五月二十五日 (金)
「三十九度八分」
 布団の上に横たわっている華怜の脇から体温計を取り出し、その数字を読み上げた。それはもう誤魔化しようのない、立派な風邪だった。
 荒い息を吐きながら、華怜は全身から大粒の汗を流している。
「こうせいさん……」
「ごめん華怜……僕がそばについていたのに……」
 おでこに乗せていた水タオルを取り替えて、彼女が起き上がろうとしたのを制止させる。熱のせいで身体に全く力が入っていなかった。
「こうせいさん……」
「今日はしっかり休もう。ずっとそばにいるから、安心してて」
「そうじゃなくて……」
「どうしたの?」
「サイン、会……」
 僕は壁にかけられている時計を見た。おそらくもうサイン会は始まっていて、今更駅に向かっても間に合わない。
 というより、行くわけがない。風邪を引かせてしまった女の子を一人置いてそこへ行くなんて、どうかしている。
 それにもう昨日の時点で、サイン会は諦めていた。
「僕のことは気にしないで。サイン会なんかより、華怜の方が大事だから」
熱に浮かされている華怜の目の焦点は定まっていない。
「行って、ください……」
「絶対に行かないよ」
 華怜の汗に涙が混じる。こんな時まで僕のことを考えてくれていて、華怜は本当に優しい女の子だ。
 だけど今は、その優しさを真正面から受け止めることはできない。辛いけれど、これが僕が彼女にしてあげられることだから。
「わ、たし……」
 華怜は呟いた。ただ一言「ごめんなさい」と。
 それから彼女は気を失ったようにすぐ眠り、眠っている時も苦しそうに呼吸を繰り返している。おそらく身体は汗ばんでいて、拭いてあげないと余計に冷やしてしまうと思った。
 だけど恋人だからといって、女の子の服を脱がせて身体を拭くというのはためらわれる。
 仕方ないし申し訳ないけれど、隣の部屋の先輩を呼ぶことにした。今頼れるのは先輩しかいない。
 僕はどこかで、どうせ今日もパジャマを着たまま髪をボサボサにして、部屋の中で何かをやっているのだろうと勝手に思っていた。とても失礼だと思うけれど、普段の先輩がそうなのだから仕方ない。
 結論だけ言うと、先輩は部屋の中にいなかった。
 何度インターホンを押しても反応はないから、おそらく寝ているというわけでもないのだろう。すごく、タイミングが悪い。
 部屋へ戻って再びタオルを交換して、卵のおかゆを作った。風邪のときは消化の良いものを食べた方がいいと聞いたことがあるから、間違ってはいないだろう。
 それから何度かタオルを取り替えていると、華怜は目を覚ました。もう当然サイン会は終わっているだろうから、諦めてジッとしてくれるかと思ったけど、違った。
「サイン会、行ってください……」そう言って、また彼女は涙を流す。
「もうたぶん終わってるから、行っても意味がないよ」
 温めたおかゆをスプーンですくって、華怜の口元へ近づけた。最初は口を引きむすんでいたけれど、やがてゆっくりと口を開いてくれる。
 長い時間をかけて咀嚼して、飲み込んだ。
 それを何度か続けてから、アパート前にある自販機で買ってきたドリンクをストローを使って飲ませてあげる。
「身体、拭いてもいい?」
 しばらくの沈黙の後、華怜はコクリと頷いた。彼女は自分でボタンを外していき、綺麗な肌を露出させる。
 その扇情的な光景に一瞬胸がどくりと跳ねたけれど、慌ててかぶりを振った。今はそういうことを考えているわけにはいけない。
 早くしないと、華怜は身体を凍えさせてしまう。
 上の方からバスタオルで拭いてあげた。それが胸のあたりへ行ったとき、ぽつりと華怜は呟く。
「あの、公生さん……」
「もしかして、何かまずかった?」
「いえ……むしろ、ありがとうございます……」
「どういたしまして。それで、どうしたの?」
 華怜はもう一度つぶやいた。
「ごめんなさい……」
 どうして謝る必要があるのかと思ったが、深くは聞かないことにした。今は、一刻も早く風邪が治ってほしい。
「僕の方こそ、ごめん」
「ごめんなさい……」
「華怜は何も悪くないよ」
 下着と寝巻きを取り替えて、もう一度寝かしつける。おでこに手を当てて軽く熱を測ったけれど、先ほどからあまり変化はなかった。
 華怜がすがるように、僕の手を握ってくる。
「大丈夫、そばにいるから。安心して」
 そう伝えてあげると安心した表情で、華怜はもう一度目をつぶった。しばらくすると安らかな寝息を立て始める。
 いつの間にか時刻は夕刻になっていた。
 サイン会のことが頭をよぎったけれど、別に後悔なんてない。
 名瀬雪菜がこの県に住んでいるのなら、きっとまたチャンスはいくらでもやってくるだろう。たとえもうそんなチャンスがやってこなかったとしても、後悔なんて絶対しない。華怜と一緒に居られるなら、僕はそれだけでいいから。
