インターホンの音で朝陽は目を覚ました。目を開けると薄く開いたカーテンの隙間から陽光が差し込んでいて、思わずまぶたを狭める。

 やがて眩しさに慣れた頃に起き上がって、眠気を飛ばすために大きく伸びをした。

 母が起きているだろうと踏んで、朝陽は玄関には向かわずにぼーっとしていると、不意に机の上のスマホがブブブと振動する。こんな朝早くに誰だろうと思い起動させてみると、相手は珠樹だった。

 開いてみると、ボックスに二、三通メールが溜まっている。

『ねえちょっと訊きたいことがあるんだけどっ!』
『今から朝陽の家に行くから』
『ねえ今起きてんの?!』

「うわ、まずい……」

 理由はわからないけれど、珠樹が怒っているのだということは容易に想像できた。おそらく、インターホンを鳴らした主も珠樹なのだろう。

 その答え合せをするように、一階から朝陽を呼ぶ母の声が聞こえてきた。手早く私服に着替えて玄関へ向かうと、愛想笑いを浮かべた珠樹が母と談笑している。制服を着ているから、学校へ部活に向かう途中なのだろう。

 朝陽が来たのを確認すると、母はリビングの方へと引っ込んで行った。同時に珠樹から愛想笑いがスッと消えて、眉が内側に寄り、目元は鋭さを持ち始める。

「ねえ、訊きたいことがあるんだけど」
「えっと、なにかな……」
「昨日、朝美姉から聞いた」

 朝美が何か言ったのだろうか。あの人はいつも適当なことを言うから、朝陽の身体は自然と震え上がる。

「東雲さんが、朝陽の家に泊まったって?」
「あ」

 そういえば珠樹に説明していなかったことを思い出す。朝陽は昨日の経緯を伝えた。

「紫乃が今日までしかホテルの部屋を押さえてなかったんだよ。だから別の場所を探さなきゃいけなくて、それなら僕の家に泊まればって」
「思春期の男の子がいる家に女の子を泊めるなんておかしい」
「でも仕方ないじゃん。それに、紫乃は姉ちゃんの部屋で寝たよ?」
「朝美姉の部屋で寝たからって、朝陽が何も出来ないわけじゃないでしょ」
「なんで僕が手を出すこと前提なの……」

 呆れたようにため息を吐くと、紫乃は肩を怒らせながら詰め寄った。朝陽はびっくりして、半歩ほど身を引く。

「ねぇ、私、中学一年の時以来、朝陽の家に泊まってないんだけど」
「それは珠樹がもう大きくなったから……」
「なんだ、自覚あるんじゃん」

 実は、中学生になって大きくなったから、男の家に外泊を許可しなくなったというわけでもない。もちろんそれも一因ではあるが、最大の要因は珠樹が海で溺れかけてしまったということにある。

 あの出来事以来、珠樹の母は娘に対して少し敏感になってしまった。心配をして怒鳴り散らすというわけではないが、極度に不安を抱くようになったのだ。どこにいるのか、何をしているのかを何度も確認してくる。

 そんな母を不安にさせたくないから、あの出来事以来珠樹は外泊を行なっていない。そういう事情があることは、彼女にも分かっている。

「でも、それとこれとじゃ話が別でしょ? 紫乃を泊めなかったら、最悪野宿になってたかもしれないんだよ?」
「それじゃあ、一度私に相談してくれれば……」
「いやいや、珠樹の家はお父さんが厳しいじゃん……見ず知らずの人を泊めてはくれないでしょ」
「うっ……」

 珠樹は言葉を詰まらせる。朝陽もその選択を一度は考えていたが、すぐに候補から外していた。

 勢いをなくしたようにも見えたが、何かを思い出したのかすぐにまた目元に鋭さが宿る。

「昨日、東雲さんと遊びに行ったんだって?」
「まあ、そうだけど……」
「なんで私も誘わなかったの」
「いや誘ったよ。そしたら部活があるって」
「うっ……」

 すっかり忘れていたのか、苦虫を噛み潰したような表情になった。なんだか珠樹を責めているような気分になってきて、朝陽は申し訳ない気持ちになる。

 自分の説明不足だったなと反省した。

「……朝陽くん、どうしたの?」

 そうこう話しているうちに、紫乃が玄関から出てきた。寝起きなのか眠気まなこをこすっていて、朝陽の目の前にいる珠樹には気づいていない。

「なんか、外から朝陽くんの声が聞こえてきて……それで紫乃、気になって……」
「ごめんちょっと珠樹と話してたんだ」
「……珠樹?」

 眠気まなこのままゆらゆらと近付く。目が合うと珠樹は一度会釈をした。しかし紫乃は会釈をせずに目を丸めて、突然ふらっと身体が揺れる。

 すぐにそれに気付いた朝陽は、慌てて紫乃のことを抱きとめた。

「紫乃、大丈夫?!」
「うわ、あ、ごめん」

 朝陽の腕の中にいる紫乃は、何が起きたか分からないといった風に目を丸めて驚いていた。そして自分が抱きしめられているということに気付き、薄っすらと耳が赤くなる。

 珠樹も紫乃へ近寄った。

「ちょ、ちょっと、東雲さん大丈夫?」
「あ、玉泉さん……おはようございます……」
「おはようございます……じゃなくて! もしかして体調悪いの?」
「体調は悪くないと思いますけど……」

