朝陽がその綺麗な少女と出会ったのは、夏休みの学校から下校しているときのことだった。

 白のワンピースを着ている彼女の肌は陶器のように美しく、朝陽を見つめる大きな瞳は吸い込まれそうなほどに深い色をしている。

 夏の日差しがアスファルトへ照りつける中、彼女は白い日傘を差しながら、気の良さそうな笑みを浮かべて彼へ近付いた。

 右手にはキャスター付きの大きな旅行カバンが握られていて、地面をゴロゴロと打ち鳴らしている。

「あの、少し話を伺ってもいいですか?」

 それが自分に向けられた言葉だと理解できなかった朝陽は、数度視線をさ迷わせた後、自分と彼女以外の人間がここにいないことをようやく悟り「え、僕?」と間抜けな声を出した。

 彼女はくすりと笑う。

「ごめんなさい、突然話しかけてしまって。自己紹介をしなきゃいけないですよね」

 そう言った彼女は一度口を開きかけ、止まった。おそらく名前を口にしようとしたのだろう。しかし彼女の口から飛び出したのは「あ、」という一文字だけだった。何か、忘れかけていたことを唐突に思い出したかのような表情をしている。

 それから彼女はやや照れたように微笑み、唇に綺麗な指を添えた後「すいません」と謝った。

 そして改めて自己紹介を始める。

「東雲紫乃です。実はとある方を探していて、この浜織にやってきました」

 東雲紫乃。

 その名前を聞いた朝陽は、雷に打たれたかのような衝撃を受けた。

 再び朝陽は、間抜けな声で「え、紫乃……?」と、今度は問い返す。
 紫乃と名乗った彼女は「はい、東雲紫乃です」ともう一度自己紹介した。

「実は、麻倉朝陽さんという方を探しているんです。ご存知ないでしょうか?」
「僕、だけど……」
「えっ?」

 紫乃は大きく目を丸める。何を言っているのか、自分の中でうまく飲み込めていないかのような表情だった。

 しかし一瞬の間を置いて、紫乃は我にかえる。

「朝陽、くん?」
「うん。紫乃、だよね? 小学校の頃に一緒に遊んでた」

 正直なところ、朝陽に確信はなかった。

 現に目の前の少女を見たとき、彼女が紫乃であると認識することができなかったのだから。

 紫乃と朝陽が別れたのはもう十年も前の出来事で、しかも一緒にいた時間はそれほど長くない。名前を覚えていることはあっても、容姿が変わってしまえば判別することは困難だ。

「うわ、ごめん。まさか、一番初めに話しかけた人が朝陽くんだって思いもよらなかったなぁ。失礼なことしちゃったかも」

 途端に敬語が抜けて、朝陽は思わず胸の高鳴りを覚える。久しぶりに再会した幼馴染にどういう表情をしていいのか困り、同時に紫乃も困ったように頬をかいた。

「ごめん、僕も紫乃だって気がつかなかった。失礼だったよね」
「ううん、仕方ないと思う。だって、本当に久しぶりなんだし」
「十年ぶり、ぐらいだよね。元気だった? え、というよりなんで僕がここにいるって分かったの?」
「えっと、それはね……」

 紫乃がその先を言おうとした時、朝陽の歩いてきた方向から大きな女の子の声が響いた。それに気を取られた紫乃は、やや身体を横にズラして朝陽のそばから彼女を覗き込む。

「朝陽ー! 待って待ってー!」

 朝陽が振り返ると、そこには長いポニーテールを揺らして手を振りながら走ってくる、玉泉珠樹の姿があった。友達を見つけたことに安堵しているのか、いつも以上に元気な笑顔を見せている。

 やがて追いついた珠樹は、朝陽の前にピタリと立ち止まる。全力疾走していたというのに一つも息を切らしていないのは、彼女が中学の頃に陸上部に入っていたからだ。

「いやぁ、夏休みの登校日で午前中に終わるって言うのに吹部のミーティングだなんて、顧問の先生も厳しいよねーこんな時ぐらい早めに帰らせろっての。あーお腹空いた、朝陽これからなんか食べに行こうよ! 私カレー好きなんだよね! 駅前に美味しいカレー屋さんができたって、友達が……」

