記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕

 華怜は嬉野さんに懐いたのかもしれない。
 お誘いに頷くと、嬉野さんは今日一番の笑みを浮かべてくれた。
 しかし喫茶店を出た後、華怜は思い出したかのように僕への態度を急変させた。
 先ほどまでは少し機嫌が元に戻りかけていたのに、僕からは微妙な距離を取って、目を合わせようとすれば気まずそうにぷいっと反対方向を向く。
 それでも嬉野さんに対してはいつも通りの反応を示していたから、雰囲気が悪くなることはなかった。僕がただ黙っていれば、嬉野さんも変には思わないだろう。
 僕は邪魔をしないように半歩ほど後ろを歩いた。近付こうとしても、反発する磁石のように遠のいてしまうのだ。仕方ないと思う。
 駅前の本屋はショッピングモールの五階にある。七階には映画館もあり、新作の映画が公開されたのか客足も多い。
 エレベーターで五階まで一気に登る。
 本屋の中は雑貨屋と複合していて、それなりに開放感があった。手前には雑誌棚が置いてあり、中高生が漫画の週刊誌を立ち読みしている。
 そこを抜けると右手には漫画コーナー、左手には小説コーナーと分かれていて、迷いなく嬉野さんが左手へ吸い寄せられていったから僕もついて行く。
 初めは文庫本コーナーに入り、嬉野さんがオススメの小説を文字通り片っ端から教えてくれた。次々と棚から本を引き出しては、その小説の良い部分・悪い部分を笑顔で語ってくれたのだ。
 オススメする小説はどれも面白そうで、多分それは嬉野さんがオススメしてくれているからなのだとすぐにわかった。
 本当に本が好きだから、その良さを僕らにも知ってほしい。そんな気持ちが会話の節々から溢れて見えるから、興味が惹かれるのだ。
 僕も本が好きだけれど、きっと嬉野さんほど夢中になれていない。そんなに夢中になれるのは、喫茶店で言っていた通り、ずっと本に囲まれて生活してきたからなのだろう。
 華怜もこの時ばかりは隣にいる僕のことを忘れて、嬉野さんの話を聞き入っていた。
 そんな嬉野さんは、『生き別れになって死んでしまった妹が主人公の元へ会いに来て、果たせなかった約束を守りにくる』というあらすじの小説をオススメしている時、ふいに頬を赤らめて恥じらいを見せた。
 どうしたんだろうと思い僕と華怜が首をかしげると、申し訳なさそうに嬉野さんは話してくれる。
「ご、ごめんなさい。いつもの私の癖で……本の話に夢中になると、周りが見えなくなるんです……」
「全然大丈夫ですよ。僕も小説は大好きなので」隣にいる華怜も「そうですっ」と頷いてくれた。
「こいつ、趣味のことになるとペラペラうるせーなって思ってませんか……?」
 僕は少し吹き出す。そんなことは微塵も思っていなかったから、嬉野さんの口から飛び出した言葉が面白かったのだ。
 今度は華怜が「むしろ、もっとたくさん聞かせてください。茉莉華さんのお話、大好きですよ」と励ましを入れてくれた。
 その言葉に安心したのか、ほっと胸を撫で下ろしている。
「私、高校の頃も友人に本の話ばかりしちゃってて、気付いたらいつも引きつった苦笑いをされてたんです。久しぶりに趣味の合う方と知り合えたから、つい……」
 もしかするとそのお友達は、活字が苦手だったのかもしれない。それなら、嬉々とした表情で小説のオススメを聞かされても戸惑ってしまうだけだろう。
「僕たちも本が好きなので、思う存分に語ってくれて大丈夫ですよ」
「そう、ですか? ありがとうございます」
 安心したように嬉野さんが微笑むと、僕と華怜もつられて微笑んだ。
 それから嬉野さんは単行本の新刊が平積みされているコーナーに移動して、その中の一つを手に取った。淡い水色を基調とした表紙で、教室の中に学生服を着た五人の男女が立っている。
 作者の名前は名瀬雪菜。それは名瀬先生の新刊だった。
「名瀬先生って、どんな人だったと思います?」
 唐突にそんなことを質問してきて、僕は名瀬先生の姿を思い浮かべた。
 しかしその像は曖昧で、しっかりとした姿を形成しない。それは名瀬雪菜が性別以外の一切の情報を明かしていなかったからだ。
 彼女が何歳で、どこに住んでいて、どんな容姿をしているのか。僕はそれがずっと気になっていたし、ファンの人も気になっていただろう。
「どんな人だったんですか?」僕は質問する。
「私よりちょっと年齢が上の女性でしたよ。もしかすると、大学生かもしれません」
「え、そんなに若かったんですか?」
「びっくりですよね」
 本当にびっくりだ。
 二十代後半かそこらだと思っていたのに、まさか僕と同じ大学生だという可能性があるなんて。
 もしかすると、どこかで会っているのかもしれない。
「とっても綺麗な人でした。私よりずっと年上の人だとばかり思ってたので、開いた口が塞がりませんでしたよ」
「僕もその場にいたら、きっと唖然としてたと思います」
 そんな話をしていると、なぜか華怜の表情が張り詰めた気がした。どうしたんだろうと思ってチラと伺うと、華怜もこちらを見つめていたようで、数秒遅れて目をそらす。
……嫉妬?
「でも名瀬先生、ちょっと浮かない顔をしてました」
「浮かない顔ですか?」華怜のことが気になったけど、その言葉に引きつけられる。
「ちょっとだけ話したんですけど、ずっとあたりをキョロキョロしてて、サインしてる時も誰かを探してるみたいだったんです。なにか、あったんですかね?」
「知り合いに見つかるのが嫌だった、とかじゃないんですか?」その発言をしてすぐに、それは違うなと思った。
「知り合いに見つかるのが嫌なら、そもそもサイン会なんて開かないと思います。もしかすると……誰かを探していたんですかね?」
 その線が一番濃厚だと思った。今まで顔出しすらしてこなかったのに、地元でわざわざサイン会を開いたのだ。もしかすると、誰かが来るのを待っていたのかもしれない。
 それはちょっとロマンチックだなと、ふと思った。
 そんなことを考えていると、嬉野さんは話題を変えてきた。
「公生さんは、どうして名瀬先生の小説が好きになったんですか?」
 その質問を受けて、僕はもう一度華怜を見た。すぐに目をそらされる。
 あぁ、怒ってるな……と、なんとなくわかった。だけど質問された手前、切るわけにもいかない。答えてから、華怜に釈明を入れようと思った。
「高校生の頃に名瀬先生の本を偶然読んで、思わず泣いちゃったんです」
「確かに、泣けますよね」
「それからですね、名瀬先生の本を読むようになったのは」
 本当はそのセリフの後に、小説家を目指そうと決めた経緯が挟まれる。僕は偶然にも名瀬先生の本を読んで、思わず涙した。
 複線の丁寧さ、演出力の高さ、ヒロインの魅力、全てが秀でていたのだ。当時の僕は全く本を読まない人間だったから、名瀬先生の作品がそれから読む全ての本の基準になった。
 それほど僕は名瀬先生に影響されて、ふと思ってしまったのだ。僕も文章で誰かを感動させられる人になりたいと。
 それからは必死だった。
 いくつもの活字に触れて、キーボードを何度も叩いて、物語を作っていった。
 だけど僕という人間は卑屈な部分があるから、それを表に出すことができなかったんだ。
 先輩に出会って技術は向上したけれど、全てを自己完結で済ませてしまった。そしてふと、『あぁ、やっぱりダメなんだな』っていつものように思ってしまった。
 そんな時に、華怜が現れてくれたのだ。
 思いを馳せていると、嬉野さんは小さな笑みを浮かべた。
「名瀬先生のこと、公生さんも大好きなんですね」
 僕は迷わずに答えた。その時に、少し笑顔になってしまったのがダメだったのかもしれない。
「憧れ、みたいなものです」
「憧れる気持ちも、好きってことなんじゃないですか?」
 そう嬉野さんが付け加えたのが、まずかったのかもしれない。
 隣でずっと話を聞いていた華怜が、僕らから一歩ほど離れた。どうしたのかと思ってそちらを見ると、彼女は大きな瞳に涙をためていた。
 あぁ、まずい。そう思った時にはもう、遅かった。
 華怜は袖で涙を拭いて、小さく「ごめんなさい……ちょっと、トイレ行きます……!」と呟いた後、そのまま書店の外へ走り出してしまった。
 状況が飲み込めない嬉野さんは頭の上にいくつもハテナマークが浮かんでいて、なんとなく理解できてしまった僕は「ちょっと、ここで待ってて!」と言って華怜を追いかける。
 僕のミスだった。
 後ろから嬉野さんの小さな声が聞こえた気がしたけれど、無視した。書店を出ると華怜がエレベーターの方へと走っていくのが見えた。
「ちょっと待って、華怜!」
 ショッピングモールの真ん中でこんな大声を出すのは迷惑だと思ったけれど、仕方ない。
 だけど華怜はびくりと身体を震わせただけで、足を止めてはくれなかった。僕と華怜は何度も人にぶつかりながら、逃げて追いかける。
 ここで離してしまったら、何もかもが終わってしまう気がした。そんな予感がどこかに渦巻いていた。
 僕は必死に追いかける。
 その願いが通じたのかどうかは分からないけれど、華怜がエレベーターへ到着した時、三台あるうちの一台もこのフロアには止まっていなかった。
 華怜は最後の抵抗で、すぐ右手にある普段は誰も使わない非常階段の方へと走って降り始めたけれど、さすがに大学生の僕の方が足は速い。
 五階と四階の間にある非常階段の踊り場で、ようやく僕は華怜を捕まえた。幸い、ここには僕と華怜以外に誰もいない。
 お互いに息を切らせて、その呼吸音だけが踊り場に響き渡る。
 僕は深呼吸をして、呼吸を整えた。
「ごめん、華怜……また、不安にさせて」
 こっちを向いてほしい。表情を見せてくれなきゃ、何を感じているのかが分からない。声に出してくれなきゃ、何を思っているのか分からない。
 だから、返事を……
「華怜……?」
 瞬間。踊り場に、甲高い破裂音が響いた。
