思い出して、私はぺしりと優海の頭をはたいた。
「いてっ。なにすんだよー凪沙」
「なに自慢げに褒められてんの。優海、宿題あったこと忘れてたじゃん。昨日電話で私が言わなかったら、また池田先生に怒られてたでしょ」
「う……確かに」
「ははっ、それでこそ優海だよな」
面倒見のいい黒田くんは、忘れっぽい優海のことをいつも気にしてくれている。
今までずっと優海の世話係を自負してきた私としては、高校になってから突然その役割の一部を彼に取られたような気がして勝手に複雑な気持ちになってしまっていたけれど、『今』となってはそれがありがたい。
「……優海のことよろしくね、黒田くん」
ぽつりと言うと、彼は少し目を丸くした。
「どうしたの日下さん、改まって」
私は慌てて笑みを浮かべる。
「うん、なんていうか、これからもこいつの宿題のこととか気にしてあげて欲しいなと」
「ていうか、俺が気にするまでもなく、日下さんがいちばん優海の面倒見てない?」
黒田くんがおかしそうに目を細めた。
「そうだけど、黒田くんがいればさらに心強いっていうか?」
「ふうん? まあいいけど。じゃ、任せて」
にっこりと笑ってくれる黒田くんに、少しほっとする。
「ま、黒田くんに迷惑かけないように、私ができるかぎり鍛えるけどね!」
すると、これまで黙って私たちの会話を聞いていた優海が面白くなさそうにむくれた顔をした。
「なんだよー、二人とも。面倒とか迷惑とかさあ。子ども扱いすんなよー」
「そう思うなら自分でちゃんとしなさい。忘れ物ばっかりしてる優海が悪い!」
「そうそう」
「……まあ、そうだな。俺が悪いな」
素直、と黒田くんが笑う。私もおかしくなって笑った。
それから、気を取り直して背筋をぴんと伸ばす。
そして優海に向かって宣言した。
「ていうかね、私決めた。これから優海のことビシバシ鍛えることにしたから」
「えっ、どういうこと?」
優海がきょとんとこちらを見る。
「優海ったら頭の中部活のことばっかりで、それ以外のことすぐ忘れちゃうし手抜くでしょ。もう高校生なんだから、そんなんじゃこれから困るから、自分のことは自分でできるように鍛えるの!」
「えー……」
「これからはいちいち宿題のこととか確認してあげないから、自分でちゃんと提出期限気にしなよ」
「えっ、凪沙、冷たい!」
「冷たくない、みんなそれくらい自分でやってるんだから、優海だってできるよ」
「でも俺は凪沙にかまってほしいんだよ~」
口を尖らせながら言う優海に、「子どもか!」とつっこみを入れる。
少し笑った彼は、それから眉をひそめて私をじっと見た。
「つーか、なんで急にそんなこと言い出したんだよ」
ふいに真剣な声音で問われて、どう答えたものかと一瞬考えてから、
「……だって、いつまでも私が優海の面倒見れるとは限らないじゃん」
私は震えてしまいそうな声を励まして必死に平静を装って答えたけれど、ちょうどそのとき後ろから声をかけられて優海の注意はそちらに向いたので、たぶん私の言葉は耳に入らなかっただろう。
そのことにほっとしながら私も振り向くと、優海と同じバスケ部の林くんが彼に寄ってきて、部活の話をしはじめたところだった。
それをぼんやりと聞きながら、まだちょっと早かったかな、と思う。
いつまでも面倒を見られるわけではないというのは本当だけれど、まだ彼には伝えなくてもいい。
ただ、彼に悟られないように気をつけながら、焦らず、ゆっくり、じわじわと、でも確実に、私は私のやるべきことをやるのだ。
*
「おはよー!」
優海がいつものように笑顔で大きな声をあげながら教室に入る。
声でかいって、と私はつっこんだけれど、すでに登校していたクラスメイトたちは一斉にこちらを見て、「朝から元気すぎ」と笑いながらも挨拶を返してくれた。
私と黒田くんも彼の後ろについて中に入ると、気づいたみんなが口々に声をかけてくれる。
私たちが所属しているのは、水津高校一年普通科のA組。