 そこでようやく彼女の存在に気付いた珠樹は、紫乃と同じく朝陽の横から訝しげな表情で覗き込んだ。

「え、その人誰。超美人」

 それは思わず漏れてしまった珠樹の本音なのだろう。何故か少し悔しげな表情をして、説明を求めるべく朝陽を軽く睨んだ。

 朝陽はそんな珠樹の表情を見て怯みながらも、幼馴染を紹介する。

「珠樹には話してなかったっけ。紹介するよ。僕が前に住んでたとこで一緒に遊んでた、東雲紫乃さん。と言っても、ほんの数週間だけなんだけど」

 紫乃は日傘を閉じて小さくお辞儀をしたあと「初めまして、東雲紫乃です」と挨拶した。

「それでこっちが僕の友達の、玉泉珠樹。浜織に引っ越してきてからの友達で、今も同じクラスなんだ」
「よ、よろしくお願いします」

 珠樹にしては珍しく控えめだなと、朝陽は思った。

 いつもなら元気に自己紹介をして、朝陽の背中を笑顔でバシバシ叩いているところだ。何故叩かれるのかは、実は朝陽自身もよくわかっていない。

 しかし、珠樹はある日を境にそういう過剰なスキンシップをあまり取らなくなった。珠樹曰く「大人になった」ということらしい。

 その幼馴染の変化を、朝陽は少しだけ寂しく思っている。

「玉泉珠樹さんですね。よろしくお願いします」

 上品な笑顔を向けられた珠樹は一歩たじろぎ、「うっ……」という声にならない声を発した。どうしたのだろうと思い朝陽が顔を覗き込むと、今度はギロリと睨みつけられる。かと思えば、すぐに引きつった笑みを浮かべた。

「へ、へぇ幼馴染なんだぁ。そっかそっか、でも十年も前だしね! もうほとんど覚えてないんじゃない?」
「朝陽くん、絵本を読んでくれたよね」
「そうだったっけ?」
「ほら! もう十年も前だし! 朝陽が覚えてないのも仕方ないよ!」

 しかし珠樹の言葉に反し、朝陽はすぐにあることを思い出して、懐かしそうに手を叩いた。

「そういえば、読んだ気がするかも。たしか、星の王子さま」
「うっ……」
「あれ、どうしたの珠樹?」
「なんでもない!」

 子どものようにふてくされた珠樹を見て、朝陽はどうしたものかと迷った。こういう時の珠樹は何をしても不機嫌な態度を示すから、自然に元通りになるのを待つしかない。

 そうは言っても、紫乃が目の前にいるのだからそういうわけにもいかなかった。

「あ、もしかしてカレーが食べたいの? さっき駅前にカレー屋さんができたって言ってたよね」
「別にカレーなんて好きじゃない」
「え、さっきカレーが好きだって……いでっ!」

 珠樹の履いているスニーカーで足を踏まれた朝陽は、痛みから苦悶の表情を浮かべる。紫乃の見えない位置で足を踏まれまから「え、どうしたの?」と言って目を丸めた。

「ご、ごめん。いつものことだから……」
「えっと……なにが?」
「うん、こっちの話……」

 きっと自分の言葉が癇に障ってしまったんだろうと反省した朝陽は、謝るべく珠樹にちらりと視線を向けた。しかし見えたのは大きなポニーテールだけで、不機嫌なのかそっぽを向いている。

 今は無闇に触れずそっとしておこうと考え、朝陽は先ほどの質問をもう一度紫乃へ投げかけた。

「そういえば、どうして僕がここにいるって分かったの?」
「あ、うん。実は友達に探すのを手伝ってもらったの。綾坂彩さんって言うんだけど」
「綾坂さん?」

 その名前を朝陽は聞いたことがなかった。ということは、二人の共通の知り合いではないということだ。

「最近出来た友達だよ。私と朝陽くんが住んでた場所を教えて、綾坂さんが探してくれたの。それで朝陽くんの昔の友達を見つけて、こっちに引っ越したことがわかったの」
「ああ、そうだったんだ」
「まさか、朝陽くんも引越しをしてるとは思わなかったなぁ」
「小学五年の頃に、家の事情でこっちに引っ越したんだよ」
「ということは、珠樹さんとはその頃からの友達?」