 そう言うと、お礼を言った後に朝陽から離れた。珠樹はすぐに、紫乃のおでこに手のひらを当てて検温する。突然手を当てられた彼女は、くすぐったそうに身をよじって目をつぶっていた。

「熱はないね」
「紫乃、大丈夫?」
「あ、うん。全然平気だよ。ほらすごい元気!」

 紫乃は二人の前で腕をぶんぶんと振り回している。なんだか子どもっぽくて可愛いなと感じたが、朝陽はすぐに我に返った。

「ほんとに、隠してない?」
「体調は大丈夫だって。寝ぼけてたからちょっとふらついただけ」
「朝陽、たぶん体調はどこもおかしくないと思うよ」

 その手で検温した珠樹が言うなら間違いはないのだろう。取り越し苦労ならそれでいいのだが、万が一のことを考えてしまうと不安の気持ちが押し寄せてくる。

「てか、ごめん。感情的になってた……玉泉さんも起こしちゃったし」
「僕は気にしてないよ」
「私も気にしてません」

 二人はそう言うが、珠樹は反省しているのか、いつもより身体を縮こませていた。そんな彼女を見て、紫乃は首をかしげる。

「玉泉さんは、朝陽くんと何のお話をしていたんですか?」
「お話っていうか……私が一方的に話してたっていうか……」

 上手い言葉が見つからないのか、なかなか声に乗らずに口の中でもぐもぐしている。珠樹がこんなに言い淀むのは珍しいため、朝陽は助け舟を出すことにした。

「紫乃が無事に眠れてたか心配してたみたいだよ。一応男の僕が住んでる家だし、それに姉ちゃんとかも……」

 紫乃はハッキリとは言わずに、苦笑いを浮かべる。やはり朝美の横ではぐっすり眠れなかったのだろう。

「朝美姉の寝息すごいからね」
「あ、いえ、でも朝陽くんのおかげで結構ぐっすり眠れたんですよ」

 珠樹はキッと朝陽を睨んだ。

「だから違うってば。眠れるようにココアを作ってあげただけ」
「へえ優しいんだね」

 嫌味を言っているかのような、感情のこもっていない声。また怒らせてしまっているのだということはすぐにわかった。

「というか珠樹部活は? コンクール近いんじゃないの?」
「おいなんだ、私が部活に行ってほしいのか?」

 朝陽はすぐに頷く。心の中には他意など一つもなかった。

「今日は行かない。私休む」
「えっ」
「たまには休息も必要だと思うんだ。毎日吹いてると唇が痛い」

 一昨日に十分休んだじゃないかとツッコミたくなったが、朝陽は何も言わずに黙っておくことにした。珠樹は基本的に一度決めたことは曲げないし、しつこく言えば不機嫌になってしまう。今も十分不機嫌ではあるが。

「というわけで今日は三人で出かけよう。紫乃ちゃんはどこに行きたい?」
「あ、え、私ですか?」

 チラと窺うように紫乃は朝陽を見る。
名前で呼ばれたことにやや戸惑っているようにも見えるが、何か伝えたいことがあるようにも見えた。

 とりあえず、紫乃の判断に任せるよということで、一度首を縦に振った。

「あの、私は、どこでも……朝陽くんと玉泉さんの行きたいところで……」
「紫乃ちゃんそんなにかしこまらなくていいよ。あと私のことは普通に珠樹でいいからね!」

 いつものように、珠樹は恐れることなく相手との心の距離を一気に詰める。朝陽としては二人が仲良くなってほしいし、紫乃にも友達が出来て欲しいため、珠樹の性格に感謝していた。

 しかし紫乃はまだ打ち解けることが出来ないのか、やや戸惑いの残った表情で不器用に微笑んだ。

「じゃあ、珠樹さん」
「よしきた! それじゃあ山行こう! 川行こう! 花火しよう!」
「え、本当に山に行くの?」
「タリメーだろこら! ほら朝陽、十秒で支度しな!」
「いやいや無理だって……せめて二十分ぐらい時間ちょうだいよ」

 そう言いつつも、珠樹が急かすため十分以内に用意を済ませて玄関前に戻ってきた。

 そして珠樹は紫乃の手をガシッと掴み、先導するように歩き出す。その強引さに紫乃は目を丸めていたが、やがて自然な笑みがこぼれ始める。

 二人が打ち解けられそうで、朝陽も安心した。