半透明のラブレター

「彼氏んとこじゃん? ほっときな、お母さん」
 お母さんたちの声に答えている余裕すらなかった。空はもう真っ黒で、弓形の白い月がくっきりと浮かんでいる。なぜか、今日はひどく月が遠い気がした。それを見たら、泣きたくなった。
 ……おじいちゃん、ごめんね。私、約束ちゃんと守れなかった。弱くてごめんなさい。
 自転車の丸い光だけを頼りに進む。冷たい風が体を突き刺す。白い息が、淡雪のように溶けては消えていった。私は夢中で自転車を漕いだ。まるで、罪悪感を掻き消すかのように。
 数十分でおばあちゃんのお店まで辿り着いた。自転車をお店から少し離れた空き地――道路をはさんだ向こう側――に止めて、おばあちゃんの元へ向かう。今度こそ真っ暗で何も見えなくなった。お店から漏れている四角い光を頼りにそこへ近づく。そのとき、何かにぶつかってしまった。すぐに私は黒くあたたかい物体に包まれて、私の視界は真っ黒になった。しばらくはそれが何か分からなかったけれど、心臓の音が聞こえて初めてそれが人間なのだと分かった。
「す、すみません、急いでて……」
「中野……?」
 その声に反応して上を向いた途端、息が詰まった。闇に溶け込んでいた人は、日向君だった。黒いシャツに黒い髪、そしてブルーグレーの瞳を光らせている彼は、まるで黒猫のようだ。
「あっ……」
 私は声が出なくて、どうしていいか分からなくなった。なんで、こんなタイミングで。
 日向君もびっくりした表情をしている。でもしばらくして、日向君は呟いた。
「この間、グラス買い損ねちゃったから、買おうと思ってきたんだ。夜なら……」
 日向君はそこで言葉を止めた。夜なら、私には会わないと思っていたんだろう。その日向君の気まずそうな表情からして、あの日、心を読まれていたことがはっきりと証明された。でもそれに動揺している暇なんてなかった。
「どうしようっ……お店が」
 この前までの自分を思い出して、急に涙がこぼれ落ちてきた。目に浮かぶのは、大好きなおじいちゃんの笑顔だ。
 あのしわしわの大きな手とか、優しい声とか、笑顔とか。全部、今もまだ胸に焼きついている。まさか病気になってしまうなんて思ってもみなかった。あんなにあっけなく消え去ってしまうなんて。
「わたしだけ、ずっと……進めてない……。おじいちゃんの死を受け止められなくて、一人でお店を頑張ってるおばあちゃんのことも応援できてない……っ」
 残ったのは、お店と、たくさんのガラス製品。たったそれだけだった、おじちゃんがいた証は。だから店に行くたびにつらかった。おばあちゃん一人だけで切り盛りしている姿を見ると、悲しくて――。
 そのとき、私ははっとした。私の汚い気持ちを読んでしまった日向君は、今、どんな気持ちでいるのだろう。だから私は言葉を続けた。
「あんなお店、つぶれちゃえばいいって……そう思ったの」
 声にした瞬間、ガラスがのどに突き刺さった気がした。
「おばあちゃん、あんなに頑張って一人で切り盛りしてるのにっ……私は現実を受け止めたくなくて、逃げてばっかりで……」
 自分がひどく汚い人間に思えた。私がおばあちゃんのことを守ってあげるという約束を、おじいちゃんと交わしたはずなのに。それなのに。こんなことを思うなんて、私はなんて冷血なんだ。浮かんでくるのはどれも自分を責める言葉ばかり。
 日向君には、もうこんな汚い自分とっくに知られているというのに、バカみたいに必死にしゃべった。言葉にして伝えたかった。隠したくなかった、日向君だけには。
「もういいよっ……っ」
 その瞬間、ふわっとあたたかいものに包まれた。鮮明に聞こえる、日向君の声と鼓動。胸が締めつけられるような思いにかられた。
