彼女を起こさないように自分の部屋に寝かせた朝陽は、申し訳ないと思いつつポケットからスマホを拝借した。彼女の素性を調べるならば、いつも常備しているスマホを見るのが手っ取り早い。

 最悪、彼女がいつも連絡を取っている、綾坂彩という人物に話を聞けばいいからだ。幸い彼女のスマホにロックはかかっておらず、すんなりとアドレス帳を開くことができた。

 その中から、綾坂彩という名前の人物を探す。しかし……

「あれ、ない……」

 登録されているアドレスに、綾坂彩という名前は存在していなかった。二、三度確認してみても、やはり結果は同じ。そもそも五十音順で並べれば一番上の方へ来るため、見落とすなんてことはあるはずがない。

 だとすれば、なぜアドレスを登録していないのだろうと、朝陽は不思議に思う。

 しかし悪いことをしているという自覚はあったため、すぐに考えることをやめて違う方法を考えた。

 以前は嫌われることをためらって隠してしまったけど、今回はスマホを使ったことを隠さずに申告するつもりだ。嫌われたとしても、彼女の正体が知りたかった。

 だから、調べ終わる前に取り上げられるのはさすがにまずい。

 朝陽はもう一度連絡先を上から眺めていき、ある人物の項目で目が止まった。

「乃々……」

 彼女は、生きているのだろうか。仮に紫乃と同じく交通事故に遭っていたとすれば、乃々という人物もこの世界に存在しないということになる。

 それは、電話をかけてみれば分かることだ。

 朝陽は乃々という人物の電話番号をタップして、スマホを耳に当てた。何度目かのコールの後、向こうへと繋がる。

『お姉ちゃん、今どこですか! お父さんもお母さんも激おこなんですよ! 乃々、さすがに疲れちゃいましたよ!』

 突然ものすごい剣幕で怒鳴られ、朝陽は慌ててスマホを耳から離す。しかしその行動は一足遅かったため、右耳からキーンという耳鳴りが起きた。

『ねえお姉ちゃん聞いてますか!』
「ごめん。僕は君のお姉ちゃんじゃないんだ」
『へ?』

 朝陽の声を聞いて冷静になったのか、乃々はしばらくの間黙り込む。おそらく、状況を整理しているのだろう。

『お姉ちゃん、まさか旅行先で去勢でもしたんですか……?』
「そんなことあるわけないじゃん……」
『では、あなたはお姉ちゃんのボーイフレンドですか?』
「ボーイフレンドというより、友達かな……」

 告白をしたけれど、保留になってしまったから。また告白をし直してほしいと朝陽は言われていたが、いろいろなことが重なって、その話も今は曖昧になっている。

 乃々の声は幼いが綺麗な敬語を使っているため、彼女の印象が全然定まらない。しかし喋り方から察するに、精神年齢は高めなのだろう。確か、今年から高校一年になったと××は言っていた。

「確認するけど、君は乃々さんであってるよね?」
『はい、そうですけど。私も確認したいです。どうしてお兄さんは、乃々の名前を知っているんですか?』
「ある人から聞いたんだよ。いや、事情があって名前はわからないんだけど、紫乃の妹だって」
『紫乃?』

 乃々は電話の向こうで首をかしげたのだろう。語尾は問い返すように上がっていて、朝陽も首をかしげる。

「え、君のお姉さんの名前だよ。東雲紫乃。君は、東雲乃々さんでしょ?」
『……お兄さん、もしかして何か勘違いされてらっしゃいますか?』
「勘違い?」

 朝陽は、はたと思いだす。

 よく考えてみれば、目の前で眠っているのは紫乃ではない。まだ彼女が紫乃であると認識している時にその話を聞かされたため、妹が乃々という名前であると思い込んでしまったが、もうその理屈は通用しない。

 そもそも、引っかかりも覚えていた。

 朝陽が紫乃の家へ遊びに行った時、妹の存在を一度も見たことがなかったのだから。

 そしてよくよく思い返してみれば、妹の話題が出た時の彼女は、何かを取り繕っているようにも見えた。

 朝陽はようやく、彼女が誰であるのかを知る。そして、自分が勘違いをしていたことを。

『――乃々は、綾坂乃々っていいますよ』

 綾坂乃々。

 そう、彼女は告げた。

『東雲じゃなくて、綾坂です。お姉ちゃんは紫乃という名前ではなく、彩です』

 朝陽はそばで眠っている彼女のことを見た。彼女が綾坂彩であるならば、どうしてわざわざメールを送るそぶりを見せていたのか。

 一瞬、今まで乃々にメールを送っていたのかとも考えたが、彼女の反応から察するに、今まで妹とは一度も連絡を取っていなかったのだろう。分からないことが、多すぎる。

『ちょっとお兄さん、聞いてますかー?』
「あ、ごめん。考え事してた」

 考え事をしていて、乃々の話を全然聞いていなかった。朝陽は彼女の言葉に耳を傾ける。

『ひとまず、乃々はもう寝ますね。明日の朝一の新幹線に乗ってそちらへ向かいます。確認したいこととか、色々とあるので』
「来てもらうのは申し訳ないし、どっちにしても戻らなきゃいけないんだから、こっちから綾坂さんを連れていくよ」
『今は、お姉ちゃんをこっちに連れ戻さないほうがいいです』

 今までより真剣な声音で、乃々は言った。

「どうして?」
『乃々たちの両親が激おこなので、見つかったりすれば病院に連れてかれます。激おこといっても、可愛い娘が心配で不安になっているだけなんですけどね』
「ちょっと待って。病院って、もしかして綾坂さんはまだどこか悪いの……? 心臓の病気って聞いたけど、まだ治ってなかったの……?」

 まだ心臓の病気が治っていなかったとすれば、山登りをさせたり川へ連れて行ったり、花火へ連れて行ったりと、だいぶ負担をかけるようなことをさせてしまっていた。もしそれで病状が悪化していたとすれば……そう考えるだけで、朝陽の心は酷く揺らめく。

『お姉ちゃんってば、そんなことまで話してたんですね。でも安心してください。拡張型心筋症っていう病気だったんですけど、お姉ちゃんの言う通り、もうめでたく完治しましたので』
「え、じゃあどうして病院に連れてかれるの?」

 再び質問をすると、返答に間が空いた。どうしたのかと思い乃々の返答を待っていると、今までよりも自信のない声で返事が返ってくる。

『今話すと長くなるので、具体的なことまでは言えないから端的に申し上げますと、お姉ちゃんは精神科に連れて行かれる可能性が非常に高いんです』
「精神科?」
『まあ、あくまで乃々の予想なんですけどね。でも当たってたとしたら、しばらく入院させられる可能性もあります。そのことに関して、そちらに着いてからあらためてご説明いたしますね』
「あ、うん……」

 それから朝陽の家の住所を伝えて、通話は終了した。彼女……彩を起こしたりしないように、スマホは枕元に置いておく。

 ひとまず彼女の正体がわかって、朝陽はホッとした。もしかすると初めて朝陽と出会った時、彩が「あ、」と言い淀んだのは、自分の本名を晒してしまいそうになったからなのかもしれない。家族に何も言わずに飛び出して朝陽を探したのは、何か深い事情があるのだろう。

 彩を部屋に残し、朝陽はリビングのソファへ身体を預けた。するとすぐに睡魔が襲って来て、ゆっくりと目を閉じる。

 今日は一日いろいろなことがあり、疲れていたのかもしれない。

 色々と考えたいことがたくさんあったが、そのまま襲い来る眠気に身を任せた。