と、辺りをなつかしそうに見回した。

もう夏芽ちゃんは泣きも笑いもしていなくて、それが余計に悲しかった。

家庭内暴力じゃないことには安心したけれど、たったひとつの思い出に縛られている彼女を思うと、切なかった。

「大切な記憶ですね」

「そう、だからあたし平気だよ。さっきは初めてたたかれたから驚いただけだし」

舌を出しておどける彼女に、

「結果的には私がたたかれたんですけどね」

冗談ぽく言って私も笑った。

すくっと立ち上がった夏芽ちゃんは、

「詩織ちゃんまでびしょ濡れにしちゃったね」

と、少し笑った。

「平気です。歩いていれば乾くでしょうし」

私も立って横に並ぶ。

「じゃ、帰るね」

歩き出そうとする夏芽ちゃんの腕をとっさにつかんだ。

「送って行きます」

「え? いいよ、近いし」

「行きます。服も乾かしたいですし」

とってつけたような理由にも夏芽ちゃんは反対しなかった。代わりに「ジュース飲みたい」と、中学生らしいことを言って私を安心させてくれた。

夏芽ちゃんの家は意外にも私の家と同じ方向だった。

奈良公園を抜けると細い道を私たちは歩く。しばらく行くと住宅がちらほらと顔を出してくる。

夏芽ちゃんは学校で流行っていることとか、クラブ活動のことをいろいろ話してくれたけれど、もう家庭のことは口にしなかった。

楽しそうにはしゃぐ姿は中学生らしい。だけど、その奥にはきっと重い気持ちが今もうごめいているのだと思うと、なんだかやりきれない。

ようやく着いた夏芽ちゃんの家は、私の最寄りのバス停からふたつ手前の所だった。

白い二階建ての家。セダンの車と夏芽ちゃんのトレードマークの白い自転車がせまい駐車場に停まっていた。

「詩織ちゃん、ちゃんと家に帰れるの?」

最後まで私のことを心配してくれる夏芽ちゃんは、本当にやさしい子だと思った。

ドアの向こうに手を振りながら消えた夏芽ちゃんのために、私ができることはないだろうか……。

だんだん濡れた体が冷えてきて、考えがまとまらなくなる。

「とりあえず帰るか……」

つぶやいて振り向いた私の目に、少し先のバス停に停まる車体が見えた。おりてくるのは、さっき会ったばかりの夏芽ちゃんの両親だった。

「あなた……」