目の覚めるような赤だった

歩いて駅前商店街のスーパーにやってきた。2、3日にいっぺん来ているので、どこに何があるかはわかる。もうじきお盆ということもあり、特設コーナーにはすだれの前にナスやキュウリの牛馬が飾られていた。

聖はすっかり元気で、昼ごはん用にと大きなカップ麺をカゴに入れ、たくさん食べたいと精肉コーナーで迅と並んで肉を選んでいる。食べられない迅の方が、こっちの赤みにしろとかささみも食っとけなんてうるさい。ふたりの兄弟のやりとりは随分ぶりに見たはずなのに、こうして目の前にあるといつもの光景に思えた。繰り返してきた年月が錯覚を起こさせる。

だけど、昨日までの日常が、ある日突然壊れることを私は知った。迅の死で、貫かれるように理解した。
それゆえにこうしたなんでもない光景にことさらホッとする。まやかしでもなんでもいい。この一瞬を大事にしたい。

アイスと炭酸ジュースをカゴに入れ、おまけに手持ち花火を入れて清算。溶けないように持参したクーラーバックに入れて三人で歩き出す。

「兄ちゃん、夜はふにゃふにゃになるんだろ。花火持てんの?」

ふと聖が問いかけ、私と迅は顔を見合わせた。

「持てないね」
「あー、うん、持てないな。ちなみにライターも持てないから、火をつける係もできない」
「マジかよ!割と使えねえな!」

聖が笑った。迅が怒った顔をわざと作り答える。

「幽霊にそんなこと期待すんじゃねー。こちとら、究極のエコ余生中だぞ。地球の資源は守れるけど、なんの役にも立たないっつうの」
「エコ余生ってなんだよ!」

迅の堂々とした幽霊の主張に、私も聖もお腹を抱えて笑った。
いてくれるだけでいいなんて私は口にしない。
夕食を三人で早めに済ませ、シャワーを浴びた。日が落ち始めている。

そこでようやく聖は迅の身体が透けていくのを目にした。
昼間、ふざけていたものの、やはり直接目にするとショックはあるようだ。迅がすでに人ならざるものになっていると、聖は確認したのだ。夕食に手をつけないより、汗ひとつかかないより、目の前で兄が透け、とろりと形を無くしていくのははっきりした証拠だろう。

「花火、しよ」

気を引きたてたくて、私は立ち上がった。ライターに水を張ったバケツ、風があるので蝋燭はやめて、縁側から中庭に出る。日中の熱気は残っているものの、風が心地いい。

「風で煙流れるかな」
「風に飛ばしてもらうのが一番だろ。隣近所は少し離れてるけどな、配慮配慮」

迅は縁側に腰かけ、私と聖が花火のパッケージを開けるのを見守る。細い手持ち花火に火をつけると焦げ臭い匂いがして、火薬の匂いと同時に火花が散った。青と黄色の火花はパチパチと弾ける。
聖の花火は赤く根元が白い炎。勢いよく噴出するとあっという間に終わってしまった。

「シケてねぇ?これ」
「シケてないよ。火薬そんなに入ってないんでしょ」
「写真、撮ってあげたいなぁ」

迅が縁側で呑気に言う。

「スマホもてるようになってから言え」
「キビシ~」

そんなことを言って笑う迅は、30分ほどで縁側に丸まり眠ってしまった。透けた身体がかすかに上下し寝息をたてている。そういえば、こちらに来て忘れていたけれど、透けた状態の迅はよく眠っていた。太陽がないと光合成できない植物みたいに、夜はいつも活動的ではなかった。

「真香、兄ちゃんホントに死んでんだな」

聖が透けた兄を眺めて、終わった花火ごと右手を下ろした。

「うん」
「おまえはもう諦めたの?」

諦めたという言葉は奇異に聞こえた。諦めなかったとしても、私にできることはない。つまりは聖の質問の意図は、心情的に整理でき落ち着いているのかということだ。
「……今は迅を見守りたい。たぶん最期の時間だから」
「そっか」

聖は頷いた。たぶん聖にも私の気持ちはわかるのだろうと思う。きっと、聖が私の立場でも迅を見送る覚悟を決める以外できることはなかった。

「俺、兄ちゃんの気持ち少しわかるんだ。こんな形でお別れの時間をもらって、家族の前に顔を見せらんなかった気持ちとか。絶対辛いもんな、二度目の別れの方が。真香は、いつ来るかわかんない兄ちゃんの終わりに付き合ってくれてる。ありがと」
「私が好きでやってることだから、御礼とか言われる感じじゃないよ」
「兄ちゃんは不本意かもしんないけど、俺、兄ちゃんに会えてよかったよ。こんな形でもさ」

