上履きが地面と接触するたびに、リノリウムの床からカツンという軽快な音が鳴り響く。普段ならば生徒の喧騒に紛れて聞こえることはないが、夏休みで人が少ないということもあり、学校には寂しげな雰囲気が漂っていた。
紫乃は廊下を歩きながら、辺りをキョロキョロと見回している。
「もしかして、学校もあんまり通えてなかった?」
「通えてなかったわけじゃないんだけど……なんというか新鮮だなって」
「新鮮?」
「学校ってこんな場所なんだって、改めて感じたの」
自分の通っている学校とは別の場所を見れば、そういう風に感じるのかもしれない。朝陽も、そういえばこちらに転校して初めて小学校へ足を踏み入れた時、似たような気持ちを抱いたことを思い出す。
建物の構造は似通っているはずなのに、まるで初めて学校を目にするかのようにそわそわとしてしまった。
「ちょっと職員室に寄ってから、見学に行こうか」
「うん」
夏休みだから黙って見学していてもいいと思ったが、さすがに何も聞かされずに他校の生徒である紫乃を目にすれば、教師は何かしらの質問をしてくるだろう。
だから朝陽は、先に職員室へ寄って担任の先生に事情を説明した。担任の先生は今年赴任したばかりではあるが、おおらかな性格をしているため二つ返事で了承を貰えた。
来校者用の首から下げるパスを持って職員室を出る。紫乃は廊下の先に視線を向けていた。
「どうしたの?」
「なんか、演奏が聴こえるなって思って」
「演奏?」
紫乃に言われて、耳をすます。しかし彼女が聴こえているのであろう音は、朝陽の鼓膜には届かなかった。
確かに向こうには音楽室があるが、こちらに音が響かない程度には離れた場所に位置している。朝陽に聞こえるのは、グラウンドから響く、白球を鉄製のバットで打球する音だけだ。
「紫乃ってすごく耳がいいんだね」
「紫乃、昔から耳は結構使ってた方だから」
紫乃が謙遜しないのは珍しいため、おそらく本当に耳がいいのだろう。そういえば最近はイヤホンの普及によって、若者の聴力低下が目立っていることを思い出す。同時にスマートフォンの普及によって、視力が衰えているというのも問題になっているらしい。
紫乃はよく彩にメールを送っているため、どちらかというと視力の方が心配だなと朝陽は思う。といっても、メールを送る時と確認するときにしかスマホを使っているのを見ないため、それほど心配をしなくてもいいのかもしれない。
珠樹は朝陽の前ではスマホをあまり触らないが、家の中では部活の友達と頻繁にメールをすると話していたことがある。そのおかげで、高校入学前に比べて視力が衰えてしまったようだ。
音楽室の方へしばらく歩くと、確かに紫乃の言った通り演奏の音が聞こえてくる。普段はパート練習をすることが多いらしいが、コンクールも近いため合奏練習に時間を当てられることが多くなったと珠樹が話していた。
「これ、なんていう名前の曲なの?」
「確か、ダッタン人の踊りだったかな」
夏休み前に、珠樹が教室で吹奏楽部員と会話をしていた。朝陽と珠樹は同じクラスであるため、自然とその内容は耳に入ってくる。
しばらく音楽室前の壁に寄りかかり、二人は合奏を聴いていた。フルートのゆったりとした演奏の後、オーボエのソロへと移る。珠樹が吹奏楽で吹いているため興味を持ち、何度か朝陽もこの曲を聴いたことがある。このメロディーの部分は、朝陽のお気に入りだった。
しかし、チューバの音はよくわからない。珠樹がいなければ演奏に迫力がなくなるとは思うが、実のところ音に聴き分けなどついていない。わかる人が聴けばわかるのだろうが、朝陽は音楽に関して全くの無知と言っても過言ではないし、仕方がないといえば仕方がない。
それでも、紫乃にはチューバの音が聴こえているのかもしれない。彼女は目を閉じて、音楽室の扉から漏れる様々な楽器の音色に聴き入っていた。
扉の窓からそっと中を窺うと、珠樹が大きなチューバを抱きかかえるように持って、譜面と指揮者に一生懸命食らいついているのが見える。朝陽は心の中で、彼女に『頑張れ』というエールを送った。
