講義が終わると僕らは足早に廊下へ出た。先ほどの一件のことで、教授に呼び止められるとまずいからだ。
 それに、生徒の中で華怜のことが少しだけ話題になっていたのだ。
 みんな口々に「あの可愛い子は誰?」「全然見たことない」と話をしていた。
 あのままジッと座っていると、興味を持った人が話しかけてきそうな勢いだった。
 二人で校舎の外へ出て、近くにあった噴水の脇へ腰掛けると、華怜は大きなため息をついて肩を落とす。
「まさか、当てられるとは思いませんでした……」
「不運だったね」
「でも、あれから真面目に授業を聞いていたら、いつの間にか楽しくなってました」
 僕も、いつ当てられてもいいように必至に板書している姿を見ていて楽しかった。たぶん講義が楽しいって思ったのは、これが初めてのことだと思う。
 華怜は向こうで楽しそうに会話をしている学生を見ながら、どこか遠くを見つめるような目をしていた。
 友達というものが恋しくなったのかと思ったけれど、どうやら違ったらしい。
 それは、僕のことだった。
「公生さんは、お友達と話したりしないんですか?」
「大学に友達はいないんだよ。高校の頃はいたけど、みんな疎遠になっちゃって」
「新しく作ったりはしないんですか?」
「いまさら友達を作るのは、ちょっと難しいんだ。大学ってそういうところだから」
 華怜はきっと、ここに自分がいない景色を思い浮かべたんだろう。噴水の前で、一人で座る僕の姿。それは今までの僕の日常だった。
 とっても寂しい、日常。
「ちょっとそれは、寂しいですね」
「寂しいね」
「でも、今は私がいますから」
 そう言ってから、優しく手を握ってくれた。僕はそこまで落ち込んだ表情を浮かべていたのだろうか。
 そう考えていると、華怜はしたり顔でニコリと笑った。
「今の、恋人っぽかったですよね。ドキッとしましたか?」
「唐突すぎてビックリしたかな。でも、嬉しかった」
「こういう経験、たくさんしないとですよね」
 きっと華怜に悪気がなかったのだろう。でも僕は少しだけ、ちょっとだけ心の中が歪んで灰色に染まった。
 善意でやってくれているのだろうけれど、僕は華怜のことが好きだから、その気持ちを弄ばれているように感じたのだ。
 もちろん彼女は、そんなことを微塵も考えていないんだろうけれど。
 だから僕は思いつめたような、少し怖い顔をしてしまったのだろう。華怜も笑みを曇らせて、申し訳なさそうな表情を作る。
本当はそんな顔、するはずじゃなかったのに。
「ご、ごめんなさい。何か気に障りましたか?」
「……ううん、別に何も。それより、喉渇かない? 近くに自販機があるから買ってくるよ」
「あっ……」
 返事を聞く前に立ち上がって、華怜を置いて自販機へ向かった。
 校舎の中へ入って事務室の前を通り過ぎ、突き当たりを右に曲がったところに自販機はある。
 そこまで歩いて立ち止まると、少し頭の中が冷えた気がした。
 華怜に悪気はない。
 僕が割り切って接すれば、何もおかしなことなんて起きたりしない。華怜は笑ってくれて、さっきみたいに笑顔を曇らせることもない。
 僕にそれができるかと考えて、無理だろうなと分かった。
 寄り添われて、手を繋がれて、励まされて。たったそれだけのことで心を揺り動かされているんだから、割り切って接するなんて不可能だ。
 それなら何かが起きる前に、華怜と別れなきゃいけない。だけど出ていけなんて言えないし、彼女が行くアテも場所もない。
 もう一度スマホでニュースを検索したが、華怜のことは取り沙汰されていなかった。
 わずか二日目にして、女の子と暮らすことの難しさを知ってしまった。一緒に生活していて、相手のことを好きにならないはずがない。
 告白しようなんて心の中で決意はしていたけれど、僕は後先のことまで考えられていなかった。もし失敗でもすれば、それこそ一緒にはいられなくなるというのに。
 本当なら、最初から付かず離れずの距離を保って、秘密を打ち明けたりしないで、料理を手伝ったりしないで、あくまで不干渉を決め込むべきだった。
 そんなことを考えても、もう遅い。
 僕はこれからの身の振り方を考えなきゃいけない。できるなら今この場所で、華怜のところへ戻る前に。
 だけどそんな短時間で決められるわけがないし、いまさら華怜への思いを封じることもできない。僕は本当に華怜のことが好きで、これからもずっと一緒にいたいと思っている。
 まとまらない思考はいびつに絡み合って、正体不明の感情を形成していく。
 そろそろ戻らないと心配させてしまうと考えた僕は、二人ぶんのお茶を買ってから華怜のところへ歩いた。
 願わくば、戻るまでに考えがまとまってくれればと思ったけれど、そう都合よくはいかない。
 校舎を出て、噴水前を見る。
 華怜が、男子学生三人に囲まれていた。
 僕はそれを認識すると、全ての思考を放り出して走り出す。輪の中へ割って入ると、そこには涙目の華怜が怯えた表情で座っていた。
 そして僕を認識すると、あの時のように抱きついてくる。僕はしっかりと抱きとめた後、囲んでいた三人を見渡して、言い放った。
「ぼ、僕の彼女ですから。か、勝手に話しかけたりしないでください」
 どもってしまったけれど仕方ない。本当に、締まらないなと思った。
 だけどツレがいると分かった三人は、口々に「チッ彼氏持ちかよ」などという恨みの言葉を吐きながら、向こうへ去っていく。
 とりあえず危機が去ったことに安堵して、華怜の頭を撫でてあげた。本当に恋人同士みたいだなと、そんな場違いなことをふと思う。
「怖かったです……」
「ごめん」
「本当に、怖かったんです……」
「本当にごめん……」
「離れたり、しないでください……」
 難しいことなんて、考えなくてもよかった。
 華怜のことがどれだけ好きでも、些細なことで心を揺り動かされたとしても、守ってあげたいって心さえあればそれでよかったんだ。
 恋人なんてただの肩書きみたいなもので、ただの確認作業みたいなものだ。
 そんなの、そばに居られるならこだわる必要なんてない。こちらから縛る必要なんてないんだ。
 ただ、華怜により添えるのならば、僕はそれでいい。
「そばにいるから」
 強く抱きしめた。
 周りには、どう思われているんだろう。
 どう思われていても、今は別によかった。
 華怜が落ち着いた頃にはもう、講義の開始時間は過ぎていた。今行っても遅刻になるだけだからそのまま帰ろうかとも思ったけど、華怜が「遅刻でも、行きましょう」と言ったため、また二人で大講義室へと向かった。こういうところは、妙に真面目らしい。
 ドアをゆっくり開けて、中を見渡す。
 学生も教授も、一人もいなかった。おかしいな、教室を間違えたかなと思って、一階の掲示板を見に行った。
 幸いにも、今日は教授が一身上の都合で欠席したらしい。時間変更のメールが回っていたらしいけれど、うっかりしていて確認を忘れていた。
 もう元気になった華怜は「あわてんぼうですね」と、微笑んだ。僕も微笑む。
 だけど、笑顔はすぐに固まった。
 それは、向こうの曲がり角あたりから聞こえてきた話し声だ。やけに、ハッキリと聞こえた。
「佐々木教授の娘さん、例の飛行機事故で亡くなったんだってさ……」