「ありがとう。話してくれて。気持ちを読んでしまった俺の罪悪感も消すために話してくれたんでしょ?」
 日向君は、私のことなんて全部お見通しだった。頷きも否定もせずに黙っていたら、更に私を強く抱き締めて、ありがとう、ともう一度日向君はささやいた。その瞬間、さっきまで心の中にあった黒いかたまりが嘘みたいに溶けていった。
「……ゆっくりでいいと思うよ。俺は」
 日向君の声は、どこまでも落ち着いていて、深い海のように穏やかで優しい。
「人の死を受け入れるのは、何十年かかっても俺はできないかもしれない。その人が大切だった分、時間もかかる。だから焦らなくて大丈夫だよ。また泣いたっていいんだ」
 私はずっと、この言葉を今まで待っていたのかもしれない。今まで私をかたくなにしばり続けていたものから、解放された気がした。私はきっと誰かに許してもらいたかったんだ。大丈夫だよ。泣いてもいいんだよって。
「日向くん……ありがとうっ……」
 日向君は頷く代わりに私の涙を細い指で拭い取ってくれた。その手は私の耳に触れ、髪に触れ、徐々に移動していく。それに比例して私の心臓も音を速めていった。
「ひ、日向君……っ?」
 指が顎に到達したとき、視線が交差した。透明で、吸い込まれそうな瞳に私は見とれてしまい、言葉を失いかけたが、すぐに我に帰った。
「中野っ……行こう。店長が待ってるよ。何か、あったんでしょ?」
 日向君が私の頭を撫でて、そう言ったからだ。
「うん」
 私は力強く返事をしておばあちゃんの元へ向かった。道路を渡ってから、あの四角い光へと向かう。そのとき、日向君は何か言いたげな顔をしていたけれど、それはほんの一瞬だったので、私は問うこともできなかった。
「おばあちゃんっ」
「サエっ、それに日向君まで……」
 店の重たいガラスドアを押し開けて中に入ると、そこはガラスの破片が無数に散らばっていた。……割られたグラスは全部で五つくらい。まるで雪のようにそれはキラキラと光り輝いていた。
「も、もう、本当に誰かしらね、犯人……。酔っ払いかしら」
「おばあちゃん……」
「踏まないよう気をつけてね、二人とも。さっき警察に電話したからもうそろそろ来ると思うんだけど」
 おばあちゃんは電話のときとは違い、落ち着いた口調で言った。……違う。無理やり平静を装ってるんだ。だって、笑顔が今にも崩れそうだ。今にも泣き出しそうだよ、おばあちゃん。おばあちゃんがガラスをほうきで掃いている後ろ姿を見たら、急に切なくなった。この店をいかに大事に思っていたかが痛いほど伝わってきた。日向君も十分それを察しているようで、じっと黙ったまま立っている。でも、しばらくしたら、何も言えずに落ち込んでいる私の頭をもう一度撫でて、言った。
「約束、守るんじゃないの」
「犯人にキレるのはそれからだよ」
 そう優しく呟いてくれたんだ。おじいちゃんとの最初で最後の約束……それは、おばあちゃんを守ること。今頃何が大切か気づいたよ。止まったままじゃいけない。悲しんだのは私だけじゃない。
「おばあちゃん……。謝りたいことが、あるんだ。今更かも知れないけど、今言わなかったら一生言えない気がするんだ」
 私はそっとおばあちゃんの横に寄り添い、声を震わせ言った。おばあちゃんはきょとんとした顔をしている。それでも尚、ゆっくり自分を落ち着かせるように気持ちを言葉にした。
「去年、お墓参り抜け出してごめんね……っ。おばあちゃん、ずっと私のこと待っててくれたのにっ……」
 一番悲しいのは、つらいのは、おばあちゃんだったはずなのに、私はおじいちゃんの死を受け入れることを拒んだ。目をそむけて、逃げた。それなのにおばあちゃんはこのお店を一人で切り盛りして、笑って、私をなぐさめてくれた。それは、それはどれほどすごいことなのだろうか。
