お城へ近付いて、まず華怜は城門の大きさに驚いていた。次いで、幾重にも積み重ねられた石垣、白塗りの漆喰。
 僕は毎日遠目に眺めていたけれど、近くに来ればまた違った印象を植え付けられた。大昔はここで戦が行われていたのだ。
 それが今は観光名所になっていて、なんだか感慨深い気もする。
 お城の探索は思ったよりも早くに終わり、華怜の興味は別のものへと注がれた。
 お城のすぐそばに、大きな庭園がある。今度はそちらへ行こうということになり、僕らは進路を変えた。
 ここの庭園はこの市で一番の観光名所らしく、平日なのに多くの観光客で賑わっていた。
 砂利道を音を鳴らしながら歩いていると、目の前に開けた大池が広がる。
 小橋がかけられていて、華怜があそこへ行ってみましょうと言ったから、僕はそちらへ着いて行った。
 小橋の上から池を見下ろすと、そこには金色の鯉がスイスイと泳いでいた。
 華怜は、少し身を乗り出して池の鯉を眺める。
「あのお魚も、金箔を付けてるんですか?」
 そばにいた観光客がその言葉にくすりと笑った。
 僕も、もちろん笑ってしまう。
 華怜はなぜ笑われたのか分からないらしく、どこか釈然としないといった風に唇を尖らせている。
「鯉に金箔は付けたりしないんじゃないかな。ほら、水に濡れると剥がれちゃうし」
 馬鹿正直に答えてあげると「なるほどです」と素直に頷いていたから、それもまた面白くて笑みがこぼれる。
「あ! あそこで赤色の鯉が跳ねましたよ!」
 そう言ってさらに身を乗り出して、向こうを指差した。
「えっ、どこ?」
「ほら、あそこですって」
 さらに、華怜は身を乗り出す。
 向こうで、一匹の鯉が水面を跳ねた。
「ほらほら、きっとあそこにはいっぱい鯉がいるんですよ!」
 鯉も気になるけれど、そろそろ危ないなと思った僕は、華怜のお腹へ手を回して手すりから引き離した。
 ビクッと身体を震わせて、何事かというように焦った顔で僕を見てくる。
「な、なんですか?!」
「夢中になるのはいいけど、そんなに身を乗り出すと危ないからさ。気をつけないと鯉と一緒に泳ぐことになるよ」
「わ、私そんなにはしゃいでましたか?」顔を真っ赤にさせて、俯いた。
「そりゃあもう子供みたいに」そう言うと、照れ隠しかポカポカと胸のあたりを叩いてきた。全然痛くない。
「恥ずかしいので、もっと早くに指摘してくださいっ!」
「子供心を忘れないのはいいことだと思うけど」
「それでも、恥ずかしいんですっ!」
 僕はまたクスリと笑って、周りの人たちも微笑ましい表情で僕らを見ていた。
 向こうではまた一匹、鯉が跳ねる。
 それから機嫌を直してもらうために、庭園の中にある甘味処へ入った。そこでみたらし団子と抹茶を買って、軒先にあるベンチに腰を下ろす。
 まわりは自然に囲まれているから、どこにいても心地いい。
「私、食べ物で機嫌が直るほど子供じゃないですっ」
「じゃあ、食べない?」
「むっ……」
 また唇を尖らせて、潤んだ瞳でみたらし団子を見つめている。ちょっと意地悪しすぎたかもしれないと、反省した。
「ごめんごめん。今日は楽しかったからさ、機嫌直しとかそういうのは気にせずに、味わって食べてよ」
「……子ども扱いしませんか?」上目遣いに見てきたのが、ちょっと子供っぽかった。
 僕は苦笑しつつも、「しないしない」と答える。
 ようやく団子を食べ始めた華怜は、その美味しさの虜になってあっという間に自分のぶんを平らげてしまった。
 僕のぶんを一串あげると、それもすぐに平らげてしまう。
 口元と頬に付いたみたらしの蜜に華怜は全然気付いていなくて、あぁやっぱり子どもみたいで可愛いなと思った。
 ティッシュで拭いてあげると、年相応に恥じらいを見せる。
「ありがとうございます……」
「どういたしまして」
 それからは城下町を巡って、日が落ち始めた頃にアパートへと戻ってきた。恋人になってからの初デートにしては、上手く立ち回れた方だと思う。
 といっても相手が華怜だから、いつも以上に安心していたという部分が大きい。もっと別の誰かだったら、きっとドギマギして僕の方が気を使われていただろう。華怜以外の誰かとデートをしている姿なんて想像できないし、想像したくもないけれど。
 部屋へ戻ってからふと思いついて、今日の体験を小説風に書き起こしてみた。僕らの出会いからこれまでの出来事を、面白おかしく短編のようにしてまとめてみる。
 予想していたよりも筆が乗って、あっという間に書き終わってしまった。それを華怜に見せてみると、顔を真っ赤にしながら、またポカポカと肩を叩いてくる。
 その夜僕らは布団の中で向かい合い、明日の予定について話し合った。明日も午前中は講義があるけれど、午後に入っている佐々木教授の講義が休講になったのだ。
 その理由はあまり話題にしたくないけれど、娘さんの件が関係している。教授は一週間地元で過ごして、来週から大学へ復帰するらしい。
 せっかく半日時間が空いたのだから、少し遠出をしようということになった。
 といっても学生が行ける距離なんて限られているから、バスを少し乗り継ぐだけだ。
「大学とは反対の方向なんだけど、大きな緑地公園があるんだ」
