「ナギ?」
心配になり声をかけると、ナギはハッと顔を上げて、躊躇いがちに微笑む。
「あ、ああ、ごめん。ちょっと、今日は帰るな」
言いながら立ち上がる彼に、私は頷くことでしか反応ができない。
そんな私を見下ろして、ナギは唇を動かす。
「とりあえずさ、お母さんのこと、家族なんだし……いや、家族だからこそ、もっとしっかりぶつかってもいいと俺は思う」
それは決して押し付けるようなものではない、穏やかさを纏った声。
「俺もじいちゃんにはよく叱られたし、何日も口きかなかった時もあったな。けど、それで学んだっていうか……とにかく、ぶつからないとわかんないこともあるんじゃないか?」
家族だからこそ、ぶつかっていいのではというナギのアドバイスに、私は少し考え込む。
今回のように、ぶつかることで互いが互いの言葉で傷ついて、傷つけてしまったら。
例え謝っても、一度傷ついたら簡単には癒せない。
母が私に投げた言葉も、謝られて許したとしても、すぐに忘れるわけではない。
きっと、嫌な気持ちは残ったままだ。
そして、今回は母も同じ気持ちになるはず。
そうなってしまったら、次のぶつかり方が悪いとこじれて関係は悪化するだけ。
それでも、ぶつかる価値はあるのだろうか。
迷う心を一度落ち着けようと、コートの上から勾玉に手を添える。
すると、ナギの手が私の頭をポンポンと優しく叩いて。
「俺にはもう家族はいないから、繋がりのある凛が、正直羨ましいよ」
かすかな笑みを浮かべ、彼の秘めた思いを吐露した。
「ご、ごめん。私、さっきからデリカシーなくて」
「違う違う。そこ、謝るとこじゃないんだ。俺にもちゃんと、目には見えないけど繋がりがあるのがわかってるつもりだから大丈夫。でもさ、話せるうちはどんどん話した方がいい。いつかいなくなって、何も話せなくなったら後悔するから」
いつかいなくなったら、何も話せなくなる。
それは、父を喪ってから身に染みて知ったこと。
わかっていたつもりだったのに、ナギに言われてハッとした。
そして、気づく。
私は自分のことばかりで、母に母の気持ちをちゃんと尋ねたことがないことを。
母からの言葉を求めるばかりで、私の気持ちを、言葉を、母に伝えてないことを。
「大丈夫。俺がついてる」
励ますように頭を撫でられて、気持ちが僅かに浮上する。
いつまでも鬱々としていては前に進めない。
昨日はうまくいかなかったけど、まだ反対されたわけじゃないのだ。
まずは謝ってから、もう一度、相談してみよう。
私の世界を変えるなら、私が動かなければ。
決心し、膝の上にあった手をキュッと握る。
そうして、気づかないうちに落としていた視線をあげて。
「ナギ……ありが、と……う?」
感謝の気持ちを伝えようとしたけれど。
「……え? ナギ?」
いつの間にか、ナギの姿はもうどこにもなくて。
「ナギ?」
呼んでみても、どこかに隠れているような気配もない。
現れ方も去り方も、いつも突然で。
私は、迷子になったたつ君を駐在所に送り届け時と同様、狐につままれたような思いで、辺りを見渡していた。
「あの、女将さん。このレースのカーテンも洗濯ですか?」
「そうそう! 悪いけど、こっちのと一緒にまわしてきてくれる?」
「わかりました」
十二月三十日。
今年最後の日を明日に控えた今日は、朝からみなか屋の大掃除を手伝わせてもらっていた。
「ほんとありがとね。助かるわ」
「いえ、年末年始のお休みにも泊めていただけて、こちらこそありがとうございます」
本来、三十日から一月二日まで民宿は毎年冬休みだというみなか屋。
私は今回特別に宿泊させてもらっているので、女将さんの腰が調子悪いこともあるし、何かできることがあればとお手伝いを買って出たのだ。
「八雲の自由研究もそろそろ完成するみたいだし、凛ちゃんが来てくれてからうちは大助かりよ」
本土に帰らないで住み込みで働いてもらいたいくらいだわ、なんてケラケラ笑って調理場の掃除をする女将さん。
彼女の横では、旦那さんが歯ブラシを手に角の汚れを擦っている。
「ねえ、あんたもそう思うでしょ?」と女将さんが話しかけると、旦那さんは動かしていた手を止めて「そうだな」と普段はあまり笑わない顔に微笑みを浮かべてくれた。
必要だと言ってもらえるのが嬉しくて胸の奥が熱くなる。
「それ、洗濯機で回したら干すのは私と旦那でやっておくから凛ちゃんはお昼休憩しておいで。あ、私の作ったカレーで良ければ食べるかい?」
「い、いえ! そこまで甘えられません! 商店街で買いたいものもあるので、どこかで食べてきます」
「遠慮しなくてもいいのに。あ、でも、商店街行くなら、申し訳ないけど安達さんのところで日本酒を買ってきてくれない? 神棚のお神酒に使うの」
これなんだけど、と女将さんが調理台に乗っている空の酒瓶を手にして私に見せてくれて、私はデニムパンツの後ろポケットからスマホを取り出すと写真を撮った。
「わかりました。他になにかありますか?」
「あとは大丈夫! ごめんね。頼むね」
「はい。じゃあ、洗濯機、まわしてきますね」
「ありがとう。よろしくね」