そう言った聖の目からはまたぽろぽろと涙がこぼれた。

そうだよね。私だってまだ涙が出る。私も聖も一度は迅を見送った。這いつくばって慟哭した日々はまだ生々しく身体と心に残っている。だから再会は思わぬプレゼントだった。苦しい結末が待っているとしても。
私たちにとって本当の別れはこれからなのだ。

「聖、部活なんて休んじゃえば?」
「どういうことだよ」

涙を拭って問う聖に、私は向き直った。

「ひと夏、一緒にここにいようよ。迅と思い出作った方がいい」

聖は少し黙って、それから首を振った。

「いや、俺は帰る。たぶん、一緒にいた方がつらい。真香に最後の見送りを頼むのは申し訳ないけど」
「私だって見送れるかわかんない。迅、いつまでこうして幽霊やってるか不明だし、夏が終わったら私も東京に帰る。……案外、ずっとここで幽霊やってるかもね」

迅が成仏する道を失った幽霊であるならば、成仏を待つ必要はなく、生者と死者いう関係性でも私たち三人は週末や長期休みにこうして兄弟に戻れる。

「そうかな。たぶん、兄ちゃんはそのうちいなくなるよ」

私の言葉をやんわり否定して、聖は大人びた笑顔になった。

「なんで、わかるの?」
「兄弟の勘、なんちって」

くしゃっと笑った聖の顔は、少しだけ迅に似ていた。
翌朝、聖を連れてトシさんの家に行くと、トシさんは最初に会った時と同じくらい胡散臭そうに私たちを見て、ため息をついた。

「また細かいのを連れてきたね。あんちゃんの弟かい?」
「ええそうです。夏休みなんで、昨日から五日間こっちにいます。一緒に手伝わせてください」

迅がほがらかに挨拶し、聖が声ばかりでかく挨拶する。

「有島聖です!頑張ります!」
「うるさいね!坊主!」

負けずに怒鳴り返したトシさんの声の方が大きかったんだけど、私はヒヤヒヤ見守るだけで口を挟まなかった。
そこから四の日間は賑やかで楽しい時間だった。迅と聖は毎日トシさんの家に通い、勘太郎の散歩と畑仕事を手伝った。お昼時にごはんに呼ばれて行くと、トシさんは私に文句を言う。

「うるさいのがもうひとりなんて聞いてないよ!食費がかかってしょうがない!」

昼食代を支払うというと、生意気を言うなと怒られる。
私にももうわかる。トシさんは文句を言ってみたいだけで、実際は嫌がってなんかいない。むしろ、迅と聖が笑ったり騒いだりするのを楽しそうに見ている。

勘太郎は聖にも私同様警戒した態度を見せるけれど、逃げたり歯を剥いたりはしない。触れるとびくっとするくらいで、あとは撫でさせてくれる。足腰の弱っている勘太郎には、介護の手が増えた。トシさんは楽になったはずだ。

四日間、日が暮れる前に三人で散歩をした。夏の盛りの夕暮れ。気温は高く、視界はまだゆらゆらしていた。低い山々を眺め歩き回った。
こんもりとした森から頭だけでた白い観音様、小さな駅舎。山と山に渡された鉄橋はよく見ればダムだった。小川のほとりに咲いた合歓の木が濃い桃色をさざめかせていた。

若者が三人、ひたすらに田舎道を歩き回る。思い出を語り、とりとめのないことを話し、道端の些細な発見に声をあげた。
体力のない私はふたりに必死についていきながら、かつてないほどスニーカーの底をすり減らした。楽しい楽しい幸せな時間。
一生は続かないけれど、一生とっておける思い出はできたはずだ。私の中にも、聖の中にも。

迅の透けた手を見つめ、聖が寂しそうな表情を見せたのが忘れられない。
私もきっと、似た顔をして迅をみつめているのだろうなと思う。
五日目の夕方、聖は予定通り特急電車で帰ることになった。迅と駅まで歩いて送った。私が買ったお土産と、トシさんの家からの野菜やつけものをボストンぎゅうぎゅうに詰め、聖は帰っていく。