「……サエ、顔上げて」
「私、本当はこのお店、嫌いだったんだ。こんなお店、なくなっちゃえばいいって。おじいちゃんがいない店なんか、私の知ってる店じゃないって思ってて……っ」
「うん……うん。大丈夫だよ。サエ」
 どこまでも強くて優しいおばあちゃん。そのあたたかい手が、声が、私の心奥底まで癒してくれる。ごめんね。おばあちゃん。ごめんなさい。私も頑張って進むよ。守るよ。おばあちゃんのことも、このお店も。だからおばあちゃんも一人で悩んだり悲しんだりしないでね。
「サエ、ありがとうっ……」
「私、お墓参りちゃんと行くからね。お線香とか、水とか、あげてっ……」
 そのときは、しっかり伝えるよ。あの約束をちゃんと果たすと。そしたら おじいちゃんはどんな顔をするかな。微笑んで、くれるかな。だったら嬉しい。死ぬほど嬉しい。
「お店も、お手伝い、いっぱいするからね……っ」
 私はやっと、このお店を好きになれそうです――。
 それから少し経って警察の人が来た。その後、何時間か現場検証を行ったけれど、犯人に繋がる目ぼしいものがなく、私たちは、とりあえず防犯カメラをつけて置くようにと言われた。
 まだ警察が何か捜査を続けるなかで、おばあちゃんはお母さんに電話をし、お店のグラスが全て割られていたこと、警察を呼んだけど今の段階では犯人が分からないことなどを伝えると、数分後には家族全員がこのお店にそろった。みんなものすごい慌てぶりで、店の中は一気に騒然となった。お母さんとお父さんは警察の人の話を真剣に聞きながら、おばあちゃんを落ち着かそうとしている。それをはらはらしながら見ていたら、日向君がぼそりと隣で呟いた。
「俺、そろそろ出るね。宮本さんがきっと怒ってる……」
「あ、そうかバイト中だったよねっ。ごめん本当にっ……!」
「大丈夫。酔っ払いに絡まれたって言えばいいから」
 日向君はまたグラス買いに来るね、と言って出口に向かった。
 ばいばい、そんな言葉よりも言わなきゃいけない言葉かあるのに、のどにつっかえて出ない。私は反射的に日向君の服のすそを引っ張り引き留めた。日向君は小首を傾げて不思議そうに私を見ている。駐輪場のときは素直に言えたのに、今となると少し照れる。私は精一杯声を振り絞って言った。
「あ、あの……ありがとうっ……日向君」
 背中を押してくれて。日向君はなぜか顔を伏せて「うん」とだけ呟いた。そうして、まるで闇の中に溶けるかのように日向君は店を出ていった。優しく、あたたかい感情が全身を流れている。ほっとしたように視線を落とすと、ひとつの破片が足元近くにあった。
「あれ、この割れたグラス、真っ赤な口紅がついてる……」
 そのときの私は、“赤い靴”の人が忍び寄っていることに、気づきもしなかったんだ。まるで、そんな私を後ろから嘲(あざ)笑(わら)うかのように、その影は近づいていた。


▼錯乱──日向佳澄

 勝手に人の心を読まれたら、誰だっていい気はしない。だから俺は、心を読まずに済むように、物理的に人との距離を置くようにしてきたし、軽率に人間に触れたいと思ってはいけない人間だと自分を戒めてきた。なのに、俺はあのとき、中野を抱き締めたいと思ってしまった。
「佳澄、どこまで買い出し行ってたんだ」
 店の裏口のドアを開けた瞬間、頭をぐりぐりと撫で回されたが、俺はそんな宮本さんとろくに目も合わさずに、更衣室に入った。ぽたぽたと毛先からしずくが伝い、白い床に落ちていく。あのときの俺は、一体何をしようとしていたんだろうか。真っ暗闇の中、泣きそうな顔で俺の名前を呼ぶ中野の映像が、頭の中を駆け巡っている。あのとき、衝動的に彼女に触れたいと思ってしまったんだ。ありがとうと言われて、初めてこの能力を認めてもらえたような気分になったんだ。偏見も、差別も、何もない。真っ直ぐで透明な感情が、訳が分からないくらい嬉しくて……涙が、出そうになった。
