紫乃の家に遊びに行けばいつも喜んでくれて、そのたびに僕も嬉しくなってた」
「他には?」
「えっと、紫乃にすごく似てるなって思ったかな」
「紫乃に?」

 沈んでいた表情がわずかに緩んだような気がして、朝陽はホッとした。

「幼い頃の紫乃を、そのまま大人っぽくしたような顔つきだったよ。それに、目元にホクロもあった」

 そう言うと、紫乃は思い出したようにそっと目元に触れた。もちろんそこに、ホクロがあるはずがない。

 彼女の身体は、綾坂彩の容姿をしているのだから。

 それに遅れて気付いたのであろう紫乃は、触れていた手をそっと離し、寂しげな表情を浮かべた。

「紫乃のお父さんは、どんな人だったのかな? 何度も遊びに行ったけど、僕は一度も見たことがないんだ」
「お父さん……」

 紫乃は一つ一つ思い出すように、今は亡きお父さんの話を語った。

「紫乃とお母さんのために、毎日働いてくれてたの。子どもの頃は、いつも眠る時にそばにいてくれて、子守唄を聴かせてくれてた……」

 きっと紫乃のお母さんと同じく、優しい人だったのだろう。彼女は幼い頃から優しい人に囲まれていたから、今の紫乃に育ったのだ。

「たぶん、紫乃が一人ぼっちにならないために、お父さんは頑張ってたの。お母さんが、ずっとお家にいられるように……」
「僕の家も、紫乃の家と同じかな。お父さんは一生懸命働いて、お母さんはずっと家にいてくれて、僕と姉ちゃんのことを見守ってくれてた」

 父が働き、母が家を守るというのは全時代的な考え方ではあるが、その下で育った朝陽は素直に両親に感謝していて、自分も将来はそんな生き方をしたいと思っていた。

 朝陽にとっては、自分の家こそが家族の理想像なのだ。

「……でも、紫乃はちょっとだけ寂しかった。お父さんと会えるのは、朝と夜だけだったから」
「それは仕方がないんじゃないかな。でも休日はたくさん話をすることができたよね?」

 紫乃はコクリと頷く。

「でも、お父さんとお母さんにも、迷惑ばかりかけてた……紫乃は身体が弱かったから。それに……」

 彼女は何かを言いかけて、そのまま唇をひき結んだ。緩んでいた表情はだんだんと落ち込んでいき、再び視線をうつむかせてしまう。

 朝陽はそっと、彼女の手を握ってあげた。

「お父さんもお母さんも、紫乃のことを迷惑だなんて思ってないよ」
「そんなの、朝陽くんには分からないから……」
「迷惑だって思ってたなら、きっと紫乃はこんなに優しい子には育たなかったと思う」
「紫乃は、優しくなんか……」
「優しいよ。彩さんを救うために、紫乃はこんなにも一生懸命になれているんだから。それに優しいっていうのは、誰かがそう思ったときに初めて生まれるものだよ。僕が優しい人だと思えば、紫乃は優しい人になるんだ」

 紫乃はすんと小さく鼻をすすり、未だ顔を上げない。なるべく彼女のペースに合わせるため黙っていると、再びゆっくりと口を開いた。

「……お父さんがね、紫乃のために仕事を休んでくれた時があったの。その時ね、お父さんは、嬉しそうな顔をしてたんだと思う……お母さんもどうしてか、喜んでた気がする」

 やっぱり紫乃は両親に愛されていたのだということがわかり、朝陽はホッとする。そして彼女は自分以上に鈍感な女の子だということを知り、なぜか嬉しくもなった。

「紫乃は奥手なところがあるから、自分のやりたいことを教えてくれて、お父さんとお母さんは嬉しかったんだと思うよ。僕も、花火大会とお墓参りに行きたいって聞いた時は、実は嬉しかったんだ」
「……嬉しかったの?」
「うん、嬉しかった。だから色々な事情とか関係なしに、今二人で電車に乗ってることがすごく楽しい。子どもの頃に言ったことが、ようやく現実になってるんだって実感できて。ほら、窓の外を見てみてよ」

 朝陽の言葉を聞いて、紫乃は電車の外を見る。そこから見える遠くの景色は、黄色の群れによって染められていた。

 そこは一面広がるひまわり畑。その景色を見て、紫乃はしばらく言葉を失っていた。

「あれって、大きなタンポポ?」

 その問いに朝陽はくすりと微笑む。

「タンポポじゃなくて、ひまわりだよ。もしかして、初めて見た?」

 紫乃はコクリと頷いて、再びひまわり畑に視線を戻す。しかし、しばらくすると電車はひまわり畑を通り過ぎ、暗いトンネルの中へ入っていった。

 残念そうな表情を紫乃は浮かべるが、落ち込んでいた心は少し紛れたようだった。

 ガタンゴトンと音を立てながら、電車は進んでいく。朝陽たちの住んでいた故郷を目指しながら。