先程から紫乃は、目をつぶりながら吹奏楽部の合奏を聴いている。しかし鳴っていた音はピタリと止まり、彼女もそれにつられてゆっくりと目を開く。
指揮をしている先生が、演奏を止める合図を取ったのだ。どうやら誰かがミスをしたらしく、壇上からその指導をしている。
注意されているのは、チューバを持った珠樹だった。
彼女は指揮者に目を向けながら、何度かチラリと音楽室の入り口へ視線を投げている。自分が邪魔をしてしまったのだということが分かり、朝陽は珠樹へごめんと手を合わせた。
珠樹は朝陽のことを軽く睨みつけただけで、それから再び合奏が始まる。
「紫乃たち、邪魔しちゃった……?」
「紫乃たちというか、僕が邪魔しちゃったんだよ。珠樹に悪いし、そろそろ離れよっか」
紫乃がコクリと頷いたのを見て、朝陽は目的を学校案内に切り替えることにした。とは言っても、この学校にだけある珍しい物など一つもない。音楽室があり、美術室があり、体育館があり、グラウンドがある。
ありふれたどんな学校にもある風景だが、紫乃はそのどれにも興味を示し、瞳を輝かせていた。そんな彼女のことを見て、やっぱり連れてきて正解だったと、朝陽は心の中で思った。
校舎の中をある程度回って、いつのまにか二人は音楽室の付近へと戻ってくる。歩きながら、紫乃は儚げな表情でぽつりと呟いた。
「朝陽くんと、一緒の学校に通いたかったな……」
その言葉を聞いて、朝陽は立ち止まる。校舎に響いていた二つの足音は、わずかな間をおいて静かにやんだ。まるで別れを予見しているかのような言葉の響きに、朝陽の心臓は大きく脈打つ。
ふっと湧いてきた春樹に伝えられた話を、心の底に押し込める。今は、現実に向き合いたくなかった。
「……今からでも、通えるんじゃない?」
「え?」
「ほら、大学。一緒の大学を選べば、同じ学校に通えるんじゃないかな」
その魅力的な提案に、紫乃は瞳を輝かせたりはしなかった。まるで、その未来はありえないと確信しているかのように、彼女の表情は落ち込んでいく。
「紫乃が県外に出られないなら、僕が向こうの大学を受験するよ。たぶん一人暮らしも許してくれると思うし、それなら……」
「ごめんね」
言葉を遮るようにして、紫乃は謝罪の言葉を呟く。どうして謝っているのか、朝陽には分からなかった。
彼女は、困ったように不器用に微笑む。
「紫乃は、朝陽くんと同じ大学には通えないの。というより、大学に通えないから。だから、ごめんなさい」
「……そっか」
大学に通えないのは、家庭の事情があるのだろう。
『この前隣町で、事故があったんだ』
大学に通うにはお金がかかる。だから紫乃は、高校卒業後に働くのだろう。
『……乗ってたのは、東雲一家』
だから、仕方がない。
『たしかその中に、東雲紫乃っていう名前が入ってた気がする』
思い出したくもない事実が、朝陽の脳裏にチラつく。そんなことはありえないと、頭の中で必死に否定した。たとえばそれが事実なのだとしたら、目の前にいる彼女は何者なのだ。
彼女は……紫乃はハッキリと昔の出来事を覚えている。
再び会いたくて、朝陽のことを探し出してくれた。
そんな彼女が、存在しないはずの人間だなんて、あり得るはずがない。
「……謝っておかなきゃいけないことがあるの」
遠慮がちに紫乃は呟く。
朝陽と目を合わせたりはしなかった。
「一つだけ、朝陽くんに嘘をついちゃったの……」
「……嘘?」
別に嘘をついたままでも構わない。だから彼女の言葉を止めることも出来たのに、紫乃が真っ直ぐと朝陽を見据えたため、静止の言葉をかけることができなかった。
紫乃はとても申し訳なさそうに、その嘘を正す。それは本当に些細な嘘だった。昨日までの、あの瞬間が訪れる前に知った嘘ならば、これほどまでに朝陽が動揺することはなかっただろう。それこそ、笑って済ませられたはずだ。
しかし事実を知った今では、それは明確な真実となって朝陽に襲いかかった。