 俺はあの日……グラスを買いに行った日に聴いてしまった。中野の心の悲鳴を。店長の後ろ姿を見ながら、店がつぶれてしまえばいいのにと思っている中野の切ない思い。その感情が、言葉が、熱が、全身に流れ込んできた。こんなことを聞かれたと分かったら、中野は俺のことを絶対に避けるだろうと思った。……そう思うと、目の前が真っ暗になった。
 ――それなのに、中野は。自分の汚い感情をさらけ出して、全部言葉にして伝えてくれたんだ。全て俺のこの罪悪感を消すためだけに。どんなに苦しかっただろう。どんなに悲しかっただろう。どんなに……怖かっただろう。この奇妙で異質な能力を目の前にしても、中野は俺を拒絶しなかった。
 ……そのとき、俺はもうきっと二度とこんな人には巡り会えないと思ったんだ。たった十七年しか生きていないのに、バカみたいだと言われるかもしれないけれど、でも、本当にそう思ったんだ。
 床には、髪先から落ちた水滴が集まって小さな水たまりをつくっていた。俺は、ロッカーを静かに開けて黒いシャツを取り出した。数種類の香水の匂いが染みついているそれをまとった瞬間、なぜか、泣きたくなった。中野に会いたいと、そう思った。でも本当は……理由はもう、分かっていたのかもしれない。
「お、やっときたか、佳澄。ほい、じゃ早く働いてな」
 更衣室から出てきた俺を発見した、店員の遠(えん)藤(どう)さんが、てきぱきと指示をしてくれた。彼はこの店で働いて三年目で、バイトとしては一番長く、仕事ができる。少し俺の様子が変なことに気づいていたようだけれど、遠藤さんは少しもそのことには触れてこない。
「あと、髪、まだ乾いてねーぞ。風邪引くなよな。この店、バイト少ねぇんだから」
 そう言うと、遠藤さんは店の奥へと消えていった。その薄暗い店の中に、すっと伸びる白い手。……オーダーだ。俺はそのお客さんの元へとゆっくり向かった。近づくと、徐々にはっきりと見えてくるその人の姿に、俺はなぜか緊張してしまった。赤い靴と赤い爪は、周りから異常に浮いていた。
「久しぶり。日向君」
 普段、客の顔なんてめったに覚えていないのに、その人は鮮明に記憶に残っていた。……雪さんだった。俺は引き寄せられるように雪さんに近づいていった。
「ふっ、今日も黒い服だ」
 そう微笑する雪さんの手元には、もう何本ものタバコが灰皿に押しつぶされている。……この店に来て、大分経っていたのだろう。
「しばらくぶり、ですね……」
「そうね。最近はちょっといろいろあって来る気になれなかったの。でも、今日は気分がいいから」
 どこか遠いところを見つめて雪さんは妖艶に笑い、また一本タバコに火をつけた。ぼうっと浮かび上がる青い炎。深い香りは段々と広がっていく。
「……あれ、日向君、なんか髪濡れてない?」
 雪さんが突然、俺の髪を指差した。
「あ、これはさっき雨で……」
「そう……雨。降ってたんだ……。来るときは降ってなかったのにね。つい、さっきまでは」
 怪しく微笑む雪さんから、なぜか目が離せなかった。タバコの白く長い煙は、すっと消えてゆく。激しい雨音が、やけに耳に残った。
「……じゃあ、そろそろ帰るわ。紫苑さんにもよろしくね」
 雪さんはゆっくりカウンターから離れると、明らかにお酒の代金にはそぐわない大金を俺に押しつけた。俺は慌ててすぐにそれを突き返した。
「まだ学生なんでしょ? お小遣いだと思って受け取っておけばいいのに」
「……こういうのは、困ります」