 それは手のひらが皮膚の表面に当たる時に発する音で、他ならぬ華怜の右手と僕の左頬から鳴り響いたのだとすぐにわかった。
 左頬が焼けたように痛む。
 左手で触ると、電気が走ったようにピリッと痛みが走った。
 この場で動揺しているのは僕じゃなく、華怜の方だった。叩いた側であるのに、自分の右手を見つめて両目を見開いている。それから大粒の涙が溢れだして、頬を濡らし始めた。
「わた、し……こんなつもりじゃ……」
 それから僕を見て、華怜は引きつった笑みを浮かべた。後悔と、自責と、悲しさと、寂しさと、不安の全てがないまぜになってしまった酷い表情だった。
 僕は、こんなにも華怜のことを追い詰めてしまっていたのだ……
「ははっ……わたしのこと、嫌いになりましたよね……?」
「そんなことない」
「嘘ですよっ……こんな、わたしなんか……!」
 考えるよりも先に、華怜のことを抱きしめた。嫌だ嫌だと胸の中で暴れるけれど、僕は必死に腕の中に収める。
 やがて大人しくなった華怜は、立っていられなくなったのか膝をがくんと折った。僕は優しく抱きとめたまま、一緒に床へと膝を付ける。
「わたっ、わたしっ……!」
「今は、何も喋らなくてもいいよ」
 涙と緊張で華怜の声はヒクついていた。
 それでも喋ろうとした華怜の声は、風のように微かな音となって僕の耳へと届く。
「どうして……わたしのことを、嫌いになってくれないんですか……?」
 その問いかけを、今日の僕は何度もされた気がする。そのたびに僕は曖昧な返答をしてきて……きっとそれがいけなかったのだろう。
 華怜を安心させるために、本心を伝えておくべきだったのだ。恥ずかしくても、こうなる前に伝えておくべきだった。
 もう、何もかもが遅いのかもしれないけれど、全てが間に合わなくなる前に伝えておこうと思った。
僕は、
「僕のことを好きになってくれた人を、嫌いになんてなれないよ」
 それが、全てだった。
「自分でも、今までずっと自分のことを好きになれなかったんだ。卑屈で、暗くて、自分勝手で最悪な人間だって自覚してたから、全然好きになんてなれなかった。それなのに、華怜は僕の事を好きになってくれた。それが僕は、たまらなく嬉しかったんだ」
 誰よりも自分のことを僕は分かっているはずなのに、その僕を差し置いて華怜は好きになってくれた。そんなの、嬉しくならないはずがない。
 記憶を取り戻しても、華怜はその記憶を全部手放してまで僕と一緒にいたいと言ってくれた。僕の事を必要としてくれたんだ。
 そんな人を、僕は嫌いになれるわけがない。
「でも、だって……今日のわたし、全然ダメだったんですよ……公生さんのことを無視して、お皿を割って、食べ物を落として、一人で着替えられなくてっ……! いっぱいいっぱい、ダメなところがあったのに……!」
「どうして華怜は、ダメなところばかりを探すの?」
「……へ?」
「ちょっとぐらいダメな日があったって、華怜には良いところがたくさんあるじゃん。僕は多分、華怜以上に華怜の良いところをたくさん知ってるよ」
 僕は自分のことを決して好きにはなれなかったけれど、他の誰かの良いところはいくらでも見つけることができる。だから華怜のダメな部分なんて、一つも見つけられない。
 たとえ華怜が自分のダメな部分を見つけてしまったとしても、僕は同じぐらい良い部分を見つけて、全てを覆い隠してしまうと思う。
 今は大人しくなってしまった華怜の頭を、僕は優しく撫でてあげた。
「鬱陶しいって思われるかもしれないけど、華怜が僕のことを嫌いになったとしても、僕は華怜のことを好きで居続けるよ。だから、心配しないで。どこにも行かないし、見捨てたりもしないから。不安になることなんて、何一つないんだ」
 もう一度強く強く抱きしめてあげると、華怜はようやく身体にかかっていた力をゆっくりと抜いていった。僕に全てを預けてくれて、そして、堰を切ったように大声を上げて泣き始める。
 その泣き声を聞きつけたお客さんが何人かやってきて、ちょっとだけ階段周りが騒ぎになった。嬉野さんはその騒ぎにかけつけてくれて、泣き続ける華怜のことを必死にあやしてくれた。
 嬉野さんが来てくれたおかげもあって華怜は泣き止み、疲れたのかスイッチが切れたように腕の中で眠りについた。
 僕が華怜を背負い、かけつけてくれた店員やお客さんに謝罪をしてから、そそくさとショッピングモールを出た。
 歩きながら、バスに揺られながら、嬉野さんに本当のことを話した。
嘘をついてしまったこと。
 華怜は元々記憶喪失で、アパートの前に倒れていたこと。
 そして、僕と今付き合っていること。
 その全てを真剣に聞いてくれて、聞いてくれた上で、全てを笑って許してくれた。
「なぁんだ。そういうことだったんだねっ」
日が沈みかけの住宅街を歩きながら、あっけらかんと嬉野さんはそう言った。いつの間にか、僕に対する敬語は取れていた。
「どうりで、兄妹にしては仲が良すぎるなって思ってたの」
「あの、ずっと嘘ついててごめん……」
 だから僕も、敬語を外した。
「気にしないでいいよ。でも、そっかぁ……二人とも、付き合ってるんだね……」
 その言葉はどこか憂いを帯びていて、僕の胸がキュッと締め付けられた。
「私、これからも公生くんや、華怜ちゃんと関わっていいのかな?」
「それはむしろ、こっちからお願いしたいっていうか……華怜って、嬉野さんにすごく懐いてるから」
「じゃあ、今までと何も変わらないね」
 そう言って嬉野さんは微笑んだ。だけどその微笑みの端に、少しだけ寂しさが混じっているのがわかってしまって、僕の心はまた締め付けられる。
 どうして彼女がそんな気持ちを抱いているのか、その時の僕にはわからなかった。
 やがて僕の住んでいるアパートまで着いたけれど、まだ背中の華怜は眠っていた。起こしたりしないように、嬉野さんは気遣って小声で話してくれる。
「それじゃあ、帰ったらメールするね」
「うん、わかった。ごめん、家まで付き添ってもらって」
「公生くんは気にしないで。華怜ちゃんが起きたら、楽しかったよって伝えておいてくれるかな」
「伝えておくよ」
 最後にもう一度嬉野さんは微笑み、小さく手を振って曲がり角を曲がった。僕はそれを見えなくなるまで見送ったあと、華怜を背負ったまま部屋へと戻る。
 電気を点けた後布団の上へゆっくり寝かせると、彼女はまぶたを震わせ起きてしまった。
 薄っすらと、まぶたが開く。
「ごめん、起こしちゃった?」
「……ここは?」
「アパートだよ。あの後寝ちゃったから、嬉野さんと一緒に戻ってきたんだ。楽しかったですって言ってたよ」
 そう伝えてあげると、華怜はようやく小さくだけど微笑んでくれた。僕がそれに安心していると、唇が小さく動く。
「あの、お願いごとをしていいですか……?」
「お願い事?」
「キス、してください……」
 ここでそんなお願いをされるとは思わなくて、思わずたじろいでしまったけれど、ちゃんと唇を合わせてキスをした。
 軽く触れるだけのキスだったけれど、華怜はニコリと微笑んでくれる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「今日は、このまま眠りませんか?」
 ちょっと早すぎるなとは思うが、僕は華怜の隣へ行き布団の中へ潜り込んだ。昨日とは違い、今日はちゃんと向かい合っている。
 心の距離がようやく元に戻った気がした。
 華怜は抱きついてきて、僕はそれを受け止める。しばらくそうしていると、胸の中で、ぽつりと呟いた。
「今日は、本当にごめんなさい」安らかな声だった。
「私、本当に不器用で、公生さんはそんなことしないってわかってても不安になって……それで、思わず叩いちゃったんです」
 こんなつもりじゃなかった。あの時の華怜は、そんな後悔の表情をしていた。だから僕は、あんなことをされても全然痛くなんてなかった。
 華怜の方がずっとずっと傷付いていたのだ。
「今は、全部忘れよう。今日はちょっと調子が悪かっただけで、明日になればいつも通りになってるから」
「そう、ですね」
 なんとなく、歯切れが悪かった。
「公生さんは、ずっと私のことを好きでいてくれるんですよね」
「当たり前だよ。華怜が僕のことを嫌いになっても、僕の前からいなくなったとしても、ずっと好きでいるから」
 僕はなんとなく、別れを予感していたのかもしれない。だからこそ、どこにも行かせないようにと強く抱きしめた。華怜は、腕の中でぐったりとしている。
「……嬉しいです。本当に、嬉しい」
 それから昨日と同じく、華怜は僕の匂いを嗅ぐために息を大きく吸った。その行為が、どういう意味をして示しているのか、僕にはわからない。
「もう、寝ますね」
「うん……」
「ありがとうございます、公生さん……私を好きになってくれて」
 そう呟いた華怜は、やがて小さな寝息を立て始めた。僕はそれを聞きながら腕の力を弱めていく。なんだかそれを聞いていると、僕まで眠くなってきて、次第にまぶたが落ちていった。
 まどろみの中、声が聞こえる。
 何度も聞いた、僕の一番大好きな声だった。
 私は、ずっと前からあなたのことを知っていたんですよ。一緒に桜を見に行って、庭園に遊びに行って、一緒にタイムカプセルを埋めました……
 それを思い出した時の私は、そんなことを考えちゃいけないのに、とってもとっても嬉しくて、再会を喜んでしまいました……
 今だから言えるけど、私はずっとずっとあなたのことが大好きでした。あなたと再会する前から、他の誰よりも愛していたんです……
 だけどこれ以上先に、私は進むことができません……
 本当ならずっとずっと先の未来まで、あなたのそばに寄り添い続けたかったです。一緒に夢を叶えて、あなたの書いた本を一番初めに読みたかったです……
……いつか、必ず本を出してください。
 私は遠いどこかで、それを待ち望んでいます。もしかしたら、あなたのすぐそばで……
 今まで、ありがとうございました……
 最後にあなたと再会できて、本当に嬉しかったです……

