もちろん就職するつもりはないけれど、たまには朝ごはんをここで食べるのもいいかもしれない。

ナムに続いて開いた引き戸から中に入ると、

「遅い」

不機嫌な声が聞こえた。

これさえなければもっといいお店になるのに。厨房の中、仁王立ちで立っている柏木雄也は太い眉を寄せて私をにらんでくる。

「遅くない。まだ開店時間じゃないもん」

腕時計は六時ちょっと前を指している。

「五時五十分に出勤しろ、って言ったろ」

「そこまで詳しくは聞いてないし。それに今日もお客さんとして来たの」

なつかしいような魚の匂いがしている。これは出汁の香りだろう。

ここでの食べ物の香りを感じたかったんだ、と思ったのはなぜだろう。

ひょっとしたら、朝起きたときから、私はここに来たかったの?

昨日座った席に腰かけようとする私に、雄也はうなり声をあげた。

犬みたい。

今にもかみついてきそうな顔をしているけれど、私にだって言い分はある。

「だって、飲食店で働いたことないし、昨日の今日ですぐに働ける自信ないし……」

文句を言いながら、だけど私の心はこの場所を求めているような気がしてくる。

それは昨日、雄也と話をしていたとき、生まれて初めて素の自分になれた気がしたからかもしれない。

でも、素直になれないのは『倒産』を経験した私が、疑うことを覚えてしまったからなのかも……。

そんな私に雄也は「ふん」と、鼻息を吐く。

「無職で悲しい、って泣いてたのはどこのどいつだ」

ぐ……。言葉につまったけれど、

「心の準備ってものがあるの」

と、言いかえすと雄也はしばらく黙って私を眺めてくる。

そうだよ、バイトなんかじゃとても暮らしていけないんだから。

鼻から息を吐いて、言い合いの勝負に勝ったことを確信するけれど、雄也はひょいとかがんでから一枚の紙を私の前に置いた。

「なにこれ?」

見ると毛筆の字でいろいろと書きこんである。達筆すぎて一文字ずつしっかり見ないと読み取れない。

「心の準備に必要なものだ」

キッとにらんでも用紙に書かれた文字が気になってしまい、そのまま目線を紙に戻す。どうやらこれは、雇用条件が書かれている紙のようだ。

「えっと……え? 【株式会社ならまちはずれ】って?」

何度見てもそう書いてある。これは……。

顔を上げて雄也を見るともう料理に戻ってしまっている。