 からかわれているような気分になって、俺は少し機嫌が悪くなっていた。
「いいのよ、今日はちょっと罪滅ぼしをしたい気分なの」
 そう言った彼女の指に、何かきらめくものが刺さっていたので、俺は彼女の手を取った。
 それは、ガラスの破片、だった。ただの偶然だろうけれど、でも今このタイミングで割れたガラスの破片を見てしまうと、どうしてもさっきの事件と繋がってしまう。
「ああ、これ、さっき刺さったのかしら。気づかなかったわありがとう。それじゃあね。日向君」
 偶然だって分かっている。でも疑念は残る。だったら心の中を覗いてやろう。彼女を呼び止めようとしたその瞬間、頭に電流が走った。言葉は、真っ白になって消えた。声が、出ない。息ができない。なぜって、彼女の感情が読み取れなかったから。
 俺は初めてのことに混乱するばかりで、無理やり押しつけられた札束をくしゃくしゃに握り締めたまま、その場に愕(がく)然(ぜん)と立ち尽くしていた。どうして? なんで? 感情を完璧に殺せる人間なんていないはず。背筋が、ぞっとした。どくんどくんと、血管が脈打っている様子が自分でも明確に伝わってくる。指先から、足先から、何か奇妙なものに侵食されていく感覚が襲ってくる。店から出る直前に見せたあの雪さんの微笑みが、脳裏に焼きついて離れない。雪さんは、一体何者なんだ。
「顔真っ青だぞ、お前。どうした」
 思わずふらついたそのとき、腕を誰かにきつくつかまれた。思わず俺は雪さんのが飲み残したお酒が入ったタンブラーをカウンターに倒してしまった。……その音で正気に戻った。少し、騒然となっている店。客の視線。透明な液体は、雪さんから押しつけられた札束をじわりと濡らしていく。目の前には、俺の腕をつかんだまま真剣な顔をしている宮本さんがいた。
「……休んでろ、すこし」
 全てを見透かしたように落ち着いた瞳を見たら、かたくなに握り締めていた拳の力が少しずつ緩んだ。ドク、ドク、と音を立てて徐々に心音が静かになっていく。宮本さんにつかまれた手首だけ、異様に熱い。俺は隅っこのカウンターにうつ伏せ、雪さんの言葉を頭の中で反(はん)芻(すう)した。

 次の日は、珍しく遅刻もせずに学校に着いた。昨日は結局、そのまま店に泊まったから。一晩経ったら、少し頭の中が落ち着いていて、ちゃんと呼吸をしている自分がいた。宮本さんは、朝になってもあの女性については一切触れてこなかった。……何かを察しているのか、聞くに聞けないのか。俺自身、昨日のことを思い出すと、さあっと胸の中が薄ら寒くなる。でも、今はその感情も幾分かおさまった。多分、宮本さんたちのお陰なんだろう。
「よーっす、日向、元気ー?」
 教室のドアを開けようと手をかけた瞬間、突如首筋に激痛が走った。朝からプロレス技をかけられた俺は、あからさまに不機嫌な目つきで彼を睨んだ。
「カケル……お前、朝からうざさ極め過ぎ」
「声低っ! 何お前、今日いつにも増して低血圧じゃね?」
 俺はカケルの足を無言で蹴飛ばしてから教室に入った。痛そうにしていたけれど無視だ。騒々しい教室の隅っこに荷物を置いて、よくよく考えを巡らせてみた。今、確実に分かっていることは、雪さんは普通の人ではないということ。
 今思えば、高校生の俺にあんな風に絡んでくる時点で不自然だった。気味が悪かったけれど、それよりも怖いことがあった。もしガラスを割ったのが彼女なのだとしたら、なぜ中野のおばあさんの店を襲ったのか……。いや、あの店が中野のおばあさんの店だとは知らなかったはずだ。でも何かが引っかかる。もしかして、中野のおばあさんの店だと知っててやったのか? 何かの警告として。そのとき、ひとつの考えが脳裏に浮かんだ。――彼女も超能力者なのか……? いや、そんなはずはない。もし、そうであっても、俺に関わる理由も見つからない。