 僕はきっと目を覚ましたとき、そのまどろみの中聞こえた言葉を全て忘れているのだろう。
 朝、目が覚めてすぐに、華怜がいないことに気が付いた。そして机の上に一枚だけ置かれている紙が目に留まる。
『今まで、本当にありがとうございました。両親の元へ帰りたいと思います。いつかあなたが本を出すのを、私はずっと心待ちにしています。話せないことが多すぎて、ごめんなさい……では、またどこかで』
 その手紙を握りしめながら、僕は泣いた。どうして、こんな手紙一枚だけを残して去っていくんだ。
 何かの悪い冗談なんじゃないかと思って、居間を出てからキッチンへ向かった。いつもならそこで調理をしているはずなのに、今日は誰もいない。
 華怜がそばにいなかった。
 玄関を見ても、置いてあるのは僕の靴だけ。
 タンスの中の服は、一組だけ残っていた。それは、僕のプレゼントした服だった。
 その服を抱きしめながら、僕はもう一度涙を流す。未だそれには華怜の匂いが色濃く残っていて、わずか一週間の出来事が次々とフラッシュバックした。
 一緒に買い物へ行って、調理をして、一緒に眠って、大学へ行って、デートをして、キスをした。その全てがまるで昨日の出来事のように頭の中をぐるぐると回り続けて、それはもう一生手の届かない場所にあるんだということを悟る。
 僕は、スマホも持たずに部屋を飛び出した。もしかすると、まだ近くにいるかもしれない。もしかすると、駅で電車を待っているかもしれない。
 走って走って、最寄りのバス停に辿り着く。今はまだ、始発のバスも到着していない時間だということを初めて知った。
 時刻は早朝で、だとしたら駅まで歩いて向かっているのかもしれない。僕は駅の方向へ全速力で走った。
 数十分して、ようやく辿り着く。
 日曜だから人の姿も少ない。これなら見逃すことはないだろうと思って、駅舎の中を駆けずり回ったけれど、見つからなかった。
 改札の前を行ったり来たりして、駅員の人にも「背が低い、何も荷物を持っていない女の子がここを通りませんでしたか」と聞いた。首を振るだけだった。
 そこでようやく、ここにいるわけないじゃないかと思い当たった。
 華怜の持っていたものはスマホだけで、バス代も電車代も持っていない。こんな場所へ来ても全く意味がない。
 随分な遠回りをしてしまった。
 ちょうど始発のバスが停車していたから、それに乗り込みアパート近くへと戻る。
 近辺をまた、駆けずり回った。もしかすると、どこかの道端で倒れているかもしれない。そう考えると、疲れているはずなのに足が前へと進ませてくれた。
 結局、どれだけ走ったのかは分からない。
 大学にもお城にも庭園にも城下町にも緑地の公園にも行ってみた。そのいずれにも、華怜はいなかった。
最後に回ったアパート近くの公園も、小さな子どもたちが遊んでいるだけだった。僕はようやく、もう華怜はいなくなってしまったのだということを悟る。
華怜の居なくなってしまった日常に、意味なんてあるのだろうか。この一週間、華怜の笑顔を見るためだけに生きてきた。華怜が喜んでくれるから、再び小説家を目指そうと決心できた。
 その華怜がいなくなってしまったのなら、もう夢を追う理由もない。華怜が一番最初に読んでくれないなら、意味なんてない。
 もう、筆は握れない。
 華怜が最後に残してくれたお願いすら果たせなくなるけど、仕方ないじゃないか。もう疲れてしまった。
それから僕はアパートへと戻って、全てを閉ざした。あの輝かしい記憶を、思い返さないように努めた。あれはただの夢だったと、自分に言い聞かせた。
それでも彼女が残していった甘い残り香は、いつまで経っても消えてくれることなんてなかった。
どれだけ眠っていたかはわからない。ただ、部屋の中は上り始めた月明りに照らされていて、もう夜の帳が落ち始めているのだということは理解できた。彼女の甘い匂いが僕の鼻腔を通り抜けて、知らず知らずのうちに涙が溢れてくる。
いろいろなものをトイレで吐き出してしまって、もう胃の中のものは空っぽだった。だというのに、喉の奥からまた別の何かがせり出してきそうで、もう何もかもを吐き出してしまいたかった。彼女との思い出も、全部、全部……
「起きた?」
それは、どこまでも優しい声だった。一瞬、彼女が戻ってきてくれたのではないかと思ったけれど、すぐにそうじゃないということに気が付く。
僕の頭はとても柔らかく暖かいものの上に置かれていて、彼女は優しく撫で続けてくれていた。僕の目からは、涙が溢れて止まらなかった。
「とっても、大切な人だったんだ……」
「とても、大切な人だったんだ?」
「初めて、だった……こんなにも、誰かのことを想えて、好きになれたのは……」
「そんなに、彼女のことが好きだったんだね」
僕は頷く。
大好きだった。たとえ何もかもが上手くいかなかったとしても、彼女がいてくれさえすれば、どんな時でも幸福だと思えるくらいに。
「でもそれは僕が感じていただけで、ただの一方的な感情だったのかも……」
「君は、彼女に嫌われていたの?」
「わからないんだ……彼女が何を考えていたのか、僕にはわからない……」
「彼女は、君に酷いことを言ったりした?」
頬を叩かれた。鋭い目で睨み付けられたりもした。だけどあれは、きっと彼女の本心ではなかった。
僕が、不甲斐なかったのだろう。彼女を心配させたりしなければ、安心させていればあんなことにはならなかったはずだ。
その時嬉野さんは初めて、彼女の名前を言った。
「華怜ちゃんは、公生くんのことが大好きだったよ」
「そんなこと……」
そんなこと、嬉野さんにわかるわけがない。僕らはまだ知り合って日も浅いし、お互いのことを何も知らないのだから。それなのに彼女は自信ありげで、僕は嬉野さんのことさえも、わからなくなってしまった。
「公生くんはさ。華怜ちゃんが、自分のことを愛してくれている人を嫌いになれる人だと思う?」
「あっ……」
それは僕が、華怜に伝えた言葉だった。僕は、僕のことを好きになってくれた人を、嫌いになんてなれない。いろんなところが似通っている僕らは、もしかすると、同じことを考えていたのかもしれないと、微かにそう思ってしまった。
「たくさん、お酒を飲んだんだね」
「うん……嫌なこと、全部忘れてたかったから……」
「それは、忘れられたのかな」
僕は首を振る。 
初めて飲んだビールはとても不味くて、だけど机の上には空き缶だけが増えていった。不味いけれど、余計なことを考えずに済まなくなって、どこか身体の内側がぽかぽかとした。
しかし不意に頭の中を華怜の笑顔がよぎったとき、僕は何をやっているんだと自分を殴りたくなった。きっと今の華怜が僕を見たら、幻滅してしまう。
 それすらも僕は忘れてしまいたくて、酒をあおった。
 やがて胃の中を何かがせりあげてくる感覚がやって来て、トイレへ駆け込み全てを吐き出した。
そこまでやっても、華怜との思い出を忘れることなんてできなかった。忘れたかったのに、忘れることなんてできなかった。僕の頭の内側にへばりついて、決して消えてはくれなかったのだ。
「全部、忘れてしまいたかった。何もかも、失ってしまったから……」
「忘れられなかったのは、それが公生くんにとって、大切な思い出だったからだよ」
嬉野さんはただ優しく、僕の頭を撫でてくれる。まるで泣いている子どもをあやすように。本当に子どもみたいで、情けなくて、自分をみっともないと思った。
「辛かったんだね」
「うん……」
「もっと早く君を見つけられていれば、苦しい思いを二人で分け合うことができたのに……」
机の上の空き缶を見ながら、嬉野さんは呟く。まるで自分のことであるかのように、彼女は僕と一緒に傷ついてくれた。とても、とても優しい人なのだろう。そういうところは華怜とよく似ていて、また涙が溢れた。
「今は、ゆっくり眠りなよ。私が、公生くんのそばにいてあげるから。だから安心して、眠ってもいいんだよ。私は決して、いなくなったりしないから」
彼女の甘い言葉に誘われて、僕のまぶたはだんだんと落ち始めていた。優しい、何もかもを包み込んでくれる彼女のそばで、やがて僕の意識は途絶える。
その時見た夢の中では、僕と嬉野さんと、それから華怜が一緒に笑いあっていた。だからもう一度目を覚ました時に、僕はまた一筋、大粒の涙を流した。