 会話の中に入れていないことを気遣ってか、紫乃は珠樹へ質問を投げた。当の珠樹は視線だけを紫乃の方へ向け、コクリと頷きを返しただけだった。

 そっとしておいたほうがいいと思ったが、この際二人が仲良くなれればと思い、朝陽はお節介を焼くことにした。

「こっちに転校してきた時、一人で席に座ってたところを珠樹が真っ先に話しかけてくれたんだよね」
「そんなの忘れた」
「僕は覚えてるよ。心細くて不安な時に、誰よりも先に話しかけてくれたんだから」

 その放課後に体育館へ連れていかれて、何故かプロレス技の練習台にさせられたことは、朝陽は黙っていることにした。
 前日の夜にお父さんとテレビでプロレスの試合を見たらしく、女の子なのにそれをかっこいいと思ってしまったようだ。

「ああ、なんかそんなことあったかも……」
「でしょう? 他にも、僕って走るの遅いから、中学一年の運動会前に練習に付き合ってくれたよね」

 何度も走らされて、目標タイムを超えられなかったらお尻を蹴られたりしたことも、同じく黙っていることにした。それでも、そこまで気の許せる仲の良い友達は、朝陽が浜織へ引っ越してきてからは珠樹一人だけだった。

 珠樹は普段から褒められるのに慣れていないのか、頬を赤く染めていた。

「ほら、他にも……」
「うるさいバカ朝陽! 人の個人情報をベラベラ話すな!」
「ええ?!」

「褒めたのにどうして怒るの?!」と、朝陽は珠樹へツッコミを入れる。

 そのやりとりが面白かったようで、紫乃は二人を見て口元を押さえながらクスクスと笑った。

「二人は本当に仲が良いんだね。羨ましいなぁ」
「別に普通だし! 普通に仲が良いだけだから」
「それでも、羨ましいよ。私って、今まであんまり友達が作れなかったから」

 紫乃の表情に一瞬陰りが差したのを、朝陽はもちろん、珠樹も見逃したりしなかった。触れたらダメなものに触れてしまったと思ったのか、珠樹は助けを求めるように朝陽を見た。

 朝陽は伺うように紫乃を見る。

「もしかして、まだ……?」
「あ、ううん。それはもう大丈夫。前とは違ってたくさん遊びに行けるようになったし。こんな風に旅行に来れるようにもなったから。めでたく完治したの」

 その言葉に安心して、朝陽はホッと胸を撫で下ろした。紫乃の持っている大きな旅行カバンからして、長期間の旅行を想定しているのだろう。

 珠樹は不意に朝陽の制服の袖を引っ張り、耳元で小声で囁いた。

「ごめん……」

 珠樹は何も知らないんだから仕方ないよと、朝陽は視線で伝えてあげた。

 そうしているうちに、紫乃は腕に巻いていた時計を確認して「あ、もうこんな時間なんだ」と、少し焦ったような声を出した。

「この後、何か予定あるの?」
「うん。お母さんに電話しなきゃいけないの。あと荷物も重いから、予約してたホテルに置いておこうと思って」
「え、ホテルに泊まるの?」
「ホテルって言っても、安いビジネスホテルだよお金ないし」

 高校生なのに一人でホテルへ泊まっても大丈夫なのだろうか。朝陽はそんなことを思ったが、紫乃が近付いてポケットからスマホを取り出したから、意識はそちらへ向けられた。

「というわけで、連絡用にメアド教えて。私、朝陽くんの住所も分からないし」
「あ、うん」

 朝陽もスマホを取り出して、すぐにメールアドレスを交換する。それから紫乃は、珠樹にもメールアドレスの交換をお願いした。まさか自分にも言ってくるとは思わなかったのか、珠樹は戸惑いながらも言われた通りにアドレスを交換した。

 それから紫乃はお礼を言ったあとに二人から離れ、人懐っこい笑みを浮かべた。

「今日はありがとね。それじゃあ、後でまたメールするよ」
「あの、」

 それを言いかけて、止まった。

 いいのだろうかと、朝陽は迷う。昔馴染みの友達で、久しぶりに再会して、一人でホテルに泊まると言っている女の子を、自分の家に誘ってもいいのだろうかと。