午前の講義が終わるとすぐにバスへ乗り込み、数十分ほど揺られて目的の場所で下車する。ずっと座っていたから腰の負担が大きく、二人揃って青空に向かって伸びをした。
 天気は、朝と同じように快晴だ。
「お出かけ日和ですねっ!」
「晴れてよかったよ」
 緑地公園へ向かうべく川辺の方角へ移動すると、それにしたがって周りに緑の気配が増え始める。いつの間にか左右にはアーチのように高い木々が立っていて、きっと春には綺麗な桜並木になるんだろうなという予感をさせた。
「空気が美味しいですね」
「歩いてるのに、なんだか気分が安らいでくるね」
「やっぱり、来てよかったです」
 しばらく歩き続けると、やがて開けた場所へ出た。
「うわぁ」と、華怜は感嘆の息を漏らす。僕も、同じように息を吐きそうだった。
「緑ですね」
「緑だね」
 その表現は過剰なんかじゃなくて、むしろ足りないぐらいだ。
 中央には大きな噴水が据えられていて、周りの地面には緑の絨毯が敷かれている。木々は風によって揺らめいていて、千切れた木の葉が舞っていた。
 子どもたちは緑の絨毯の上を走り回っていて、大人たちはシートを敷いて和やかに談笑している。
 その光景にしばらく見惚れていると、華怜のお腹がクーッと鳴った。僕はクスリと笑って、華怜は顔を真っ赤にする。
「とりあえず、お昼ご飯食べよっか」
「そ、そうですね! そうしましょう!」
 日差しが当たらないように、木陰にシートを敷いて腰を下ろした。華怜は僕のリュックから出てくるものを心待ちにしているのか、両手を握りしめてウズウズしている。
 それに苦笑して、意地悪せずに並べてあげた。
「いただきま――」
「その前に、手拭こうね」
「む……」
 お手拭きを渡すとすぐに手を拭いてくれる。
 そしてようやくベーコンサンドに手を伸ばした華怜は、それをすぐに口の中へ入れて、美味しそうに頬張り始めた。
「おいひいです!」
「飲み込んでから話そうね」
 そう言うと、言われたとおりにごくんと飲み込んだ。
「美味しいです!」
「それはよかったよ」
「マヨネーズの味が効いてますね」
 僕もベーコンサンドを手づかみしてかぶりついた。最近はいつも朝ごはんにベーコンを食べているけれど、こういったところで食べるとまた違った味わいがある。
 パンに挟んでいるからというのもあるけれど、多分それだけじゃないんだろう。
「美味しいね」
「ですよねっ!」
 次いで、たまごサンドへ手を伸ばす。
 これもマヨネーズと絡めていて、とても美味しかった。それは華怜も同じだったようで、咀嚼しながら頬に手を当てている。
「んー!」
「ちゃんと噛まなきゃだよ?」
 しっかりと顎を動かして、またごくんと飲み込んだ。
 そして幸せな表情を浮かべた後、そろそろと僕の隣へ移動してくる。
 どうしたのかと思っていると、寄り添って肩に頭を乗せてきた。ふと、ドギマギしていた頃が懐かしいなと感じる。
 今はこうして彼女と寄り添うことが、何物にも比較できないほどの幸福だった。
「前も思ったんですけど、こうしていると落ち着きます」
「僕も、前は緊張したけど今は落ち着くかな」
「緊張してたんですか?」
「だって、こんなこと一度もされたことなかったからね」
「ふふっ、私が公生さんの初めてなんですね」
 初めて、という言葉に少し落ち着かなくなる。それを言ってしまえば、手を繋いだのも初めてだし、キスをしたのも初めてだ。
 これからも、華怜といろんな初めてを共有していくのだろうかと想像して、僕の心はまた幸福に包まれる。
「私、ずっと思っていたことがあるんです」
「何を?」
「もしかすると、本当はどこかで公生さんと出会ってるのかもって。こんなに安心するってことは、私たちが幼馴染だったりしませんか?」
「どうかな。僕も同じことを考えたことがあるけど、たぶん一度も華怜と出会ったことはないと思う」
「公生さん、本当は隠しているんじゃないですか?」
「もう何も、華怜に隠し事はしてないよ」
