「さっきいらしたランドセルを背負った男の子は、小野さんの息子さんですか?」
「え?」と、家のほうを見た小野さんは、
「ええそうです」
と、とまどいながらうなずいた。
「小野さんは結婚されているのですね?」
「はい。いや、遅くに結婚したものですから子供はまだ小さいですけどね」
相好を崩した小野さんの顔を殴ってやりたい。右の拳を左手で押さえながら彼をにらんだ。
「友季子さんはそのことを知っているのですか?」
「……え?」
眉をひそめた小野さんは視線を左右にさまよわせた。
「……ひどいじゃないですか」
「きみはなにを─」
「ひどすぎます! 友季子さんは今でも猿沢池であなたを待っているのに。それなのにっ」
寂しい友季子さんの横顔の映像が胸を締めつける。雨の中、ずっと信じて待っていたのに。
「きみは友季子を知っているのか?」
声色が変わった小野さんが私の両肩をつかんだ。
「離してください」
けれど、つかまれた両腕に逆に力が入る。
「友季子が猿沢池に?」
顔を近づけてくる小野さんの目が怖かった。まるで秘密を知っている私を殺そうとしているような錯覚に恐怖でいっぱいになった。
「離して!」
力任せに振り切ると、気づけばその頬を打っていた。乾いた音が響いた。
自分でもびっくりしたけれど、すぐに涙がこぼれる。
小野さんは我にかえったのか、見開いた目を地面に向けている。
「信じて待っている友季子さんがかわいそうです」
それだけ言うと、私はその場を去った。
─どうやって奈良駅に戻ってきたのか。
畑を出た私に小野さんがなにか叫んでいたように思えたけれど、必死で広い道まで走ると、タクシーに飛び乗ったことまでは覚えている。
気づけば、奈良駅前の噴水のある場所に戻っていた。
見おろすと泥が渇いて茶色に染まった靴。和豆に頼まれた和菓子すら買えていない。
「……最悪」
余計なことなんてほんと、するもんじゃない。友季子さんを助けたくてやったことが、これじゃあ逆に彼女を追い詰めてしまうことになるかもしれない。
なんとかしたくて京都まで行ってしまったけれど、こんなにすぐに戻ってきちゃうなんて。それでも……どこか、奈良に戻ってきてホッとしている自分がいた。
猿沢池までトボトボ歩いてみるが、友季子さんの姿はやはり見えない。