※※※※

嬉野さんは僕が眠っている間に、机の上の空き缶をゴミ袋の中へまとめてくれていた。それから台所の方で、包丁でまな板を叩く音も聞こえてくる。
ふらついた足取りで近づいてみると、そこでは嬉野さんが余った食材で調理をしてくれていた。彼女は僕に気が付くと、安心したように笑みを浮かべてくれる。
「酷い顔してるから、洗ってきなさい。昨日から一度も鏡見てないでしょ」
「あ、うん……」
 僕は洗面所へ行って自分の顔を見た。たしかに、酷い表情をしている。目は虚ろで、いろいろなものを吐き戻したから青白い顔をしていた。
 顔を洗って、ついでに歯も磨く。そうしていると、幾分かは冷静になれた。
 台所へ戻ると水を用意してくれていて、僕はお礼を言ってそれを飲む。
 初めてお酒を飲んで、こんなにも頭がクラクラするのだということを学んだ。
 一時はいろいろなことを考えなくて済むようになるけれど、代償が酷い。冷静になった時に思い出がフラッシュバックして、また酒をあおる。
僕はもう、酒で逃避をするのはやめようと心に誓った。
「ちょっとは落ち着いた?」
「……うん」
「それなら、よし」
 使ったコップを洗ってくれて、調理をしてくれたものを居間の机へ並べてくれる。僕が使っていた布団も畳んでくれて、洗うものは洗濯機へ放り込んでくれた。
嬉野さんが作った料理を食べている時、僕はまた泣きそうになる。
 華怜との日々を思い出していたのだ。手作りの料理を食べていると、それだけで心が苦しくなる。
 どことなく料理の味付けが似ている気がしたから。
 食べながら、嬉野さんは僕に質問してくる。
「美味しい? 妹にたまに教えてるから自信はあるんだけど、友達に食べさせたのは初めてだから」
「美味しいよ。とっても、美味しい……」
「そ、よかった」
 僕も質問をする。
「どうして、知り合ったばかりの僕にこんなによくしてくれるの……?」
 ずっと気になっていた。昨日も華怜のためにいろいろと根回しをしてくれて、今日も僕のためにこうしてくれている。友達だと言ってくれたけれど、本当にそう思ってくれているのだろうか。
 嬉野さんは箸を置いた。
「初めは、華怜ちゃんがきっかけなの」
「華怜が?」
「うん。初めて会ったはずなのに、なんだか全然そんな気がしなくて。どうしてかわからないけど、ずっと友達だった気がして、なんというか、嬉しい気持ちになったの」
 僕も、似たような感情を抱いていた。ずっと一緒にいたような気がして、なんというか他人の気がしなかった。
 どうしてそんな気持ちになったのかはわからない。だけどその曖昧な気持ちが引き金になって、だんだんと惹かれていって、いつの間にか誰よりも好きになっていた。
「それで一緒にいる君のことも、ちょっと気になってた。妹思いのお兄ちゃんなんだなって、私も妹がいるからなんとなくわかるなぁって思って。それで話してみたら、名瀬雪菜のことが好きなんだってことがわかって、この人も仲良くなれそうだなって思ったの」
 結局華怜は僕の妹なんかじゃなかったけれど、嬉野さんにそういう風に思われていたんだ。
 正直僕も、同じ作家を好きな彼女とは仲良くなれるかもと、出会ったときから思っていた。
「ここからは、ちょっと恥ずかしい話なんだけど……」と嬉野さんは前置きした。
「昨日も話したけど、私、本のことになると目の前が全然見えなくなるの。すごいマシンガントークしちゃって、だから今まで自分の思ってること、あんまり表に出さないようにしてた」
 僕は、やっぱり夢中になれることがあるのはいいことだと思う。友達に引かれるから押さえておくなんていうのは、ちょっともったいない。
「いつも、みんなとどこかで距離を置いてた。でも二人といると、なぜか自然に振る舞っちゃってて。公生くんも華怜ちゃんも嫌な顔一つせずに聞いてくれて、とっても嬉しかった。だから私は、君にこんな風に接してるんだと思う。気の置けない友だちってやつかな。ほんとはちょっと、君のことが好きなのかもしれないけど」
「……え?」
 最後の言葉が引っかかって、僕は変な聞き返し方をしてしまった。あまりにさらっと答えたから、聞き間違えかと思ったのだ。
 でもたぶん、間違いじゃなかった。嬉野さんは少し頬を染めて、恥ずかしそうに頬をかいていた。
「いや、ほらね。私、趣味のことは色々と隠してきたから、同じ作家が好きで共通の趣味を話せる人に出会えて嬉しかったの。その人が同じ日に生まれたって知った時は、運命かなってちょっとだけ思った。ほんと、今しゃべる話じゃないんだけど、きっかけって案外そんな単純なことなのかもね。華怜ちゃんが彼女だって知ったときは、ちょっと落ち込んだんだよ? それで、あぁやっぱり好きだったんだなって分かって、それなら応援してあげなくっちゃって思ったの」
「あの、なんというか、ごめん……」
 きっと、こんなことを話すつもりはなかったんだと思う。その気持ちが本当のことなのか、はたまた嘘なのかは分からないけど、少しでも場を和ませるために恥ずかしさを承知に話してくれたのだ。
 嬉野さんはもう一度頬をかいて、ぎこちなく笑った。
「華怜ちゃんは、きっとまた会いに来てくれるよ。元気出して」
「うん……」
 僕はまた、嬉野さんが作ってくれた料理に箸を伸ばした。
 もし僕が華怜と出会っていなかったら、今の告白に対してどう返事をしたのだろう。そう考えて、思考を投げ捨てた。そんなことを考えちゃいけない。
 それは嬉野さんに対しても、華怜に対しても失礼な行為だから。
 嬉野さんのおかげで、ちょっとだけ元気がもらえた気がした。いつ会えるのかは分からないけれど、少しだけなら待てる気がする。
「ありがと、嬉野さん」そう呟くと「どういたしまして」と返してくれた。
 夕食を食べ終わった後、嬉野さんは食器も洗ってくれて、スマホは常時身につけておきなさいと叱られた。
 僕は小さな笑みを浮かべられるぐらいには心に余裕ができていて、嬉野さんも安心したような笑みを返してくれる。
 玄関先で、嬉野さんにお礼を言った。
「今日は、本当にありがとう」
「公生くんが困ってるなら、助けてあげるのは当然だよ」
 優しいなと思いつつ、仕事の休みを二日ぶん潰してしまったのはやっぱり申し訳ないなと思った。
「明日、また家にお邪魔していい?」
「仕事は?」
「五時に終わるから、そのあとは? 大学とか大丈夫?」
「その時間なら大丈夫」
「じゃあ、また明日ね」
 微笑んだ後に小さく手を振って、嬉野さんは部屋を出た。僕は居間へ戻り、本棚の小説を手に取る。一瞬執筆のことが脳裏をよぎったけれど、やっぱりそれはダメだと思った。
 誰かに何かを与えることができる人間になりたいと思ったが、それは一度諦めてしまった夢。華怜のおかげで、再び目指そうと心に決めた夢。その華怜がいなくなってしまったのだから、もう書く気力なんて残っていない。たぶんもう、筆は握らないと思う。
 嬉野さんにも、このことは話さない。もう、終わってしまった夢だから。
 もし、華怜が戻ってきてくれれば、あるいは……
 僕はただ、華怜にもう一度だけ会いたかった。
 目を覚ましたときにはすでに、時刻が四時四十分を少し回ったところで、危うく寝過ごしてしまうところだった。危ない危ないと思いつつ立ち上がると、もうめまいや倦怠感は消えていた。
 嬉野さんがやってくる前に部屋を片付けておかなければと思い、布団をたたんで部屋を掃除しておく。寝巻きから普段着へと着替えるために、タンスを開いた。そこには見慣れない女性用の衣服が一着入っていて、一番最初にそれを手に取る。
「なにこの服……」
 それはどこか懐かしさがあって、見ているだけで胸の奥が締め付けられる。知らず知らずのうちにほろりと涙が流れていて、慌てて拭った。
 僕は、この衣服を知らない。
 妹が置いていったものなのだろうか。
 でも仮にそうだとしたら、今まで気付かないのはおかしい。というか妹の服を見て涙を流すなんて、どうかしている。
 嬉野さんが置いていったものなのだろうか。一瞬そう考えて、違うなと思った。