 仮に幼い頃に華怜と出会っていたとして、当時の出来事を覚えていないはずがない。それこそ僕が記憶喪失にでもならないと、いつまでも執念深く覚えているだろう。
「じゃあもしかすると、前世で一度出会ってるのかもしれません」
「それはないんじゃないかな」
「わかりませんよ? 公生さんのことが忘れられなくて、会いにきたのかもしれません」
 そんな小さな妄想をして、二人でクスリと笑いあった。それから断言するかのように、華怜は言った。
「絶対に、私たちはどこかで出会ってます」
 どうしてだろう。
 僕の中にそんな記憶はないはずなのに、それが事実であるかのように思えてくる。事実だったらいいなと思った。
「私、めんどくさい女の子ですよ」
「いきなりどうしたの?」
「これから先、絶対に苦労すると思います」
 言いたいことはなんとなくだけど伝わった。
「浮気は絶対許しません」
「絶対浮気なんてしないから」
「七瀬さんと仲良く話してるだけで、ちょっと妬いちゃいます」
「なるべく話さないようにする」
 先輩には悪いけれど、華怜が妬いちゃうなら仕方がない。
「毎日こうしてくれないと、心配になるかもしれません」
「じゃあ、毎日寄りかかってきなよ」
「でも公生さんが愛してくれるぶんだけ、私も頑張りますよ」
「何を頑張るの?」
「頑張って、アルバイトを始めます」
 僕は思わず、小さく微笑んだ。
「公生さんが小説で上手くいかない時に、隣で励ましてあげます」
「それは頼もしいや」
「だから、なってくださいね」
「うん」
 君のために、小説家を目指そう。誰かを前向きな気持ちにするために、そして一番大切な華怜のために。
 改めてそう決意すると、華怜は隣で大きなあくびをした。
「眠くなってきた?」
「ちょっと、眠くなってきました……」
「今日はいい天気だからね」
「せっかく外に遊びにきたのに、ごめんなさい……」
「そういうのも、たまにはいいと思う」
 華怜は自ら頭を僕の膝の上へ移動させて、眠る体勢に移行する。優しく、綺麗な長い髪を撫でてあげると、彼女はくすぐったそうに身をよじった。
「やっぱり、安心しますね」
「華怜が起きるまでそばにいるから」
「それはとっても、安心できます……」
 その言葉を最後に、華怜はまぶたを閉じた。それでも髪を撫で続けていると、次第に可愛い寝息が聞こえてくる。僕は撫でるのをやめて、つい出来心でほっぺたをつついてみた。
 寝ながら華怜が笑みをこぼして面白かったけれど、さすがに起きてしまいそうだからすぐにやめる。
 そうしているうちにも穏やかにゆっくりと時間は流れていって、気付いたら僕もウトウトし始め、いつの間にか意識が飛び飛びになっていた。
 危ない危ないと思いつつ、自分のほっぺを軽く叩いてかぶりを振る。
 どれぐらい眠っていたんだろうと思って、ふいに思いついたように空を見上げた。
「曇ってる……」
 あんなに晴れていたのに、いつの間にか青空はどんよりとした雲に遮られていた。
 雨が来る。そんな予感がどこからか湧き上がる。
 そういえば、天気予報を見ていなかったことを思い出す。最近はずっと晴れていたから油断してしまっていた。
 スマホを取り出し天気予報を調べると、午後の時間は雨雲になっている。
 今朝、華怜の調子が芳しくないのを思い出した。今歩き出さないと、確実に雨に降られる。そして、風邪を引かせてしまう。
 まだお昼寝をさせてあげたかったけれど、すぐに華怜の身体を優しく揺すった。寝起きはいいのかすぐに起きてくれて、僕を見上げて微笑む。
「おはようございます、公生さん……」
「おはよ、華怜。起きてばかりで悪いけど、今すぐ帰ろっか。雨が降りそうだから」
「雨?」
 華怜もねぼけまなこで空を見上げる。そして目が覚めたのか、僕の膝から離れすぐに立ち上がった。
「まずいですね」
「うん、まずい」
「帰りましょっか」
「そうだね」
 僕たちは、来た道を急いで引き返した。

※※※※