もうひとつ普通科のB組があって、あとは商業科二クラス、農業科と水産科が各一クラス、全部で一学年六クラスの中規模校だ。
でも、大学や専門学校への進学を目指す人も、事務職などでの就職を目指す人も、専門知識をつけたい人も幅広く学べる高校ということで、付近の中学からは人気のある学校だ。
鳥浦の中学からも何人も進学しているので、クラスは入学当初からアットホームでフレンドリーな雰囲気だった。一学期も終わりが見えてきた今となっては、まるで何年も同じ教室で共に過ごしたかのような仲の良さで、とても居心地がいい。
「凪沙、おはよう」
席についてすぐに声をかけてきたのは、私のいちばん仲良しの佐伯真梨。
同じ中学の出身で、そのころはクラスが違ったので軽く挨拶を交わすくらいだったけれど、高校で同じクラスになって急速に仲良くなった。
ふわふわした雰囲気の可愛い女の子だ。
「ねえねえ、数学の予習ちょっと見せてくれない? 今日当たりそうなんだけど、合ってるか自信ないとこあって」
「いいよー、何ページ?」
真梨に数学のノートを見せていると、教室の後ろのドアから「おーい、三島ー!」と優海を呼ぶ声が聞こえてきた。
振り向くと、地歴の橋本先生が怒り顔で腕組みをしている。
それを見た瞬間、優海が「あっ!」と声をあげて青ざめた。
「忘れてたー!」
その叫びに、私は呆れ返って眉をひそめる。
あいつ、本当になんでもかんでも忘れて。どうしようもないやつ。
優海はがばっと立ち上がり、そのままの勢いで橋本先生のもとへと駆け寄った。
「ごめん先生! すっかり忘れてた!」
「ばかやろー、俺が昨日どんな気持ちだったか分かるか、こら」
二人のやりとりをクラス中が苦笑しながら見ている。
真梨もくすくす笑って私に話しかけてきた。
「三島くん、また何か忘れてたみたいだね」
「放課後に先生から呼び出されてたのに、すっかり忘れて部活に直行しちゃったんだよ」
肩をすくめながら答えると、
「すごいねえ、凪沙と三島くんほどの付き合いになると、何も聞かなくてもそこまで分かっちゃうんだ」
私は少しどきりとして、それから笑みを浮かべる。
「うん、なんとなくね。どうせそんなとこだろうなって」
向こうでは優海が引き続き先生から怒られている。
「ずっと準備室でお前が来るの待ってたんだぞ、暗くなるまで!」
「えーほんとごめん先生……行かなきゃって思ってたのに授業終わった瞬間、部活のことで頭いっぱいになっちゃって……」
「だからメモしとけって言っただろうが」
「それも忘れてた……ごめんなさい」
先生と優海のやりとりを聞いて、真梨が目を丸くして私を見た。
「すごーい凪沙、大当たり、ほんとに予想通りだよ! びっくり。すごいねえ、さすが」
私はあははと笑って答える。
「だてに十年幼馴染やってないからね」
「そっかあ。それにプラス三年カレカノだもんね」
「まあね。そう考えたら長い付き合いだよね、本当に」
私が鳥浦に引っ越してきて幼馴染になってから十年ちょっと。
付き合い始めてからもうすぐ三年。
でも、恋人になる前の七年間には、一緒に過ごさなかった時期もあった。
そのことは高校の同級生たちには言っていないし、これからも言わない。
優海の小学生時代からの知り合いは知っていることだけれど、みんなあえてそのことについては何も言わずにいてくれている。
だって、優海は顔にも口にも出さないけれど、絶対に触れられたくないことだろうから。
だから、私も何も言わない。
私と優海は、幼い頃から七年間、いちばん仲の良い幼馴染で、どこに行くにも何をするにも一緒で、片時も離れずずっと共に過ごしていて、中学一年のときに付き合い始めた。
そういうことにしている。
「じゃ、分かったか。昼休み、絶対来いよ」
先生の言葉で、はっと我に返る。
ごめんなさーい、と謝りながら先生を見送った優海がこちらへ戻ってきた。
「凪沙ー! またやっちゃった」
私に怒られるのが分かっていて、素直に報告に来るのが面白い。