 嬉野さんは、昨日僕の部屋で着替えなんてしていなかった。酒に酔っていたけれど、細かな記憶はちゃんとある。それじゃあ、この衣服は誰が着ていたものなのだろう。答えの出ない問いはぐるぐると頭の中を回る。
 捨てるという発想が思い浮かんだけれど、理性のようなものがそれを拒ませた。なぜか、捨ててはいけない気がする。
 なにか……そう、例えるなら思い出という言葉がふさわしい。僕は確かにこの服を知っていて、身につけていた人も知っていたはずなのだ。それは心の中に思い出として残っている……気がする。
 でも、それが全部僕の中から抜け落ちていた。根拠はないけれど、たしかな自信は存在する。漂ってくる匂いも、僕は知っているはずなのだ。だけど、全くといっていいほど思い出すことができない。
 頭の中に正体不明のモヤモヤが形成されていったが、僕は部屋の外から聞こえてきた声によって我に帰った。
 部屋の外から、嬉野さんの大声が聞こえたのだ。考え事をしていたから、どのような言葉を発したのかまではわからない。
 だから僕はそれを確認するべく、部屋の外へ出た。
 ドアを開けて正面に嬉野さんはいなくて、右へ視線を向ける。そこには、嬉野さんと先輩がいた。
 嬉野さんは全然僕に気がついていなくて、スーツを着た先輩に詰め寄っている。もしかして、知り合いなのだろうか。
「あの、嬉野さん?」
 ようやく僕に気がつく。パッと表情が晴れやかになった。まるで自分の宝物を見せびらかしているかのような笑顔だった。
 先輩はどうやら戸惑っているようで、嬉野さんが言葉を発するのを制止させようとしている風にも見える。だけど興奮の高まった彼女はそんな些細なことに目をくれるはずもなく、僕へとその真実をカミングアウトした。
「この人! 名瀬先生なの!」
「……はい?」
 僕は嬉野さんの言っていることが、おそらく八割型理解できなかった。先輩は右手を自分のひたいに当てて『あぁ、ようやくバレてしまったか』といったような表情を浮かべている。
 嬉野さんは、言葉を続けた。
「だから、名瀬雪菜先生なの! 金曜日にサイン会で見たから間違いないよ!」
 その真実を聞いて、ようやくバラバラだったパズルのピースが揃っていった。僕はどうしてそんなに単純なことに気がつかなかったんだと、自分を叱責したくなる。
 ヒントはいくつか存在した。
 初めて出会った時、やけに先輩は名瀬雪菜について詳しかった。デビューする前の名瀬雪菜について知っていたのは、明らかに不自然だ。
 それだけならまだ断定は出来なかったけれど、先輩の名前を知った時にはさすがに気付くべきだった。
 名瀬雪菜と七瀬奈雪。
 二つの情報を照らし合わせれば、同一人物なんじゃないかということはいくらでも想像できる。
 それに、先輩は珍しく先週の金曜日は家にいなかった。あれはきっとサイン会に出かけていたからだ。今となっては、どうして僕が先輩の部屋へ行ったのかは思い出せないけれど。
 僕は何かを話したくて、だけど言葉は喉の奥から出てこなかった。カラカラに乾燥しているようで、全く声にならないのだ。
 動揺と緊張。
 先に、先輩が口を開いてくれた。
「今まで隠してて、悪かったね」
 それは認めたということだ。名瀬雪菜は七瀬奈雪であって、僕の憧れていた小説家。ずっと会って話がしたかった。伝えたい事があったんだ。
 僕に夢を与えてくれてありがとうと。でもそれは、中途半端な形で挫折してしまった。
 それに、もっと他に伝えたい事が確かにあったはずなのだ。名瀬先生に出会ったら、真っ先に伝えるはずだったことが。
 それさえも、もう僕の中からは消えていた。
 何かが、ぽっかりと空いてしまっている。
 先輩は気まずそうな笑みを浮かべて「とりあえず、ここじゃアレだから中に入ろうか」と言って自分の部屋のドアへと手をかける。
 嬉野さんは、おそらく作家さんの部屋に興味があるのだろう。普段より少し興奮気味だった。だけどその期待は外れて、先輩は思いとどまる。
「……と、言いたいところなんだけど。私の部屋、今すっごく散らかってるからさ、小鳥遊くんの部屋にお邪魔しようか」
 嬉野さんは目に見えてしょんぼりした後、トボトボと僕の部屋へと入った。先輩は「悪いね突然」と小さく謝ってくる。
 僕はやっぱり言葉が詰まってしまって「あ、いえ……」としか返せない。
 それを先輩は苦笑して「作家だったからって、別に気を使わなくていいんだぞ」と言ってくれた。
 その微妙な言い回しの意味を、僕は数分後に知ることになる。
 二人分のお茶を入れようと思って用意していたら、嬉野さんに止められた。曰く「病み上がりなんだから休んでて」ということらしい。
 名瀬雪菜に出会ってあれだけ興奮していたのに、こういうところは本当に気が回る人なんだなと思った。昨日部屋で料理をしたから、どこに何があるのか全て把握しているらしい。テキパキとお茶の用意をしてくれて、その最中にポツリと嬉野さんは言った。
「それにしても、キッチン周りすごく片付いてるね。昨日も思ったけど、欲しい調理器具が欲しい場所に置いてあるし、冷蔵庫の中もちゃんと整理されてるし」
「最近は自炊してたんだよ。たぶんそれで色々と整理してあるんだ」
 どうして自炊をしようと思ったのか、理由は思い出せない。
「ふーん、そうなんだ。男の子が自炊って、なんかいいね」
「たいしたものは作れないけどね」
 用意のおかげで頭が冷えたのか、嬉野さんはいつも通りの彼女に戻っていた。お茶をお盆の上へ乗せて運ぶ時、恥じらいを見せながら「なんか、ごめんね部屋の前で取り乱しちゃって。やっぱりこういうところ、直したほうがいいのかな」と言った。
「別にそのままでもいいと思うよ。夢中になれることはいいことだと思うから」
 本心を伝えると、嬉野さんは小さく微笑んだ。周りの目を気にして良いところを隠しちゃうのは、すごくもったいないと僕は思う。
 とはいっても、僕自身も控えめに振る舞ってしまう人だから説得力なんてない。
 ふと、嬉野さんは小さく呟いた。少し、頬が赤く染まっていた。
「昨日言ったこと、まだ覚えてる?」
「昨日?」
 色々あった気がして、細かなことが思い出せない。たぶん酒を飲んで記憶が飛んでいるせいもあるのだろう。
「ほら、公生くんを介抱したあと、色々とお部屋で話したでしょ? 私も、恥ずかしかったからあんまり細かくは覚えてないんだけど……」
 指先をお腹の前あたりでモジモジとさせていて、僕はようやく思い出した。そういえば、僕のことが好きだと告白されたんだ。
 どういう経緯でその告白を受けたのかは思い出せないけれど、断ったことだけは確かに覚えている。どうして断ったのか、例のごとく思い出せない。
 嬉野さんは照れを隠すように、三人分のお茶が乗ったお盆を手に持った。
「今、彼女いないんでしょ?」
 どうしてか言葉が喉の奥に引っかかって、声にならなかった。だから代わりに頷いてみせる。僕に、彼女なんていない。
 それを見た嬉野さんは安心したような表情を浮かべて、だけど端には寂しさも見てとれた。
「私、諦めてないよ。正直仕事中も、ずっとそのことばかり考えてたんだから」
「そうなんだ……」
「でも、少し引っかかることもあるの。私たちを繋いでくれた誰かがいた気がして、そのこともずっと頭の中に引っかかってて……」
「嬉野さんも?」
「もしかして、公生くんも?」
 お互いに頷きあった。この記憶は本物なのだろうか。正体不明の感情を僕らは共有しているのだということがわかって、少し安心した。
 だけど安心しただけで、それが何なのか思い出せない。
「ま、まあ、もう一度考えておいて。鬱陶しいって思うなら、もう関わらないようにするから……でも、受けてくれなくても、友達のままではいたいかも……あんな一方的な会話をずっと笑顔で聞いてくれてたの、すっごく嬉しかったから。もちろんそれだけじゃないんだけどね。それと、今度は公生くんの話も聞いてみたいかも……」
 たぶん……というかそれは真実になるのだろうけど、告白を受けるにしろ受けないにしろ、彼女との関係を切ったりはしないと思う。
 僕は、僕に好意を持ってくれた人を嫌いになんてなれない。
 その事実だけで僕は嬉しくて、本当は緊張とか色々なもので鼓動が早まっているけれど、いくらかは冷静になることができた。自然と笑みを浮かべる。