「いいですね、じゃあ明日はそこに行きましょうか」
 前にバスの中で約束をしたから、華怜はいつにも増して乗り気だ。
「明日は早く起きて、サンドイッチを作りますね」
「僕も手伝うよ」
「たまご派ですか?シーチキン派ですか?」
「ベーコン派」
「私もです」
 いつもの僕らの掛け合いに、くすりと笑い合う。けど暗がりの中、不意に華怜は申し訳なさそうに表情を歪めた。
「毎日毎日出かけるのって、迷惑だって思ってませんか?」
「全然。むしろ、もっと出かけたいなって思ってるよ。もちろんここでゆっくりするのもいいけど、せっかく良い天気が続いてるんだから」
 そう本心を伝えると、華怜はホッと胸を撫で下ろした。迷惑だなんて思ったことは、ただの一度もない。
 そういえばと思い出し、明後日の予定も話しておこうと思った。
「金曜日は駅前の本屋でサイン会があるんだよ」
「サイン会、ですか?」
「名瀬雪菜って作家のサイン会なんだけど、高校生の頃からファンなんだ」
「名瀬、雪菜さんですか?」名前を呟いて、少し首をかしげた。
「どうしたの?」
「あ、いえ。どこかで聞いたような名前だなと思いまして。気のせいかもしれません」
「たぶん、この部屋で見たんじゃないかな。ほら、そこの本棚に入ってるから」
 華怜は月明かりだけを頼りに、頭の方角にある本棚を見て「あ、ほんとですね」と納得したように頷いた。
 それからまた布団の中へと戻ってきて、さっきよりも近くへ寄ってくる。暗がりの中で、頬をぷくっと膨らませていた。
「名瀬さんのこと、そんなに好きなんですか?」僕はくすりと微笑む。
「ヤキモチ焼いてる?」
「そんなんじゃないですっ」
 恥ずかしいのか、ぷいっと向こうを向いてしまった。それがまた面白くて、再び笑みがこぼれる。
「好きとかじゃなくて、憧れみたいなものかな」興味を示したのか、またこちらに視線を戻してくれた。
「憧れ、ですか」
「名瀬さんの本を読んで、小説家を目指そうって思えるようになったんだよ」
「そんなに面白かったんですか?」
「そりゃあね。今でも何度か読み返すほどだから」
「それじゃあ、運命的な出会いだったんですね」
迷ったけれど素直に頷いた。僕は名瀬雪菜に、人生を変えられたといっても過言ではない。何も持っていないつまらない自分だったけれど、彼女のおかげで初めて夢というものができたのだから。
小説なんて、それまでの自分はあまり読んだことが無かった。たまたま偶然通りがかった本屋でその本を目にして、奇抜すぎるタイトルに惹かれて購入し、一晩で読み終えてしまったのを今でも覚えている。それを読みながら、僕は何度も涙を流した、そして、自分が与えられる側の人間であるということを深く実感してしまった。
だから僕は見知らぬ誰かに対して、何かを与える人間になりたいと思ったのだ。些細なことでもいい。少しでも、僕の知らない誰かが前向きになってほしい。
一番初めに筆を握ろうと思った動機は、綺麗ごとだと笑われるような、とてもまっすぐな理由だった。だけどそんな綺麗ごとは、何年経ったとしても、変わることなんて一度もなかった。今この瞬間だって、僕はそれだけを願って小説を書いている。
そして一度は諦めかけてしまったが、今では一番大切な人である華怜がそばにいてくれたことによって、また夢を追いかけ続けられている。
 僕は、ずっと言おうか言うまいか迷っていたことを話すことにした。
「ありがとうございますって、一言だけ伝えたいんだよ」
 華怜は僕の話を、黙って聞いてくれた。
「作家になりたいっていう夢が出来て、今でもその夢を追いかけ続けられてる。きっとあの時あの瞬間に、あの人に出会えてなかったら今の自分は存在しなかったと思うんだ。それは、華怜も同じだよ。一度は諦めかけたけど、華怜のおかげでまた作家を目指せるようになって……」
 照れくさかったけれど、素直に言葉にできた。
「だから、本当にありがとう。ありがとうなんて言葉じゃ言い表せないぐらい、ずっとずっと感謝してる。華怜に出会えなかったら、きっと僕は……」
 そこまで言って、唇に柔らかいものが押し当てられた。
 それは、華怜の人差し指だった。
「たまたま、ですよ」
 そう言って、人差し指を離す。
「たまたま?」
「たまたま、その役割が私だっただけです。私じゃなかったとしても、公生さんは幸せな人生を送れてたと思います。私という人間を、過大評価しすぎですよ」
 そんなことはない。そう、ハッキリ思えた。
「過大評価なんかじゃないよ。あの時、あの瞬間に出会えてなかったら、たぶんほんとにダメだった。何もかも諦めてたと思う」
「それなら、私がその瞬間に間に合えてよかったです」華怜は屈託のない笑みを浮かべる。
「運命っていうのかもしれませんね、もしかすると」
「僕も、同じことを考えてた」
 どちらからともなく、くすりと笑い合う。
「明日が楽しみですね」
「本当に」
 明日が、楽しみだ。
 この時の僕らは本当にただそれだけが楽しみで、ずっとその先の未来までこの幸せが続くのだと思っていた。
 だけどすぐに僕らは、そんな幸せは永遠には続かないのだということを思い知ることになる。
 亀裂の予感は、もっと前から感じていたのかもしれない。