あれから二日ばかりが経った。
日課になりつつあった東雲家の訪問は二日前に途切れ、ぼんやりとテレビを見て過ごす生活が続いている。姉の朝美はよく外へ遊びに行くが、今日は珍しく朝陽の隣に座って一緒にテレビを見ていた。
「あさひ、友達いないの?」
「はるきくん」
「じゃあはるきくんと遊びに行ってくれば?」
「はるきくんとはこの前、キャッチボールして遊んだから」
「毎日遊びに行けばいいじゃん」
「今日はクラスのお友達と遊んでるんだって」
「混ぜてもらえば?」
「その人と僕はちがうクラスだから」
「じゃあべつの友達は?」
「……」
その姉からの質問に朝陽は黙り込む。
小学一年の朝陽には、休日に遊びに行くほどの友達は、春樹という幼馴染しかいなかった。
「仕方ないなぁ、あさみが遊んだげる」
「え、いいの?」
「今日はすんごい暇だからね」
そう言って朝美は部屋に戻り、可愛いアニメ柄がプリントされたトランプを持ってくる。たまに姉が遊んでくれることが、朝陽は嬉しかった。バリエーションは少なく基本的にトランプぐらいだが、大好きな姉と遊べるならそんなことはどうでもいい。
それから一時間ほどの間、二人でトランプをして遊んだ。久しぶりに朝陽の表情に笑顔が戻り、それを見た朝美は安心したように微笑む。
いつもより気分の落ち込んでいる弟を見て、何か元気付けてあげたかったのだろう。友達と海に遊びに行く約束を、一週間前に母へ話していたことを、笑顔の朝陽が思い出すことはなかった。
途中母が加わって、二人の輪は三人に増える。笑顔の息子を見て、母はホッとした表情を見せた。
ふと紫乃の部屋でした会話を思い出し、朝陽は質問を投げかける。
「宝箱のカギをなくしちゃったら、どうすればいいのかな。カギをなくしちゃったら、もう一生、中の綺麗なものを見ることができないもん」
「あさひ、なんか難しいこと考えてるんだね」
朝美はよくわからないといった風に首をかしげる。幼い朝陽にも、実はよくわかってはいない。
母は言った。
「それじゃあ、もっと綺麗なものを二人で見つければいいのよ。それか、一緒にカギを探してあげるとかね」
「でも、その子はお外に出られないよ?」
「それでも綺麗なものは見つけられると思うわ」
大人の言うことはよくわからない。閉ざされた部屋の中で、綺麗なものを見つけることなんて出来るはずがないのだから。
「うーん。じゃあ、お母さんが朝陽に宿題を出してあげる」
「え、宿題……」
「大丈夫よ。ただ絵本を読むだけだから」
宿題と聞いて顔をしかめる朝陽にくすりと微笑んだあと、母はリビングを離れてどこかへ行った。やがて三分後ぐらいに戻ってくると、その手には一冊の絵本が握られていた。
「これ、読んでみなさい。今のあなたにきっと必要な本だから」
そう言われて恐る恐る開いてみると、たしかに母の言った通りそれは朝陽にも馴染みのある一冊の絵本だった。
「あさひ、小学生にもなって絵本読むの? 子どもだね」
「でもそれ、お母さんの本よ?大人でも絵本を読んでいいと思うけどなぁ」
母はニコニコと微笑む。子どもにとって親の言葉は絶対に等しい。子どもみたいだとバカにしたけれど、母が読むならと思ったのか、朝美も「あさみも読む。終わったら貸してね」と朝陽へお願いした。
宿題と言われて身構えてしまったが、母の言葉を信じて少しでも読んでみようという気になった。さっそくその絵本を持って自分の部屋へとこもる。
あらためて題名を見てみると、それは一部が漢字で書かれていて、小学生の朝陽には読むことができなかった。
「……の……こさま?」
やはりお母さんのくれた本は難しいじゃないかと投げ出してしまいそうになったが、少しだけだと言い聞かせて一ページ目を開いてみる。表紙と違い本文にはしっかりとルビが振ってあり、朝陽でも難なく読むことができた。
そして読み進めて行くうちに、その本のタイトルが星の王子さまであるということを理解する。内容は、ある星の王子さまがいろいろな星へ旅に行くというもの。
その旅の中では、色々な人物との出会いがある。星から星へ旅をするというのは面白みがあったが、朝陽にはその物語の本質は半分ほども理解することができなかった。
半ばくじけそうになって退屈さを感じてきた時、王子さまは地球へとやってくる。そこでとあるキツネと出会い、大切なことを教えられた。