「日本史の小テストでさー、点数悪かったから再テストって呼ばれてたんだけど、昨日は体育館オールコートで練習できる日だったから早く部活行かなきゃって思ってたらテストのことすっかり忘れてて」
「もー、ほんと優海は部活バカなんだから。あんた学校に部活しに来てるんじゃないの?」
「えっ、そうだけど?」
「いやいや、学校は勉強するところだから!」
「あ、そういうことね。勉強もするって、あはは」
いつもならここで笑い合って終わりだけれど、これからはそういうわけにはいかない。
私は表情を引き締めて優海を見た。
「あんたが部活好きなのは分かるけど、そればっかりってわけにもいかないからね。はい、じゃあ今から再テストの勉強!」
「え~、朝っぱらから嫌だー。休み時間にするって!」
「とか言ってどうせまたすぐ忘れるんでしょ。はい、教科書出して」
優海はしぶしぶ日本史の教科書を開く。
かわいそうだけれど、これからはスパルタで行くと決めたのだ。
だって、もう、時間がない。
「もうすぐ期末テストだよ? 赤点が一教科でもあったら夏休みの試合に出してもらえないんでしょ?」
「あー、うん、そうなんだよ……高校の部活って厳しいよなあ」
いくつもの教科で赤点をとって夏休みは補習三昧になり、部活に行けない上に試合にも出られないという、優海にとっていちばんつらい展開になるのが目に浮かぶ。
「だから、テストまであと二週間、ちゃんと勉強しなきゃ! ね」
「分かった! 俺がんばる!」
素直なところが優海のいちばんの取り柄だ。
口車にのせるのが楽で助かる。
「じゃ、これからは、課題とか予習とか小テストの予定とか、先生からの呼び出しとか、ちゃんとメモすること。そして、期末テストに向けて計画的に勉強すること! ちゃんと計画立ててメモしとくんだよ?」
「んー、メモなあ。たまにメモ書いたりするけど、その紙失くしちゃうからなー、あんまり意味ないっつーか」
「失くすような紙に書くからだめなんだよ。メモ帳とか手帳とかに書かなきゃ」
「そんなん持ってないもん」
「んー……」
優海は昔から、その大らかすぎる性格のせいか、細かいことを気にするのが苦手だ。
だから、メモもほとんどしなくて、そのせいで提出書類を忘れたりしてよく先生に叱られていた。
細かいところにこだわらないのは優海の性格のいいところとはいえ、あまりにも大雑把で忘れっぽいと、社会に出てから困るわけで。
高校や大学の間に少しは成長して、社会人になるまでには何とかなるかなと思っていたけれど、そんな悠長なことは言っていられない。
「よし、分かった! じゃあ、放課後、手帳買いに行こう! 今日は部活休みでしょ? 私が優海にぴったりのやつ選んであげるから」
そう言えば断れないことを分かった上で、私はそう宣言した。
優海は私が選んだものなら絶対に大切にしてくれるし、なるべくきちんと使おうとしてくれるだろう、という我ながら傲慢な自信があった。
私にとって優海が特別な存在であるのと同じように、彼にとっても私は特別なのだ。きっと。
「マジで! 俺のために凪沙が選んでくれんの? 嬉しい!」
案の定、優海は満面の笑みで飛び上がった。本当に単純で扱いやすい。
「よっしゃ、放課後デートだー。今日は部活ないから放課後つまんねーと思ってたけど、凪沙と出かけられんなら元気百倍だぜ!」
「それ以上元気にならなくていいよ、うるさいから」
「うるさいとか、冷たい!」
「はいはい、わかったから。じゃあ、放課後また再テストにならないように、ちゃんと日本史の勉強してね」
「よし、がんばる!」
優海はにこにこしながら小テストの範囲の復習を始めた。
「ほんと単純なやつ」と黒田くんや真梨が笑いをこらえている。
「優海を動かすには日下さんがいちばん効果てきめんだな」
「三島くんて本当に凪沙のこと大好きだよね。こんなラブラブなカップル見たことない」
「溺愛だよな。それを隠さないところがまたすごい。裏表のない優海らしいというか」