けれど、ゆるゆると首を横に振る彼女は、また池のほうに視線を戻した。

そうしてから、

「お店って?」

と、尋ねた。

「ならまちのはずれで『朝ごはん屋』をしているんです。もうすぐ閉店ですけど、おいしいんですよ」

すっかり店員として板についてきたのかアピールを忘れない。

「朝ごはんのお店なの? 珍しいですね」

「良かったら食べていきませんか?」

私の提案に彼女はまた視線を戻してくれた。少し心が動いたのだろうか。

「でも……」

「ここにいても濡れるだけですし、いかがですか?」

重ねての営業トークに、彼女はようやく少しほほ笑んだ。

「あなた、変わった方ですね」

「そうですか?」

並んで歩き出す彼女は、まだ猿沢池が気になるようで何度か振りかえっていたけれど、やがて、

「平野友季子といいます」

名前を名乗った。

「友季子さん、ですね。私は、南山詩織です」

「よろしくお願いします」

こくん、と頭を下げてから平野友季子、と名乗った彼女の表情はまた曇る。最近こういう表情をよく見るようになった。彼女もまた、悩んでいるのだ、と思った。そして、その悩みを置いていってもらうために店をしている雄也も、同じように悩みを抱えている。

人は、悩みなしでは生きていけないってことなのかな。だとしたら、それは悲しい気がした。

「ずっと猿沢池にいましたよね?」

水たまりを越えながら尋ねると、友季子さんは「ええ」とうなずいた。

「ずいぶん長い間いたのかもしれません」

静かに答える彼女はとても寒そうに見えた。早くお店に着いて体を温めてあげなくちゃ。

それからお店に着くまで、私たちはただ雨の音を聞いて歩いた。

お店の前の蛇口から水を出し、いつもよりも手早く野菜を洗ってから、

「どうぞ」

と、店内へ。友季子さんからこぼれるしずくの量は減っているとは思うけれど、あいかわらずびしょ濡れであることに変わりはない。

雄也は私を確認して顔をしかめたが、なにも言わずに調理に戻る。きっと、またなにか余計なことをしようとしているのがバレたのだろう。

「どうぞお座りください」

そう言うと奥からタオルを数枚取って、友季子さんに手渡した。

「ありがとうございます」

まだ立ったままの友季子さんが不安そうに雄也を見やったので、

「雄也、お客さんだよ」