その言葉を読んだ時、母が伝えたかったのはこの一文なのだと理解できた。
「いちばんたいせつはものは、目には見えない……」
それはきっと、人と人との繋がりのことを言っているのではないかと朝陽は思った。人との繋がりは、絶対に目で見ることができない。一番綺麗で、純粋で、大切なものだからこそ、神様は目には見えない場所に隠してしまったのだ。
だとするならば、それを紫乃にも教えてあげたい。そして今度こそ友達になって、いつか一緒に海へ行くのだ。
パタンと絵本を閉じて、母に何も言わずに家を飛び出す。紫乃の家は、もう完全に覚えていた。
十分も経たないうちに見慣れた一軒家に辿り着き、迷わずにインターホンを鳴らす。紫乃の母が玄関から出てくる時間すらもどかしく、無意識のうちに両足で地面を叩いていた。
やがて玄関から母が出てくると、朝陽はまくしたてるように用件を伝えた。その必死な姿に動揺しているようにも見えるが、二日ぶりに来てくれたこともあって母は安堵の表情を作っている。
紫乃の部屋に通された朝陽は、迷わずにベッドの側へと近寄った。びくりと芋虫が震える。
「もうこないでって言ったじゃん……」
「やだ」
明らかな拒絶を突っぱねた。
そして持ってきた本を広げる。
「今日はしののために、ある本を持ってきたよ」
「いらない。どうせ、しのが聞いても悲しくなるだけだもん」
「そんなことない」
拒否の言葉を無視して、今度は声を出して絵本を読み始めた。様々な星を巡る王子さまのお話。その旅の果てである地球。最後に出会ったキツネから教わった言葉。
「いちばんたいせつはものは、目には見えない」
その全てを読み終わり絵本を閉じると、部屋の中に静寂が訪れた。お互いの息遣いさえも鮮明に聞こえてきて、もしかすると紫乃は寝ているんじゃないかと不安になる。
しかしすぐに、布団の中からすんという鼻をすする音が聞こえてきた。泣いている。すぐに朝陽はそれを理解した。
「あ、あの、しの……?」
自分が強引だったかもしれないと不安になる。また逃げ出したくなってしまったが、今度こそ持ちこたえた。泣かせてしまったなら、最後には謝らなきゃいけない。これも朝陽が母から学んだ言葉だった。
「しの、ごめん……」
それが聞こえていたのかはわからない。
だけど紫乃はゴソリと布団を揺らしたかと思えば、その中からひょっこり顔だけを覗かせる。
まっすぐと、朝陽はその少女を見た。しかし彼女は恥ずかしいのか、朝陽と目線を合わせてはくれない。
涙でぐちゃぐちゃになっているが、写真で見た通りの女の子だった。まるで、世界の優しいものを全て詰め込んだかのような、かわいらしい少女。触れてしまえば壊れてしまいそうな危うさを秘めているが、それでも朝陽はその女の子と触れ合いたかった。
「ねぇ、僕と……」
友達になってほしい。
その言葉に紫乃が頷いたのを見て、朝陽はやっぱりちょっとだけ泣いた。
そして二人は約束をする。いつか、たいせつなものを探しに行く旅に出ようと。その約束に今度こそ紫乃は頷いた。
それから朝陽は毎日のように紫乃の家に通っては、図書館で借りてきた絵本を読み聞かせた。世界のいろんなものを見たことがない紫乃は、どんなものにでも興味を示している。
たとえばそれは道に咲くタンポポであったり、暗闇でパチパチと弾ける花火だったり。自分の知っているなるべく多くのことを紫乃に教えてあげた。
紫乃はその全てに興味を示したが、決して朝陽と目を合わせようとはしなかった。そのことに、朝陽は最後まで気付きはしなかった。
彼女は身体が弱いのか、ベッドで寝転がって咳をしていることが多い。そんな時、朝陽は紫乃の母に薬をもらって、彼女に飲ませてあげたりもした。
そういう日が何日か過ぎた頃、その日は突然やってくる。紫乃が突然どこか遠くの場所へ引っ越していった。
その事実を知った朝陽は、部屋の中で泣き崩れる。どうしてこんなことになってしまったのか。もしかすると、僕が何かをしたのかもしれない。そんなとりとめのない、確認も出来ない事柄が、いくつもいくつも朝陽の頭の中に浮かんでくる。
もう会えないのだと悟ったある日、あの輝かしい思い出を全て忘れようと決心した。
そして月日が経ち、新たな引っ越し先で玉泉珠樹という女の子に出会う。その少女は、嵐のように激しくてわんぱくな女の子だった。