「ありがと、すっごく嬉しいよ。嬉野さんとのこと、前向きに考えてみる」
 それを聞いた彼女はパッと表情を晴れさせる。僕の言葉で彼女を笑顔に出来ていることが、たまらなく嬉しかった。
 それからお茶を持って居間へ戻ると、先輩は僕の本棚の中を物色していた。面白いものなんて何もないと思うけど……その光景は、引っ越してきたばかりの頃を思い出した。
「随分と本が増えたんだね。前の倍にはなってるんじゃない?」
「はい。休日はずっと本を読んでるので」
「私の最新刊も買ってくれてるじゃないか」
「……当然ですよ」
 隣にいた嬉野さんが、僕の服の袖を小さく引っ張ってくる。どうしたのかと思ってそちらを見ると、少し不安げな表情を浮かべていた。
 そっと、耳打ちしてくる。
「前にも、先生を部屋に入れたの……?」
「前っていうか、一年前に引っ越しの手伝いをしてくれたんだよ」
「お手伝いか……」
 ちょっと安心した表情へと変わり、僕から離れた。その行動の意味がよくわからなくて首を傾げていると、ぷいっとそっぽを向かれる。
「……どうしたの?」
「なんでもないっ」
 本当によくわからない。
 その一部始終を見ていた先輩は微妙な笑顔を浮かべていた。
「君たち、仲が良いんだね」それから嬉野さんを見て「君は、サイン会に来てくれてた子だよね。たしか茉莉華ちゃんだったかな」と言った。覚えてくれていたことが嬉しかったのか、嬉野さんは笑顔を浮かべる。
「覚えててくれたんですねっ」
「私の作品についてすごく熱く語ってくれたからね。忘れられるわけないよ」
 先輩にもあの熱弁をしていたのか。そりゃあ忘れられるわけない。嬉野さんは顔を赤くさせた。
「ご、ごめんなさい。私、夢中になるといつもあんな風になるんです……」
「書いた本人としては、すごく嬉しかったよ。ありがとね」
 嬉しかったと先輩は言ったのに、どこか違う感情を内に秘めている気がした。なんというか、寂しさがまじっている気がする。
「先生は、もう次回作の構想とか考えてるんですか?」
 その何気無い嬉野さんの質問を受けた先輩の表情は、途端に暗くなる。嬉しさの感情が寂しさに塗りつぶされたのだと、僕にはわかった。
 だから心配になって「どうしたんですか、先輩……?」と訊いてしまう。
 先輩は、答えた。
「悪いけど、もう私は先生と呼ばれる人間じゃないんだ……」
「え……?」
 嬉野さんはその言葉の意味を飲み込めずに、表情が固まる。それを気にせずに、先輩は続けた。
「新作は出さないってことだよ。作家は引退したんだ。もう出版社や担当の人にも、辞めるって伝えてきたから」
 その唐突の告白に対して黙っていられるほど、僕は穏やかじゃなかった。
「ちょっと待ってください。辞めるってどういうことですか? 新作は、前よりも売れたんですよね」
「その新作も、本当は出さないつもりだったんだよ。知っているだろ? 名瀬雪菜は不調が続いていたって」
 知っている。去年はそのせいで一冊も本を出さなかったし、引退したんじゃないかと巷で騒がれていた。
 でもそれは、ただの一意見だ。僕はずっと名瀬雪菜の小説は好きだったし、そう思ってくれている人も中にはいたはずだ。
 そんなの、辞めてしまう理由にはならない。
「先輩の小説、僕はデビュー作からずっと追いかけてました。その全部が面白かったし、辞めてしまうなんておかしいです。だいたい辞めるつもりだったなら、どうして新作なんて出したんですか。どうしてサイン会なんて開いたんですか」
「そ、そうですよ。私も、先生の小説好きですよ? 絶対に、いろんな人がそう思ってくれてるはずです。だって、サイン会にあんなに人が集まったんですから」
 どれほどサイン会に人が集まったのか、僕は知らない。なぜかその時の僕はサイン会に行かなかったのだ。どうして行かなかったのか今でも理解不能で、その時の自分を殴りたくなる。
 先輩は、儚げな表情のまま答えた。
「いろんな人に好かれていても、たった一人見てほしかった人に見てもらえなきゃ、ダメなんだよ。君も、そういう経験が少しはあるんじゃないか?」
 突然話を振られて、言葉に詰まった。僕の小説を見てほしかった人なんて、そんな人はいない。僕はずっと一人で書いてきたのだから。嬉野さんにも、このことは話していない。
 でも、どうしてだろう。先輩の言葉がどこか共感できる気がして、胸の奥がざわついた。どうしてざわついているのか、僕にはわからない。
「先輩の見てほしかった人って、誰なんですか……?」
 その問いかけに、先輩はまっすぐとは答えなかった。
「以前、君に言っただろう? 小説は作者の心みたいなものだ。面白くないって言われれば傷つくし、面白いって言われれば嬉しくなる。一番打ちひしがれている時に、励ましてくれた人がいたんだ。私はそれが嬉しくて、嬉しくて、ただただ嬉しかった。その人のために小説を書きたいと思って、寝る間も惜しんで頑張り続けた。だけど、分かってしまったんだよ」
 今までで一番か細い声で、先輩は呟いた。僕は、どうしてかは分からないけど、なぜか先輩と出会った日のことを思い出していた……
「その人は、私のことを一番に見てくれてはいないんだって。とても勝手な話だけど、一度それが分かってしまったら、もう筆は握れなくなった。だからもう、小説は書かない。それに、ちょうどいい頃合いだったんだよ。もう四回生だから、就活を始めなきゃいけないし」
 その確かな決意に、僕も嬉野さんもそれ以上口を挟むことはできなかった。先輩は、まだ淹れたお茶を半分も飲んでいないのに立ち上がって「それじゃあ、私はやることがあるから」と言って部屋を出ていった。
 僕は心が揺れていた、というより焦っていた。嬉野さんは人知れず涙を流している。
 それは自惚れなのかもしれない。だけど鈍感な僕は、一つの正解かもしれない答えを導き出していた。
 嬉野さんが言うには、名瀬雪菜はサイン会の時に誰かを探していたらしい。その誰かが、おそらく先輩を励ましてくれた人なのだろう。その人のために小説を書いて、だけどその人はサイン会に現れなかった。
 不調の時に励ましてくれた人。先輩はずっと、部屋にこもりきりな人だった。名瀬雪菜はずっと素性を明かさなかったし、直接的に七瀬奈雪が名瀬雪菜であることを知っていた人なんて、おそらく一人もいない。
 何も知らない僕は、先輩に名瀬雪菜のことを熱弁していた。そして先輩は言ったのだ。
『きっと本人がそれを知ったら、とっても喜ぶんじゃないかな』
 僕は、そうは思いたくなかった。僕という人間が先輩の行動を変えて、先輩の辿るはずだった道を壊してしまったなんて。
 あのサイン会はほんの些細な事のように見えて、実はいろいろな出来事の分岐点だったのかもしれない。
 何気なく過ぎ去っていく一瞬一瞬の時間の中にも、とてもかけがえのない瞬間が存在するのだと僕は思う。それは小さな引き金になって、後々の人生に多大な影響を及ぼす。
 たとえば僕が名瀬雪菜の本を読んだ瞬間。
 あの一瞬、あの時間に名瀬雪菜の書いた本を読まなければ、きっと小説家になるなんて夢は生まれなかった。
 だけど僕はその夢を失ってしまった。もしかすると、あの瞬間に何か特別な経験をしていたら、その夢は継続されていたのかもしれない。
 サイン会へ行かなかった。
 そういうちょっとした出来事も、後々に自分の人生を大きく変えることになるのかもしれない。
 玉突きのように、蝶の羽ばたきのように。
 僕はそれを知って、怖くなった。他の人の人生に多大な影響を及ぼしたかもしれなくて、怖くなった。
 だから僕は逃げたのだ。なるべく、ただの勘違いだと自分に言い聞かせた。僕という人間が先輩の人生を変えるなんて、そんなことありえない。
 先輩にはきっと大切な人がいて、その人がサイン会に来なかったのだと。そう思い込むことにした。
 そうしないと、僕は僕が冷静でいられなくなると思ったから……
 先輩が実はあの名瀬雪菜本人で、もう小説は書かないと知った時はそれなりに驚愕した。だけど、嬉野さんの方が多分に驚いて涙を流していたから、いくらか冷静になることができた。