「じゃあな、兄ちゃん。成仏しろよ」
「フツーに言ってるけど、すっごいワードだよ、おまえ」

ふたりは陽気に笑って、拳同士をぶつけた。
男同士、さよならの挨拶だ。これが今生最後の。
泣かないように、悲しまないように、まるで明日も会えるかのようにふたりは別れた。
改札に入る間際、聖が私に言った。

「マナカ、兄ちゃんのこと頼む。本当にくれぐれも頼む」
「わかったよ」

一瞬、聖の表情がぐしゃりと歪んだ。本当に本当に悲しそうに歪んだ聖の表情が悲しくて、痛いほどにその気持ちがわかって泣きそうになる。

「じゃーな」

しかし、涙を見せることなく、聖は電車に添ってホームを歩いて行った。その背中は去年よりずっと広くなったように見える。聖も大人に近づいて行くのだ。迅とはすでに違う時間軸を歩み出している私と聖に、胸が痛くて苦しかった。

「日が落ちるの早くなったなぁ」

走り出す特急電車を駅舎の横で見送り、迅が少しだけ寂しそうにつぶやいた。夏至は終わって、日は徐々に短くなる周期に入っている。
山の稜線に沿ってオレンジに変わりつつある空を眺め、迅に視線を戻す。
ぎょっとした。迅の左手の先がわずかに透け初めている。迅本人は気付いていないようだ。

「いこ、迅。私お腹が空いてきちゃって」

周囲にも本人にも透け始めた左手を見せたくなく、私は迅の左腕を身体に抱き締め歩き出した。
随分大胆な甘え方になってしまったと気づいたのは帰宅してからだった。







「ほら、もう少しだ、頑張れ」

背をリュックごと押され、否応無く脚を進めさせられる。踏みしめる上り坂は、まだまだ続きそうだ。足の裏の土の感触に気分が萎える。
木漏れ日注ぐ山道は映像で見れば綺麗だろうけど、真夏に歩くには地獄でしかない。

「自分で歩くから、背中押さないで」
「そうかぁ?」

迅は私の後ろから退き、横に並んだ。汗で張り付いたTシャツとリュックの隙間に風が通り、一瞬涼しい。
かぶった帽子と髪の毛の隙間から汗がつたった。私がこんなに汗をかくことは珍しい。

「頂上まであとどのくらい?」
「登り始めたばっかだぞ。2時間くらいで着くっぽいけど……」

迅はちろんと私の顔を覗き込む。

「マナカと一緒だから、3時間コースかな」

失礼な!と怒る資格はない。私は自他共に認める低体力のもやしっこだ。運動音痴かと言われるとわからないくらい運動をしていない。体育は極力端っこで目立たずこなし、クラスメートも察しているので、脚を引っ張られないように私にボールを回さない。陸上は短距離はまだしも、マラソンなんかだとビリだ。決定的に体力がなく、そもそも運動が大嫌い。

そんな私を、迅は登山に連れ出したのだ。この街は山間にあり、市内は随分広くその大半は山林だ。中心の市街地からバスで1時間ほどいくとパワースポットとして有名な神社があるのは知っていた。縁結びでも有名らしくて、来る途中の電車ではそんな広告をいくつも見た。
どうやら、目的地はその神社らしい。
思い出作りと体力作りという無茶な理由で迅は私を連れ出した。夏山登山だなんて、絶対嫌だと思ったものの、そこに思い出作りが加わったら断りづらい。
仕方なく迅に伴われるまま、駅前からバスに乗った。

そのまま乗っていれば1時間ちょっとで目的地の神社に到着する。しかし、それじゃ登山にならないので登山道入り口のバス停で途中下車する。ここから登るのが表参道の登山コースになるらしい。

鳥居をくぐって赤い橋を渡る。最初は舗装道路で歩きやすい道が、いつしか立派な山道に変わっている。

「頑張れ頑張れ。せっかく買った登山靴が泣くぞ」

迅の主張で登山にあたり靴だけはきちんとしたものを買った。雨具にもなるウィンドブレーカーも。本格的な登山コースではなくても、山を舐めてはいけないんだって。
私は憎まれ口にもならない返事をする。

「そうね、迅はスニーカーだけどね」
「これ、デフォルトだから取れないもん」

迅はいつものTシャツとジーンズとスニーカーだ。トシさんの家に行くときは3枚買ったTシャツを着まわして上から着ている。毎日同じ服にならないようにという配慮だ。
スニーカーは不思議なもので、日中は迅と同じく具現化している。玄関に脱いであっても存在感があり、逆に夜には見えなくなってしまう。
つづら折りの急勾配。足を一歩進めるのがつらく、息が上がった。もう登りたくないと途中で足を止めてしまった。口には出さないけれど、バテているのは迅にバレていると思う。
ふいに迅が道の端を指差した。