「あっ。日向君、おはよ」
 頭がショートする寸前、人懐っこい笑顔を見せて、中野が俺に近づいてきた。俺の秘密を知っているのは中野だけだ。俺と彼女の関係の中で特別な点は、そこしか見つからない。
「日向君、こないだはほんとにありがとう。残念ながら犯人はまだ見つかってないんだけど……」
 そう言って苦笑する中野を見たら、胸が苦しくなった。この先、また中野をわけの分からないことに巻き込んでしまうかもしれない。何が起ころうとしているのか、全く俺も見当がつかないけれど、嫌な予感がする。
「……日向君?」
 俺は、中野の隣にいてもいいのかな。当たり前のように、秘密を守ってもらってきたけれど、そんな風に俺と関わる機会を増やすのは、すごく危険なことだったのかもしれない。俺は、この能力を持っている人の世界をあまりにも知らなさ過ぎた。もし、雪さんのことがただの思い過ごしだったとしても、危険なことになんら変わりはない。中野に秘密を知られてから、いつの間にか能力への意識が薄れていた。普通の人間になれた気がしていたのかもしれない。どこかで。
「どうしたの? 顔色悪いけど」
 ずっと黙りっぱなしの俺を変に思ったのか、中野は心配そうに顔を覗いてきた。―—その、無防備さが怖い。こんな俺のことをなんでそんなに信じてくれているのだろう。だって、今、俺が中野の心を読んでるって疑ってもおかしくないのに。
 胸が熱くなったその瞬間、俺の足は廊下へと動いていた。中野は突然の出来事に混乱している様子だった。――気持ちが追いつかない。俺はひたすら人けのない教室を探して回った。中野をこれ以上巻き込んではいけない。傷つけたくない。自分の感情が交錯する感覚に、溺れそうになった。
▼冬の空に──中野サエ

「サエ、今、あんた何時だと思ってんの!?」
 目を開けると、明るい光が差し込み、ぼんやりとした視界が徐々にはっきりとしていく。
「お墓参り今日だって知ってるでしょ? 翔(しょう)ちゃんとか、もうみんな来てるよ」
 もうみんな来てるよ、というお姉ちゃんの言葉に、私はガバッと布団から飛び起きた。心臓がドクドクいっている。恐る恐る時計に目をやると、もう短針は十のところを指していた。ちゃんと目覚ましセットしたはずなのに。
「いいからもう早く支度して! 言っとくけど朝ご飯食べさせてる時間ないからね!」
「はいすみません……」
 私は布団から出て適当に髪をとかし、手当たり次第に着替える服をクローゼットから引っ張り出した。そんな私に呆れたのか、お姉ちゃんは先にリビングへと下りていってしまった。
 こんな大事な日に寝坊だなんて最悪だ。まだお正月にもなっていないのに、冬休みボケしている自分はどこまで間抜けなんだろう……。自分を責めながらぶちぶちとパジャマのボタンを外していたら、突然荒々しくドアが開いた。そこにいたのは、学ランを着たいかにも中学生です、という感じの不良っぽい少年。もとい従兄弟(いとこ)。……ボタンを全開にしたまま固まった。
「おっせーんだよ、サエ。さっさと来い」
「あの……翔くん……今私、着替えてるんですが……。一応、女なんですが……」
「サエの裸なんか見たってなんとも思わねーし。いいから早く支度しろよ」
「す、すみません……うう」
 そんな言い方しなくたっていいんじゃないか。最近の中学生は本当にませている。恋人がいることも当たり前で、髪形もおしゃれで垢抜けていて、それが様になっているから恐ろしい。ああ、あの幼き日のかわいい翔君は一体どこへ……。そう嘆きながら上のパジャマを脱ごうとした瞬間、突如枕が吹っ飛んできた。