 幸いバスに乗り込むまで一滴も雨に降られなかったけれど、アパート近くのバス停に着いたほぼ同時刻に、パラパラと雨が降り始めた。
「雨、降ってきちゃいました」
「走ろっか」
「はい」
 わずかに濡れるのを覚悟して、僕らはアパートへの道を走った。表通りから裏通りへ入り、近道を使いながら住宅街をひた走る。だけど無慈悲にも時間は間に合わなくて、突然雨が大降りになった。
「ひゃー! つめたいです!」
「あそこ! あの公園に行こう!」
 僕が指をさした先には大きな公園がある。公園の中には屋根がある憩いのスペースがあり、とりあえずはそこで雨をしのげそうだった。
 といっても、もう全身はずぶ濡れだけれど。
 屋根の中へ入り込み、備え付けられているベンチに腰を下ろした。
「ああ……寒いです……」
「大丈夫?」
 そう訊くと、「くちゅん」という可愛らしいくしゃみをした。平常時なら笑いながらいじれたけれど、今はそういうわけにもいかない。
 華怜はベンチに座りながら身体をかがめて、寒さに震えていた。五月といっても、濡れてしまえばとても寒い。
 何かで暖めてあげられればと思ったが、着ているものは全部濡れていてどうしようもない。気休めにしかならないと思ったけれど、僕は後ろから華怜に抱きついた。
「雨が止むまでこうしてるよ」
「ごめんなさい……」
 また、「くちゅん」とくしゃみをする。
「今朝のことだけど」
 僕は気になっていたことを訊くことにした。
「本当は、体調悪かったんでしょ?」
 気付かないわけがなかった。これでもずっと華怜のことを見ていたんだから。それでも僕が折れてしまったのは、彼女の落ち込む姿を見たくなかったから。これでは、恋人失格だなと自嘲した。
 華怜は言い逃れは出来ないと分かったのか、申し訳なさそうにぎこちなく笑った。
「バレちゃってましたか……」
「バレバレだよ」
「ごめんなさい……」
「怒ってないから」
 むしろ確認不足だった自分を怒りたい。天気予報を見なかった自分を、青空の下でうたた寝してしまった自分を。
「雨が止んで部屋に戻ったら、すぐにお風呂を沸かそう」
「はい……」
「それで、暖かい毛布に入ってすぐに寝ようか」
「はい……」
 ぎゅっ、強くと抱きしめてあげる。華怜はいつも以上に身体を縮こませる。
「あれ……?」
 華怜がふと、公園の中央に生えている大きな木を見ながら呟いた。
「どうしたの?」
「あの、あれです……」
 そう言って彼女は、自分の背丈の何倍もある大きな木を指さした。
 だけど、あれがどうしたのだろう。
「あれがどうかしたの?」
「あれって、桜の木ですか?」
 僕は記憶を思い起こす。そういえば、今年の春にここを通った時に、桜が咲いていた気がする。
「たぶん、そうだと思うよ。でも、どうしてわかったの?」
 しばらく華怜は黙り込んで、ジッとその桜の木を見つめていた。本当にどうしたのかと思って顔を覗き込むと、再び彼女はゆっくりと口を開く。
「私、前にこの公園で……」
 そう呟いた途端、華怜は急に頭を抑えはじめた。
「ちょっと、どうしたの?」
「うっ、うっっ!!」
「華怜? 華怜?!」
 突然、彼女が呻き声を上げ始める。僕はどうすればいいのかわからなくて、ただただ華怜のことを抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だから」
 何度も、根拠のない大丈夫という言葉を囁き続ける。
 その呻き声は、しかし唐突に鳴り止んだ。落ち着いたのかと思ったけれど、それは違った。
 腕の中の華怜はぐったりとしていて、熱い吐息を漏らしている。身体はびっくりするほど発熱していた。
「……華怜?」
 返事はない。気を失ってしまったんだ。熱に浮かされたのか、それとも何か別のことが関連しているのかわからない。
 僕は華怜を抱きしめたまま、アパートへの道を走り出した……

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