女将さんの朗らかな声に見送られ、私は抱えたカーテンを落とさないように洗濯室へと向かう。
宿泊者用の洗濯機とはまた別なので、事前に教えてもらった手順で開始ボタンを押すと、水が出たのを確認してから泊まっている部屋へと戻った。
そうして、コートを羽織ってショルダーバッグを肩にかけ、ヒロから借りている自転車の鍵を手にするとみなか屋を出発。
昨夜まで降っていた雨の影響で、コンクリートはまだところどころ色を濃くしている。
空を見上げれば今朝まで分厚く覆っていた雲は太陽に譲るように晴れ間を覗かせ、天へ招く光の梯子を作っていた。
ふと、ナギのことを考える。
私はここ二日、御霊還りの社には行っていない。
ナギが家族に想いを馳せにやってきているなら、邪魔をしてはいけないと思ったからだ。
ナギからメッセージが送られてくることもなく、あまりしつこくしたくないので、私からも送っていない。
どうしているのか気になるし、会いたいけれど。
ぐっと堪えて私は足に力をこめた。
天神商店街へと続く緩やかな坂道を、自転車に跨って登っていくと、木々の間から予渼ノ島の海が見える。
白波をかき分けてゆっくり進む漁船を横目にペダルを漕ぎ、民家や田畑をいくつか通り過ぎたところで商店街に到着。
昨夜、夕食を運んできてくれた際に女将さんに尋ねたところ、商店街のほとんどのお店が明日まで営業していて、元旦は休み、二日はお店によって夕方近くまで開けているそうだ。
ひとまず自分の目的であるリップクリームやポケットティッシュ等を買いに薬局へ。
その後、女将さんに頼まれた日本酒を手に入れるべく、ヒロの家である【あだち酒販】に向かう。
自転車を停めて、店の前に立って、そこで気づいたのは、お店の中に入るのが初めてだということ。
いつもはたまたまヒロがお店の前でお仕事をしている時に会っていたから、その必要がないままだった。
私は少し緊張しながら自動ドアを開ける。
来客を知らせる軽やかなチャイムが鳴ると、店内の奥から「いらっしゃいませ」という若い女性の柔らかい声が聞こえた。
どうやらレジにいる女性のようで、今はお客さんのお会計をしている。
ヒロがいたら日本酒の写真を見せて探すのを手伝ってもらおうかと思っていたのだけど、お店には不在のようだ。
私はとりあえず日本酒が並ぶコーナーを探すことに。
鮮やかな木目の棚には、新商品のお酒がディスプレイされている。
【辛口】と書かれているけれど、まだお酒の飲めない私には、お酒が辛いという意味がよくわからずに頭を傾けた。
ピリッとする唐辛子とかと同じ類の辛さなのか。
いつか飲める年齢になった時、確かめてみようかななんて考えて、そうだ日本酒のコーナーを探さなければと視線を上げた時だった。
「何かお探しですか?」
先ほどの店員さんの声が聞こえて、心臓がひとつ大きく跳ねる。
「あ、あのっ、日本酒を買ってくるように頼まれて」
「銘柄はわかります?」
「えっと、待ってください。写真を……」
話しかけられて、慌てながらスマホを操作する。
先に写真を表示させてからお店に入れば良かったと小さく後悔していると。
「……あら? あなた、凛ちゃん?」
「えっ?」
店員さんに名前を呼ばれて、私は目を丸くした。
「大斗の幼馴染の凛ちゃんでしょ?」
「は、はい」
「やっぱり! この前チラッと見ただけだったけど、可愛いからすぐ思い出せたわ」
か、可愛いだなんて、あまり言われないから恥ずかしい。
思わず頬が蒸気し、けれど目の前の女性が誰なのかわからず戸惑っていたら、気づいてくれたのか「あ、いきなりごめんね」と微笑んで。
「私は、大斗の姉です。凛ちゃんとは引っ越す前に何度か会ってるけど、覚えてないよね」
「ヒロのお姉さん! ご、ごめんなさい。小学校の時に会ったことあるのは覚えてるんですけど、お顔まで思い出せなくて……」
「それは私も似たようなものなんだし、気にしないで。それにしても、昔も可愛かったけど変わらないのね。また会えて嬉しいわ」
恐縮する私に、ヒロのお姉さんはヒロに似た涼やかな目元を細め優しい笑みを向ける。
ヒロのお姉さんは、確かヒロより四つ年上だ。
小学校の学童保育に、ヒロと一緒に時々来ていたのを覚えている。
ただ、幼いヒロとは違い、ご両親がお仕事をしていても家でおとなしく待っていられるとかで、学童保育に来る頻度は本当に少なかったと思う。
その上私の人見知りもあり、あまり話した記憶もないのだけど、昔も可愛かったと言ってくれてたし、ヒロのお姉さんはなんとなくでも私の姿を覚えていてくれてたのかもしれない。
「それで、凛ちゃんが頼まれたお酒はどれ?」
「えっと、これなんですけど……」
声にしながらスマホに表示されている写真を見せると、ヒロのお姉さんは真っ直ぐに伸びた綺麗な長い黒髪を耳にかけて覗き込んだ。
ふわりと、甘すぎない花のような上品な香りがして、高校の同級生とは違う大人の女性の雰囲気に憧れのような感情が生まれる。
「ああ、これなら確かこの辺りね」
ヒロのお姉さんは、棚から白い酒瓶を一本取り出すと、私に「これでいい?」と確かめた。
私はすぐに写真と照らし合せてコクコクと頷く。