「バカじゃねぇの、俺がいんのに普通に脱ぐなっ」
「どっちなの!」
 矛盾にも程がある……。だって今さっき“サエの裸なんか”とか言っていたじゃないか。最近の中学生はやっぱり分からん……。
 翔君は、結局、バタンとドアを閉めて下りていってしまった。絶対、翔君が来なければ、とっくに着替え終わってたのに、と思った。玄関を出ると、シルバーのミニバンから渉(しょう)子(こ)さん――従兄弟のお母さん――が顔を出していた。こんな大人数でお墓参りだなんて、おじいちゃん幸せ者だな、と思った。いつもより澄んでいて透明な空が、果てしなく続いている。じっとそれを見つめていると、吸い込まれてしまいそうな気がして、少し足がふらついた。車の中に入ると、私は誘導されるがままに翔君の隣に座った。
「うわ、なんだよお前、ちけぇーよ」
「狭いからしょうがないでしょ……」
「翔の近親相(そう)姦(かん)ー」
「うるせぇ、兄貴!」
 翔君兄弟の口ゲンカを聞き流しながら、私はぼんやりと窓の外を見つめていた。薄いブラウンの窓には、水色の冬空が鮮明に映り込んでいる。なんとなく、日向君のことを思い出した。二学期が終わる直前の様子がおかしかったから、少し気になる。私、なんかしたかな……。お礼の気持ち、ちゃんと伝わってたかな……。今こうしていられるのは日向君のお陰だよ。
「いい天気ね」
 しばし空想にふけっていたら、ささやくように渉子さんが呟いた。助手席に座っているお母さんも、静かに、そうね、と言った。
 ――去年もそうだった。おじいちゃんの命日は、晴天だった。雲ひとつない、薄い水色の空。まるで、おじいちゃんの瞳の色によく似ていると、ぼんやり思った。
「サエ、お水、汲んできてちょうだい」
 私は、玉砂利を踏み締めて、墓地のすぐ隣にあるお寺の水道へと向かった。二本の大きな杉の木に囲まれているそのお寺は、ずっしりとそこにあった。門には、下から這(は)うように苔(こけ)が生(む)している。何百年もの歴史がこの建物に蓄積されているような気がして、私は、その場に止まったまましばし呆(ほう)けた。
「……これからもおじーちゃんをよろしくお願いします」
 そしてお辞儀をしてから、桶に水を汲んだ。ただの水道水なのに、清らかな気がするのは、やっぱりこのお寺の雰囲気から来るものじゃないかと思った。
「水、持ってきたよ」
 お墓の方に戻ると、渉子さんは、私が重そうに持っている桶をさっと受け取ってくれた。
「よし、じゃあ水あげて」
 柄杓で水を汲み取り、おじいちゃんのお墓のてっぺんから、ゆっくりそれをかけた。水のカーテンとなり、滑らかに下へと落ちてゆく。その水に空が映り込んで、一瞬お墓が空色に染まった。……綺麗だった。見とれている私をお母さんは笑った。ほっとしてるのかな。やっと私が、こうやってお墓の前に立っていることに。しばらくすると、お線香の香りが辺りに漂い始めた。……あ、この感じ。
「おら、サエ。線香」
「あ、ども」
 翔君から受け取ったお線香をお墓の前に置いて、ゆっくり手を合わせた。静寂な雰囲気の中、みんなが黙想にふける。目を瞑ると、そこにはおじいちゃんがいて、よく来たねって頭を撫でてくれたような気がした。もちろんそれは、幻だけれど。おじいちゃん、どうかこれからもみんなを見守っていてください。約束は、ちゃんと守るよ。
「……サエ、何をそんなに一生懸命お願いしてるの?」
 ふふっとおかしそうに笑って、おばあちゃんが問いかけてきた。私はゆっくり微笑んで、内緒と口を動かしながら唇に人差し指を当てた。
 お線香の白い煙は、透明な空へと吸い込まれていった。私は心の中が、すぅっと満たされていくのを、どこかで感じていた。