日課になりつつあった東雲家の訪問は二日前に途切れ、ぼんやりとテレビを見て過ごす生活が続いている。姉の朝美はよく外へ遊びに行くが、今日は珍しく朝陽の隣に座って一緒にテレビを見ていた。
「あさひ、友達いないの?」
「はるきくん」
「じゃあはるきくんと遊びに行ってくれば?」
「はるきくんとはこの前、キャッチボールして遊んだから」
「毎日遊びに行けばいいじゃん」
「今日はクラスのお友達と遊んでるんだって」
「混ぜてもらえば?」
「その人と僕はちがうクラスだから」
「じゃあべつの友達は?」
「……」
その姉からの質問に朝陽は黙り込む。
小学一年の朝陽には、休日に遊びに行くほどの友達は、春樹という幼馴染しかいなかった。
「仕方ないなぁ、あさみが遊んだげる」
「え、いいの?」
「今日はすんごい暇だからね」
そう言って朝美は部屋に戻り、可愛いアニメ柄がプリントされたトランプを持ってくる。たまに姉が遊んでくれることが、朝陽は嬉しかった。バリエーションは少なく基本的にトランプぐらいだが、大好きな姉と遊べるならそんなことはどうでもいい。
それから一時間ほどの間、二人でトランプをして遊んだ。久しぶりに朝陽の表情に笑顔が戻り、それを見た朝美は安心したように微笑む。
いつもより気分の落ち込んでいる弟を見て、何か元気付けてあげたかったのだろう。友達と海に遊びに行く約束を、一週間前に母へ話していたことを、笑顔の朝陽が思い出すことはなかった。
途中母が加わって、二人の輪は三人に増える。笑顔の息子を見て、母はホッとした表情を見せた。
ふと紫乃の部屋でした会話を思い出し、朝陽は質問を投げかける。
「宝箱のカギをなくしちゃったら、どうすればいいのかな。カギをなくしちゃったら、もう一生、中の綺麗なものを見ることができないもん」
「あさひ、なんか難しいこと考えてるんだね」
朝美はよくわからないといった風に首をかしげる。幼い朝陽にも、実はよくわかってはいない。
母は言った。
「それじゃあ、もっと綺麗なものを二人で見つければいいのよ。それか、一緒にカギを探してあげるとかね」
「でも、その子はお外に出られないよ?」
「それでも綺麗なものは見つけられると思うわ」
大人の言うことはよくわからない。閉ざされた部屋の中で、綺麗なものを見つけることなんて出来るはずがないのだから。
「うーん。じゃあ、お母さんが朝陽に宿題を出してあげる」
「え、宿題……」
「大丈夫よ。ただ絵本を読むだけだから」
宿題と聞いて顔をしかめる朝陽にくすりと微笑んだあと、母はリビングを離れてどこかへ行った。やがて三分後ぐらいに戻ってくると、その手には一冊の絵本が握られていた。
「これ、読んでみなさい。今のあなたにきっと必要な本だから」
そう言われて恐る恐る開いてみると、たしかに母の言った通りそれは朝陽にも馴染みのある一冊の絵本だった。
「あさひ、小学生にもなって絵本読むの? 子どもだね」
「でもそれ、お母さんの本よ?大人でも絵本を読んでいいと思うけどなぁ」
母はニコニコと微笑む。子どもにとって親の言葉は絶対に等しい。子どもみたいだとバカにしたけれど、母が読むならと思ったのか、朝美も「あさみも読む。終わったら貸してね」と朝陽へお願いした。
宿題と言われて身構えてしまったが、母の言葉を信じて少しでも読んでみようという気になった。さっそくその絵本を持って自分の部屋へとこもる。
あらためて題名を見てみると、それは一部が漢字で書かれていて、小学生の朝陽には読むことができなかった。
「……の……こさま?」
やはりお母さんのくれた本は難しいじゃないかと投げ出してしまいそうになったが、少しだけだと言い聞かせて一ページ目を開いてみる。表紙と違い本文にはしっかりとルビが振ってあり、朝陽でも難なく読むことができた。
そして読み進めて行くうちに、その本のタイトルが星の王子さまであるということを理解する。内容は、ある星の王子さまがいろいろな星へ旅に行くというもの。
その旅の中では、色々な人物との出会いがある。星から星へ旅をするというのは面白みがあったが、朝陽にはその物語の本質は半分ほども理解することができなかった。
半ばくじけそうになって退屈さを感じてきた時、王子さまは地球へとやってくる。そこでとあるキツネと出会い、大切なことを教えられた。