「見てみ、地面に穴開いてるだろ」
「……蝉?」

荒い息を吐きながら問い返す。

「なんだよ、知ってたか。そうです、蝉の幼虫がここから出てきて木に登って羽化します」

私はぽっかり開いた穴を見つめる。小指の先より小さな穴だ。蝉の抜け殻は見たことあるけれど、あの中にぎっしり蝉が詰まっているのを想像するのは少し気持ち悪い。
そして、そんな生命力の塊みたいなものが地中から這い出して来るのは、何か怖い。
「たくさん眠って、大人になったら1週間くらいだろ。その間に恋愛して子ども作らなきゃなんないんだから大変だ」

迅かしみじみと言う。

「恋しても1週間かぁ」

ふと、迅の横顔を眺め私は思った。迅に恋して何年が経つだろう。私はたぶん物心ついたときには迅が好きだった。世界で一番のお兄ちゃんで、私の世界の中心だった。
迅が死んで、私の世界は中心が抜け落ちてしまった。外殻だけで、なんとなく形を保っているに過ぎない。
今、私が真っ当に思考でき、毎日を楽しく過ごしているのは迅がいるからだ。迅が戻ってきているからだ。まやかしでもなんでも、迅はここにいる。私といる。
1週間なんてものじゃなく、もうひと月近く一緒にいる。今までで一番近い距離で。

「1週間で一生分恋するんじゃない」

気づいたらそんなことを言っていた。リアリストの私としては、最高にロマンティックで恥ずかしいことを言ってしまった。かあっと頰が熱くなる。何言ってるんだろ、私。
私はきっと自分のことを言ってしまった。

蝉の自由と幸福は必ず短期間で終わる。私もまた、わずかだけれど人生最高の幸福を手に入れているんだ。好きな人と寄り添って暮らす幸福を。

「1週間で一生分か」

迅は茶化さなかった。

「いいな、それ。マナカ、いいこと言う」

ふ、と頰を緩めた迅。少しだけ寂しそうに見える。

ねえ、迅には恋人はいなかったんだよね。
でも、大好きな人はいた?一生分の恋を捧げられる人はいた?本当はこの最後の時間、そんな人と過ごさせてあげたかった。
これじゃ、私だけが幸せじゃない。

呼吸が整っていた。私はまた登り始める。
次第に道は細くなり、勾配も険しくなる。
小さな滝があり近くの東屋で水は飲んだけれど、休憩らしい休憩はそのくらいだ。
大きな岩を越えるときは、先に行く迅が私の手を引いてくれた。触れば温かい手のひらに、今は甘える。

かつて薬師堂があった付近を通り、これで三分の一程度ということに絶望すら覚えた。でも後戻りもできない。進まなければ終わらないし、登りきらなければ今までのことが無駄になる。

山道は苦しい。気管支がひゅうひゅういって、胸は圧迫されたみたい。
やめたい。帰りたい。
だけど、こうなればもうできないことが悔しい。体力がない自分が憎い。なんとしても神社までたどり着きたい。

「マナカ、頑張れ。あと少しだ」

迅の励ましに頷くことしかできなかった。必死に坂道に食らいつく。あと少し、あと少し。動け脚。つま先を前に出せ。
不意に視界が開けた。
3時間かけて登りきったそこは拝殿の一部の様子だった。本殿がないのでわかりづらいけれど、ようやく神社にたどり着いたらしい。

「よくやったな。ゴールだぞ」

森の中ではあるけれど、景色は開け、神社の敷地のほとんどが見えそうだ。

「登れた」
「うん、登れたな。頑張った!」

迅が私の帽子を外し、前髪をかき分け汗まみれの額を撫でた。帽子で顔を扇いでくれる。真っ赤な頰の私が暑そうに見えたみたい。

「やればできるでしょ」
「マナカが必死こいてる姿、面白かった」
「意地悪だなぁ!」
「いつもクールだからさ。そういう顔が見たかったの」

迅が明るく笑う。私の大好きな笑顔で。

「生きてるって感じするよ。俺もおまえも」

うん、そうだね。汗ひとつかいていない迅と、汗びっしょりでクタクタの私。
私を通して、迅は生きている。