それからもいろいろ紆余曲折があったけれど、十時に間に合う時間に出かける支度が終わった。
 しかし華怜が心配だったから「今日はやめて、また今度にする?」と提案するも、首をふるふると横に振るだけで、折れようとはしない。
 僕はこの前以上に目を光らせなきゃいけないなと思った。
 そしてその決意は、部屋を出た瞬間にいきなり試されることになる。
 ドアを開けた瞬間が、タイミング悪くも隣の部屋の先輩と重なってしまった。
 最悪のタイミングだなと思いつつも、僕は一応後輩だから挨拶ぐらいはしなきゃいけない。それぐらいなら、華怜も許してくれるだろう。
 僕は挨拶だけだと言い聞かせて、部屋から出てくる先輩を見た。今日はおかしなことが、立て続けに起きている。
「先輩、その格好……」
 僕が半分驚きつつそう訊くと、先輩は照れくさそうに頬をかいた。部屋から出てきた先輩は、就活用のスーツに身を包んでいて、髪もしっかりセットしていたのだ。
 こんなにしっかりした姿を見るのは、二年ぶりだった。
「いやぁ、私も一応は就活生だからね。そろそろ、真面目にやらないとダメかなって」
「あ、あぁ。そうなんですか……」
 就活生なのだということをすっかり忘れていた。今から就活って、結構大変なんじゃないだろうか。準備とか、早い人は何ヶ月も前から始めているだろうし。
 そんな余計な心配をしていると、僕の服の袖を華怜が引っ張った。そちらを見ると華怜は視線をさっと外して、微妙な表情を浮かべている。
 やっぱり、先輩と話すのは許してくれないらしい。どうにかして会話を中断させようと試みたけれど、先に先輩がいつも通り左手を上げて別れの合図をしてくれた。
「それじゃ、私は急いでるから」
「あ、はい。頑張ってください」
「君も、ね」
 気のせいかもしれないが、最後に見えた先輩の表情は切なげにも、儚げにも見えた。僕はやっぱり、その表情の意味がわからない。分からないことが、多すぎる。
「……浮気はダメです」
「絶対しないよ」
「許しませんからね」
 なんだかいつもより険しい顔をしていて、少し怖いと感じた。今までなら不安の表情を浮かべて、必死に懇願してくる感じだったのに。
 だからといって、僕は今のスタンスを変える気なんてないけれど、少し気がかりだ。
 もしかして、今朝から僕に対して怒っているのだろうか。怒られるようなことをした覚えは一つもないのに。
 僕らはまた微妙な空気間をまとったまま、駅の方へと向かった。バスに乗っている時も一言も会話を交わさず、華怜は景色を見ることをしなかった。ずっと俯いたまま、僕と距離を取っている。
 駅に着いたらバスを降りて、喫茶店へと向かう。指定されていたところは裏道にあり、普通に歩いていたら見落としてしまいそうだった。
 隠れた穴場、という場所なのかもしれない。外装と同じく店内もこじんまりとしていて、お客は少ない。応対してくれた店員に「待ち合わせをしているんです」と要件を伝えると、笑顔で奥のテーブル席へと案内してくれた。
 そこには赤縁メガネをかけて本を読んでいる嬉野さんがいて、僕らに気がつくと柔らかい笑顔を向けてくれる。