その言葉を読んだ時、母が伝えたかったのはこの一文なのだと理解できた。
「いちばんたいせつはものは、目には見えない……」
それはきっと、人と人との繋がりのことを言っているのではないかと朝陽は思った。人との繋がりは、絶対に目で見ることができない。一番綺麗で、純粋で、大切なものだからこそ、神様は目には見えない場所に隠してしまったのだ。
だとするならば、それを紫乃にも教えてあげたい。そして今度こそ友達になって、いつか一緒に海へ行くのだ。
パタンと絵本を閉じて、母に何も言わずに家を飛び出す。紫乃の家は、もう完全に覚えていた。
十分も経たないうちに見慣れた一軒家に辿り着き、迷わずにインターホンを鳴らす。紫乃の母が玄関から出てくる時間すらもどかしく、無意識のうちに両足で地面を叩いていた。
やがて玄関から母が出てくると、朝陽はまくしたてるように用件を伝えた。その必死な姿に動揺しているようにも見えるが、二日ぶりに来てくれたこともあって母は安堵の表情を作っている。
紫乃の部屋に通された朝陽は、迷わずにベッドの側へと近寄った。びくりと芋虫が震える。
「もうこないでって言ったじゃん……」
「やだ」
明らかな拒絶を突っぱねた。
そして持ってきた本を広げる。
「今日はしののために、ある本を持ってきたよ」
「いらない。どうせ、しのが聞いても悲しくなるだけだもん」
「そんなことない」
拒否の言葉を無視して、今度は声を出して絵本を読み始めた。様々な星を巡る王子さまのお話。その旅の果てである地球。最後に出会ったキツネから教わった言葉。
「いちばんたいせつはものは、目には見えない」
その全てを読み終わり絵本を閉じると、部屋の中に静寂が訪れた。お互いの息遣いさえも鮮明に聞こえてきて、もしかすると紫乃は寝ているんじゃないかと不安になる。
しかしすぐに、布団の中からすんという鼻をすする音が聞こえてきた。泣いている。すぐに朝陽はそれを理解した。
「あ、あの、しの……?」
自分が強引だったかもしれないと不安になる。また逃げ出したくなってしまったが、今度こそ持ちこたえた。泣かせてしまったなら、最後には謝らなきゃいけない。これも朝陽が母から学んだ言葉だった。
「しの、ごめん……」
それが聞こえていたのかはわからない。
だけど紫乃はゴソリと布団を揺らしたかと思えば、その中からひょっこり顔だけを覗かせる。
まっすぐと、朝陽はその少女を見た。しかし彼女は恥ずかしいのか、朝陽と目線を合わせてはくれない。
涙でぐちゃぐちゃになっているが、写真で見た通りの女の子だった。まるで、世界の優しいものを全て詰め込んだかのような、かわいらしい少女。触れてしまえば壊れてしまいそうな危うさを秘めているが、それでも朝陽はその女の子と触れ合いたかった。
「ねぇ、僕と……」
友達になってほしい。
その言葉に紫乃が頷いたのを見て、朝陽はやっぱりちょっとだけ泣いた。
そして二人は約束をする。いつか、たいせつなものを探しに行く旅に出ようと。その約束に今度こそ紫乃は頷いた。
それから朝陽は毎日のように紫乃の家に通っては、図書館で借りてきた絵本を読み聞かせた。世界のいろんなものを見たことがない紫乃は、どんなものにでも興味を示している。
たとえばそれは道に咲くタンポポであったり、暗闇でパチパチと弾ける花火だったり。自分の知っているなるべく多くのことを紫乃に教えてあげた。
紫乃はその全てに興味を示したが、決して朝陽と目を合わせようとはしなかった。そのことに、朝陽は最後まで気付きはしなかった。
彼女は身体が弱いのか、ベッドで寝転がって咳をしていることが多い。そんな時、朝陽は紫乃の母に薬をもらって、彼女に飲ませてあげたりもした。
そういう日が何日か過ぎた頃、その日は突然やってくる。紫乃が突然どこか遠くの場所へ引っ越していった。
その事実を知った朝陽は、部屋の中で泣き崩れる。どうしてこんなことになってしまったのか。もしかすると、僕が何かをしたのかもしれない。そんなとりとめのない、確認も出来ない事柄が、いくつもいくつも朝陽の頭の中に浮かんでくる。
もう会えないのだと悟ったある日、あの輝かしい思い出を全て忘れようと決心した。
そして月日が経ち、新たな引っ越し先で玉泉珠樹という女の子に出会う。その少女は、嵐のように激しくてわんぱくな女の子だった。