「紫乃が引っ越した場所ね、実は彩ちゃんの住んでる遠いところじゃなくて、本当はすぐ隣町に引っ越してたの……」
紫乃は廊下を歩きながら、辺りをキョロキョロと見回している。
「もしかして、学校もあんまり通えてなかった?」
「通えてなかったわけじゃないんだけど……なんというか新鮮だなって」
「新鮮?」
「学校ってこんな場所なんだって、改めて感じたの」
自分の通っている学校とは別の場所を見れば、そういう風に感じるのかもしれない。朝陽も、そういえばこちらに転校して初めて小学校へ足を踏み入れた時、似たような気持ちを抱いたことを思い出す。
建物の構造は似通っているはずなのに、まるで初めて学校を目にするかのようにそわそわとしてしまった。
「ちょっと職員室に寄ってから、見学に行こうか」
「うん」
夏休みだから黙って見学していてもいいと思ったが、さすがに何も聞かされずに他校の生徒である紫乃を目にすれば、教師は何かしらの質問をしてくるだろう。
だから朝陽は、先に職員室へ寄って担任の先生に事情を説明した。担任の先生は今年赴任したばかりではあるが、おおらかな性格をしているため二つ返事で了承を貰えた。
来校者用の首から下げるパスを持って職員室を出る。紫乃は廊下の先に視線を向けていた。
「どうしたの?」
「なんか、演奏が聴こえるなって思って」
「演奏?」
紫乃に言われて、耳をすます。しかし彼女が聴こえているのであろう音は、朝陽の鼓膜には届かなかった。
確かに向こうには音楽室があるが、こちらに音が響かない程度には離れた場所に位置している。朝陽に聞こえるのは、グラウンドから響く、白球を鉄製のバットで打球する音だけだ。
「紫乃ってすごく耳がいいんだね」
「紫乃、昔から耳は結構使ってた方だから」
紫乃が謙遜しないのは珍しいため、おそらく本当に耳がいいのだろう。そういえば最近はイヤホンの普及によって、若者の聴力低下が目立っていることを思い出す。同時にスマートフォンの普及によって、視力が衰えているというのも問題になっているらしい。
紫乃はよく彩にメールを送っているため、どちらかというと視力の方が心配だなと朝陽は思う。といっても、メールを送る時と確認するときにしかスマホを使っているのを見ないため、それほど心配をしなくてもいいのかもしれない。
珠樹は朝陽の前ではスマホをあまり触らないが、家の中では部活の友達と頻繁にメールをすると話していたことがある。そのおかげで、高校入学前に比べて視力が衰えてしまったようだ。
音楽室の方へしばらく歩くと、確かに紫乃の言った通り演奏の音が聞こえてくる。普段はパート練習をすることが多いらしいが、コンクールも近いため合奏練習に時間を当てられることが多くなったと珠樹が話していた。
「これ、なんていう名前の曲なの?」
「確か、ダッタン人の踊りだったかな」
夏休み前に、珠樹が教室で吹奏楽部員と会話をしていた。朝陽と珠樹は同じクラスであるため、自然とその内容は耳に入ってくる。
しばらく音楽室前の壁に寄りかかり、二人は合奏を聴いていた。フルートのゆったりとした演奏の後、オーボエのソロへと移る。珠樹が吹奏楽で吹いているため興味を持ち、何度か朝陽もこの曲を聴いたことがある。このメロディーの部分は、朝陽のお気に入りだった。
しかし、チューバの音はよくわからない。珠樹がいなければ演奏に迫力がなくなるとは思うが、実のところ音に聴き分けなどついていない。わかる人が聴けばわかるのだろうが、朝陽は音楽に関して全くの無知と言っても過言ではないし、仕方がないといえば仕方がない。
それでも、紫乃にはチューバの音が聴こえているのかもしれない。彼女は目を閉じて、音楽室の扉から漏れる様々な楽器の音色に聴き入っていた。
扉の窓からそっと中を窺うと、珠樹が大きなチューバを抱きかかえるように持って、譜面と指揮者に一生懸命食らいついているのが見える。朝陽は心の中で、彼女に『頑張れ』というエールを送った。