 支えてあげなきゃいけない。本能的にそう思ったのだ。

 あれから嬉野さんはずっと目に涙を溜めていて、僕に名瀬先生の魅力を延々と語り続けている。僕はその全てをしっかり聞いて、受け止めてあげた。何度も何度も作家をやめて欲しくないと言い続けていて、その度に僕も胸が苦しくなる。嬉野さんと同じで、先輩の作品がまだ読みたかったからだ。

 しかし結局最後は「名瀬先生が決めたことだから、仕方ないんだよね……」と事実を受け入れ始めた。それは諦めにも似た感情なのかもしれないけど、とりあえず心の整理が出来始めていることは喜んでいいんだろう。

 僕たちは流れていく現在の時刻を、一本のメールによって知った。嬉野さんのスマホに、お母さんからのメールが来たらしい。内容は「もう九時だけど、今日は帰ってくるの遅いの?」というものだった。

 いつの間にか三時間も経過していたことに驚く。嬉野さんは袖で涙を拭った。

「もう大丈夫?」
「だいぶ、楽になったかも」
「家まで送ろうか」

 先ほどまで泣いていた女の子を、一人で向かわせるわけにはいかない。そう思って提案したことなんだけど、まずかっただろうか。

 嬉野さんはもう一度スマホを操作して、何やら都合の悪そうな表情を浮かべた。僕と帰るのが嫌なのかと一瞬自虐したけど、どうやら違うらしい。

「ここら辺の終バス、もう終わってる……」
「えっ」

 僕は声にならない声を発した。ちょっと失礼だったかもしれない。

「私の家、駅の近くなんだよね……」

 ここから駅まで、歩いて一時間はかかる。通常時なら辛うじて無理のない距離だけど、今の嬉野さんは精神的に難しいだろう。

 それなら、選択肢は一つしかなかった。

「今から……」
「今日、もしよかったらでいいんだけど、泊めてくれないかな……?」

 言葉が重なってしまった。僕の『タクシー呼ぶよ』という言葉は、尻切れトンボになって宙を漂う。

 重なってしまったせいで、言葉がうまく聞こえなかった。

「ごめん嬉野さん、今なんて……?」

 訊き返すと、嬉野さんは少し頬を染めた。

「今日だけ、部屋に泊めてくれないかな……タクシーはお金かかるし、お母さんたちにも泣き顔は見せたくないから……」

 その提案は僕が回避しようとしていたもので、だから嬉野さんが提案してきたことに少々驚いた。

「いやいや、女性が男の部屋に泊まるのはマズイって……」
「公生くんのことは、信頼してるから。さっきまで私のこと真剣に励ましてくれてたし」
「嬉野さんのことを騙すために、わざといい人を演じてたのかもよ?」
「公生くんは、悪い人なの?」

 純粋な疑問を真正面からぶつけられて、返事に困った。もう女性を部屋にあげる時点で、男としては何かしらの期待はしていたんだと思う。

 下心が全くなかったなんて言い切れない。

 黙っていると嬉野さんは「公生くんのことは、信頼してるから」と言ってくれた。それから頬を染めて冗談交じりに「それにほら、私公生くんのこと好きだから。何かされても、全部受け止められるよ」と言った。