「コウちゃん……」
「え?」
 思わずその呟きに反応する。どうやら寝言だったようだ。
 妹にコウちゃんと呼ばれていた時期があったため、懐かしいなと思った。
 もしかすると、記憶を失う前の友達のあだ名なのかもしれない。
 今華怜は、幸せな夢を見ているのだろうか。せめて夢の中ぐらいは幸せであってほしいと、僕はそう思った。

※※※※

 華怜が目を覚ましたのは、夕刻の六時を少し回った頃だった。
 僕はその間ずっと手を繋いでいて、そのおかげか目を覚ましたときは安心したように微笑みを向けてくれる。
「熱測っていい?」
「はい」
 体温計を脇に挟んで熱を測ると、三十八度三分だった。少しだけ下がったけれど、まだまだ熱はある。
「辛い?」
「ちょっと、辛いです。でも少しだけ楽になりました」
 タオルを変えてあげると、華怜は「ありがとうございます」とお礼を言う。気持ち的にも落ち着いたみたいで、本当によかった。
「あの、公生さん。話しておきたいことがあるんです」
「どうしたの?」
 華怜は布団の中でもぞもぞと動き、しっかりと話ができるようにこちらを見た。大事な話なんだろうな、ということがすぐに理解できたから、僕もしっかりと耳を傾ける。
 僕はその話の内容を聞いて、ドクンと心臓が跳ねた。
「記憶が、戻りました」
 急に、口の中に渇きを覚える。
 記憶が戻ったということは、その先を決める権利が華怜に生まれたということだ。僕は彼女の決めたことに口を挟むことをしちゃいけないから、その意思に任せるしかない。
「華怜は、どうしたい?」
 一週間捜索してくれなかった両親の元へ、本当に戻りたいのか。その言葉を僕は、必死に飲み込んだ。僕は僕が最低の人間だと、痛いほどにに自覚した。
 きっと何かしらの事情があったのだ。会わなくても、華怜の両親が素敵な人間だということは容易に想像が付く。
 料理が上手いのは、たぶん母親に教えてもらったからだ。あんなに美味しい味噌汁を作れる華怜の家庭が崩壊しているなんて考えられない。
 あの綺麗な肌を見て、虐待を受けたりしていないことは容易に想像できる。
 僕はただ、悪い方悪い方へと転がってほしいと思っていたんだ。本当に最低で、卑怯者だ。
 華怜が家へ帰りたいと思うのは、至極当然の思考だ。もうこれで、甘く穏やかな生活が終わるのだと思うと、なんだかとても、辛かった。
 だから僕は、次に飛び出した華怜の言葉を理解するのに、やっぱり数秒の時間がかかった。
「ここにいても、いいですか?」
 手を握ったまま、まっすぐと、華怜はそう言ってくれた。この時の僕は、さっぱりわからなかった。どうして自分の両親より、この僕を選んでくれたのか。こんな、どうしようもない僕のことを。
 ここにいたって苦労をするだけで、幸せになれる保証なんてないのに……
「いえ、間違えました」
「間違えた……?」
 僕は途端に不安になる。
 だけどその不安を、華怜はすぐに払拭してくれた。僕の目頭が、急に熱を帯び始める。
「ずっとここにいて、いいですか?」
「ずっと……?」
「ずっとです」
 華怜は決して目をそらさない。熱で身体は辛いはずなのに、ただ僕をまっすぐに見てくれる。
「両親には、なんて言うの?」
「公生さんが了承さえしてくれれば、なんとかなります」
「高校は?」
「公生さんが了承してくれれば、すぐにやめます」
「本気……?」
「本気です。別に学歴がなくても、アルバイトぐらいは出来るので」
 熱に浮かされているとか、そんなのじゃない。華怜は本気だ。本気で僕との将来を考えてくれていて、そのために、取り戻した記憶を全て手放そうとしてくれている。
 そこまでしてくれる華怜が嬉しくて、嬉しくて。僕はいつの間にか、無意識に華怜のことを抱きしめてしまっていた。
「ここにいてほしい」
 スッと華怜の鼻をすすった音が聞こえる。身体は未だ熱を帯びていて、ここにちゃんと生きていて、夢なんかじゃないということを強く実感させてくれた。
 華怜はぽつりと、呟く。
「私、親不孝ものですね……」
「両親には、いずれしっかりと説明するよ」
「許してくれるか、わかりませんよ」
「それなら駆け落ちしよう。どこか、ずっと遠くに」
「駆け落ち、ですか?」
 その声は涙声で震えていた。
「北海道でも、沖縄でも、どこでもいいよ」
「暖かい場所がいいです」
「じゃあ、沖縄にしよう」
 華怜となら、きっとどこへ行っても大丈夫だ。最初は僕が定職に就いて、華怜はアルバイトをしながら生活費を稼ぐ。余裕が出てきたら、小説家になる夢をゆっくり叶えていけばいい。
 時間はたっぷりとあるんだから。
「嬉しいです」と、華怜は言った。抱きしめる腕を強めてくる。その腕は微かに震えていた。泣いていると分かったから、僕も強く抱きしめる。
 怖いものなんて何もないと、ただ純粋にそう思った。