先程から紫乃は、目をつぶりながら吹奏楽部の合奏を聴いている。しかし鳴っていた音はピタリと止まり、彼女もそれにつられてゆっくりと目を開く。
指揮をしている先生が、演奏を止める合図を取ったのだ。どうやら誰かがミスをしたらしく、壇上からその指導をしている。
注意されているのは、チューバを持った珠樹だった。
彼女は指揮者に目を向けながら、何度かチラリと音楽室の入り口へ視線を投げている。自分が邪魔をしてしまったのだということが分かり、朝陽は珠樹へごめんと手を合わせた。
珠樹は朝陽のことを軽く睨みつけただけで、それから再び合奏が始まる。
「紫乃たち、邪魔しちゃった……?」
「紫乃たちというか、僕が邪魔しちゃったんだよ。珠樹に悪いし、そろそろ離れよっか」
紫乃がコクリと頷いたのを見て、朝陽は目的を学校案内に切り替えることにした。とは言っても、この学校にだけある珍しい物など一つもない。音楽室があり、美術室があり、体育館があり、グラウンドがある。
ありふれたどんな学校にもある風景だが、紫乃はそのどれにも興味を示し、瞳を輝かせていた。そんな彼女のことを見て、やっぱり連れてきて正解だったと、朝陽は心の中で思った。
校舎の中をある程度回って、いつのまにか二人は音楽室の付近へと戻ってくる。歩きながら、紫乃は儚げな表情でぽつりと呟いた。
「朝陽くんと、一緒の学校に通いたかったな……」
その言葉を聞いて、朝陽は立ち止まる。校舎に響いていた二つの足音は、わずかな間をおいて静かにやんだ。まるで別れを予見しているかのような言葉の響きに、朝陽の心臓は大きく脈打つ。
ふっと湧いてきた春樹に伝えられた話を、心の底に押し込める。今は、現実に向き合いたくなかった。
「……今からでも、通えるんじゃない?」
「え?」
「ほら、大学。一緒の大学を選べば、同じ学校に通えるんじゃないかな」
その魅力的な提案に、紫乃は瞳を輝かせたりはしなかった。まるで、その未来はありえないと確信しているかのように、彼女の表情は落ち込んでいく。
「紫乃が県外に出られないなら、僕が向こうの大学を受験するよ。たぶん一人暮らしも許してくれると思うし、それなら……」
「ごめんね」
言葉を遮るようにして、紫乃は謝罪の言葉を呟く。どうして謝っているのか、朝陽には分からなかった。
彼女は、困ったように不器用に微笑む。
「紫乃は、朝陽くんと同じ大学には通えないの。というより、大学に通えないから。だから、ごめんなさい」
「……そっか」
大学に通えないのは、家庭の事情があるのだろう。
『この前隣町で、事故があったんだ』
大学に通うにはお金がかかる。だから紫乃は、高校卒業後に働くのだろう。
『……乗ってたのは、東雲一家』
だから、仕方がない。
『たしかその中に、東雲紫乃っていう名前が入ってた気がする』
思い出したくもない事実が、朝陽の脳裏にチラつく。そんなことはありえないと、頭の中で必死に否定した。たとえばそれが事実なのだとしたら、目の前にいる彼女は何者なのだ。
彼女は……紫乃はハッキリと昔の出来事を覚えている。
再び会いたくて、朝陽のことを探し出してくれた。
そんな彼女が、存在しないはずの人間だなんて、あり得るはずがない。
「……謝っておかなきゃいけないことがあるの」
遠慮がちに紫乃は呟く。
朝陽と目を合わせたりはしなかった。
「一つだけ、朝陽くんに嘘をついちゃったの……」
「……嘘?」
別に嘘をついたままでも構わない。だから彼女の言葉を止めることも出来たのに、紫乃が真っ直ぐと朝陽を見据えたため、静止の言葉をかけることができなかった。
紫乃はとても申し訳なさそうに、その嘘を正す。それは本当に些細な嘘だった。昨日までの、あの瞬間が訪れる前に知った嘘ならば、これほどまでに朝陽が動揺することはなかっただろう。それこそ、笑って済ませられたはずだ。
しかし事実を知った今では、それは明確な真実となって朝陽に襲いかかった。
「紫乃が引っ越した場所ね、実は彩ちゃんの住んでる遠いところじゃなくて、本当はすぐ隣町に引っ越してたの……」