 それが一番マズイのだ。

 好意を持ってくれている女性と一夜を過ごすなんて、絶対に何かまずいことが起きる。僕は控えめな性格をしているけど、万が一のことがあったとして、その時は嬉野さんに迷惑をかけることになるかもしれない。

 それは申し訳ないし、気にしないと言ってくれても何かをしてしまった時、それが中途半端すぎる気持ちだったら嬉野さんを悲しませることになる。男として、それだけはしたくなかった。

「家に帰らなかったらさすがに親が心配すると思うよ。働いてるけど、まだ二十歳になったばかりなんだから」
「今の精神状態で帰った方が、よっぽど心配させちゃうと思う。だから落ち着ける時間が欲しいの」
「そうはいっても、寝る服とかは……」
「それは公生くんのを貸してほしい」
「いやいやそれは……」
「公生くんさえ了承してくれれば、私は何も言わないよ」

 僕はハッキリと断ることができない人間のようだ。結局最後は押し切られて、不覚にも首を縦に振ってしまう。

 その時に見せた彼女の笑顔はとびきり可愛くて、胸が大きく跳ねた。そんなに喜んでくれるなら、やっぱり泊めることにして正解だったのだろうか。それは、僕には分からない。

 だけどやっぱり一定の距離を保ち、嬉野さんがお風呂に入れば僕は外に出た。夕食は嬉野さんが「一宿一飯の恩義だから」と言って聞かなかったから、全部任せてしまった。

 冷蔵庫にある食材は少なかったから出来合いのものしか作れないかもと言っていたけど、彼女の作る料理はどれも美味しい。

 興味本位で「どうしてこんなに料理が上手いの?」と聞いてみたら、「好きな人に作るんだから、いつもより張り切っちゃうよね」と笑顔で言われて僕は黙り込んだ。

 布団を敷いた時にはもう、嬉野さんはいつも通りに戻っていて、やっぱり泊めて正解だったのかなと思い始める。

 だけど嬉野さんが布団の上に正座をして「私って、そんなに魅力ないかな?」と言ってきたから、泊めたりするんじゃなかったと後悔した。

 そんなことを聞かれて劇的な雰囲気にならないはずがないし、僕も嘘をついたりはできない。

「嬉野さんは、素敵な人だと思うよ……でも、」
「公生くんに好きな人がいるとか?」
「それはいないけど……」
「じゃあどうして?」

 言葉に詰まる。嬉野さんはとても魅力的な人だし、むしろ僕にはもったいないぐらいだ。しかし、実はそれが一番の理由ではない。

 なぜか、苦しくなるのだ。心の中心が張り裂けそうなぐらい苦しくなる。どうしてこんな気持ちになるのかは分からない。

 その曖昧な気持ちを言葉に出来ず黙り込んでいると、嬉野さんが空気を読んでくれたのか折れてくれた。

「ごめん。こういうの、卑怯だよね。公生くんが答えを決めるの、ずっと待ってるから」
「卑怯だなんて、そんなことないよ。むしろすぐに返事を出せなくてごめん……」

 返事なんて、本当は決まりきっているのに。僕はいったい何をしたいんだろう。

「そういえば、公生くんってどうしてサイン会に行かなかったんだっけ?」

 そう訊かれて、僕は金曜のことに頭を巡らせた。巡らせただけで、何かがわかったわけではない。例のごとく、自分の記憶は曖昧だ。

「どうしてだろ……僕なら、風邪を引いても行くと思うんだけど」
「なんか、おかしいよね。二人揃って最近の記憶が曖昧って」
「うん……」
「私たちの他に、誰かがいた気がする」
「僕も、そう思ってる」

 それは、先ほども確認しあった内容だ。僕たちを繋いでくれた誰かがいる。忘れてしまったけど、誰かがいたはずなんだ。

 そう考えて、タンスの中に入っていた洋服を思い出した。僕はそれを取り出し、嬉野さんに見せる。

「実は、これなんだけど……」
「え、うそ。公生くん、そんな趣味あったの……?」
「ち、ちが……」
「でも、私なら受け止めてあげれるよ。ちょっと時間かかるかもだけど、ちゃんと受け止めるから……」
「だから違うって! 誤解! 誤解だから!」
「誤解?」

 僕は乱れた呼吸を整える。

「気付いたらタンスの中に入ってたんだよ。なんかこれみてると、懐かしい感じになるっていうか、胸が苦しくなるんだ」

 嬉野さんはマジマジと、僕の取り出した洋服を見る。

 白を基調としたカットソーに青のロングスカート。僕にそんな趣味はないし、おそらく誰かが着ていたんだろう。でも、誰が……

「確認するけど、本当にそんな趣味はないんだよね?女装趣味とか……」
「だから、そんなのないって」

 嬉野さんはホッと胸を撫で下ろした。本気で僕にそんな趣味があるとでも思ったのだろうか。いや、タンスから女性物の洋服を取り出す時点で、そういうことを疑われても仕方ないんだけど。

 というか、時間がかかっても受け止めてくれると言ってくれたのが、実は嬉しかった。本当にそんな趣味はないんだけど。

「これは可能性の話なんだけど……」と、嬉野さんは前置きをした。僕は耳を傾ける。
「公生くんはもしかすると、この洋服を着ていた女の子が好きだったんじゃないかな?」

 そんな話ありえないとは思ったけど、僕は口に出して否定をすることができなかった。その可能性の話が事実なんじゃないかと、少しでも考えてしまったからだ。

 そんな突飛な話じゃないと、僕が嬉野さんに抱いている中途半端な気持ちも説明がつかない。衣服を見て、懐かしく苦しい気持ちになるのは、この服を身につけていた人が好きだったから。そう考えてしまうこともできる。

 だけどそれは全部憶測で、真実じゃない。

 不確定すぎる妄想で嬉野さんへの返事を先延ばしにしているのは、たぶんとても失礼なことなんだと思う。逃げていると思われても仕方ない。

 その人のことが好きなんじゃない? という話をした時、嬉野さんは少しだけ唇を尖らせていたけど、一度大きく手を叩いてすぐに笑顔を作った。

「この話はこれでおーしまいっ。せっかくのお泊まり会なんだから、楽しい話しようよ」
「楽しい話って言っても、明日も仕事なんでしょ?一度家に帰って着替えもしなきゃいけないから、明日は早く起きないと」
「細かいなぁ、公生くんは。でもまあ、早く寝なきゃだよね」

 素直な嬉野さんはすぐに布団へ入ってくれた。僕は座布団を並べて簡易布団を作る。

 嬉野さんを部屋に泊める上で、実は先ほど協定のようなものを結んだ。それはどんな理由があっても嬉野さんが布団を使うというもので、それが出来なきゃ部屋には泊めないというものだ。

 どうしてそんなことを強要したのかというと、彼女が畳の上に寝ると言い張ったからだ。僕としては女性を畳の上に寝かせて自分だけ布団で、というのは出来なかったから、そこだけは否が応でも納得してもらった。

 電気を消して横になる。なるべく意識をしないように、少しだけ離れた場所だ。

 ぽつりと、暗がりの中で嬉野さんは呟いた。

「君を好きになった理由。じつはもう一つあるんだよ」

 一度大きく心臓が跳ねて、嬉野さんは卑怯だと思った。こんな暗がりの中じゃ、どこにいるのか判別がつかない。まるですぐそばで言われているかのようだった。

「いつもは控えめな男の人だけど、大切な人のためならすごく真剣になれるとこ。私、本屋で君の後ろ姿を見て、ちょっとかっこいいなって思ったの。大声で叫んで、追いかけて、それがたぶん一番グッときたとこ」

 僕はショッピングモールでの出来事を思い返す。嬉野さんと二人で本屋に行って、たくさん小説をオススメしてもらった。そのあと、僕は誰かを追いかけて非常階段まで走ったのだ。

 でも、誰を追いかけていたのか、思い出せない。

「……って、公生くん誰を追いかけてたんだっけ?」
「誰を追いかけてたんだろ……」
「うまく思い出せないけど、夢じゃなかったよ。すごく、かっこいいって思った」

 この人は本当に僕のことが好きなんだ。一日接しただけで、それが自惚れなんかじゃないということが伝わってくる。だからこそ真剣に考えなきゃいけないと思った。