その男の人は、カマタさんというらしい。
自転車を押して歩く姿も、行き交う人が思わず二度見するほどサマになっている。とにかく一般人とは思えないほどかっこいいのだ。
カマタさんの押す自転車の前カゴに大量に生えていたのは、育ちすぎたイタリアンパセリだった。春菊みたいな葉の形で、香りもそんなに強くない。ついでに言えば、ハンドルに引っかけたビニール袋には、小さすぎたり形が悪すぎたりして売ることができないニンジンたち。どちらも近所の知り合いにもらったという。
「ま、どっちも見た目はアレだけど、食べてしまえば味はおんなじだから」
「はあ……」
ぼんやり相づちを打ちながら、私はカマタさんの手元ばかり見ていた。
大きな手の甲がちょっと筋張っている。いかにも男の人の手って感じだ。爪もきちんと切り揃えられていて、自転車のハンドルを握る指先まで綺麗だった。
――やっぱりこの人、料理人なんだろうか。どんな料理を作るんだろう。
もし変なことをされたら大きな声を出そう、もし知らない細い道を通ったらすぐ逃げよう、なんて警戒していた気持ちは、もうすっかりどこかへ行ってしまった。
「……学生さん?」
「え、私?」
急に訊かれて顔をあげると、カマタさんは穏やかな表情でうなずいた。
「平日の昼間に、ラフな恰好でメシ食ってたし」
痛いところを突かれた。私はそっと唇をとがらせる。
「別に、平日がお休みの社会人だって、いっぱいいるじゃないですか。……って、まあ、今の私はバッチリ無職なんですけどね」
「そうなの?」
「あ、今日からですよ! 無職なのはホント今日からで、昨日まではちゃんとお仕事してましたから。一応、三年以上は同じ会社でがんばってたんで……」
別にそんなことまでは訊かれていないのに、つい自己弁護してしまう。
すると、カマタさんは軽く目を見開いた。
「君、いくつ?」
「二十六ですけど」
答えたら、カマタさんの目が、もっと丸くなった。
「ごめん、成人前かと……。平日にフラフラしてるんじゃ、高校生ってことはないのかな、くらいに思ってた」
「そんなわけないでしょう!」
高校生って。まさか十歳近く若く見られるとは、思ってもみなかった。確かにオトナの女って言えるような恰好はしてないし、今日は日焼け止め効果のある乳液だけつけて出てきたから、恥ずかしながらすっぴんだ。背も平均よりかなり低めなのは認める。だけど、いくらなんでも十代に間違われるほどではないはずだ。
――見た感じ、すごくモテそうなのに、実はあんまり女の人を見る目はないのかも。自分に自信がある人は、案外まわりを見ていないって言うもんね。
私は心の中でこっそり、そんな診断を下した。
とんでもなく美形なのは事実だが、カマタさんはいかにも草食系って感じがする。パセリに囲まれている姿は、葉っぱの国の王子様みたいですらある。
「カマタさんは、地元でお仕事してるんですか? その、何かお店をやっているとか」
なんだかすっかり肩の力が抜けて、そんなことも軽く訊けてしまう。
するとカマタさんは、説明に困ったように眉根を寄せた。
「ん? いや、そうだなあ……俺も無職、かな」
「えっ? 料理人じゃないんですか?」
「料理はするけど、プロじゃない」
なんと。誰よりカフェエプロンが似合うのに、お店をやっているわけじゃないなんて。のこのこついてきたのも、この人のお店で何か食べられるかなと思ったからなのに、料理人どころか無職だと言うなら、彼は一体、私をどこへ連れていく気なんだろう。
一度は解いたはずの警戒心が、またムクムクと起きあがってくる。まさかそんなことはないと思うけれども、万が一、変なところに連れて行かれそうになったら、ダッシュで逃げなければ。
「なんで泣いてたの?」
「え……?」
逃走の可能性を視野に入れた私がスニーカーのつま先を地面にトントンして、指の位置を確認していたら、唐突にカマタさんが言った。
「いや、泣いているような気がしたから。それで声かけたんだけど」
「な、泣いてなんかいませんよ!」
あわてて否定した。でも、内心を見透かされたようでドキッとする。
「その、トンビにサンドイッチをさらわれて、お腹すいて情けない気持ちには……なってましたが……」
「うん。空腹で泣いてる人は、俺、かなり離れた場所にいてもわかるんだ」
カマタさんは穏やかな笑みを向けてきた。
まるで超能力みたいな説明だ。冗談のつもりか真面目に言っているのか、微妙すぎて判断に苦しむ言い回し。
私はカマタさんの表情を探るように仰ぎ見た。背が高いから、どうしても高いところを見上げるような目線になる。
「親切なんですね」
「……そんなこと、初めて言われた」
「親切ですよ。だから見ず知らずの私を、助けてくれているわけでしょう」
「道で行き交うほとんどの相手は、俺にとって見ず知らずだろう」
これも不思議な言い回しだ。でも、心のやわらかいところにストンと落ちてくる、優しい言葉だった。
なんだろう……この人。聖人か。それとも正義の味方かな。
カマタさんの声は低く落ち着いていて、私はなぜか急に、いろいろ話したくなってきてしまった。
「愚痴、言ってもいいですか?」
「どうぞ」
カマタさんのあっさりした許可に背中を押されて、私は思いつくまま言葉を紡いだ。
リストラのこと、次の仕事のあてがないこと、従姉妹の結婚や母の電話のタイミングの悪さ、友だちが内装をやる京都の北欧カフェのこと。それから、とっさについた共同経営の嘘のこと、母や沙紀からの電話を切るのについた嘘のことも……。
「私、嘘だらけなんです」
ぽつりと言うと、カマタさんが首をかしげた。
「そうかな」
「そうですよ。デザインの仕事もうまくできないし、自信がないくせにプライドばっかり高いから、すぐ嘘ついちゃうんです。自分に価値がないって認めるのがイヤで、周囲を嘘で塗り固めてガードしてるんです。もう、私ってば最低!」
「そうは思わない」
カマタさんはそうフォローしてくれるけれど、自分でも救いようがないって、ちゃんとわかってる。
「私、すごく性格が悪いんです。それなのに、いい人って思われたくてカッコつけちゃうし。それでどんどん、自己嫌悪に陥ってきちゃって……」
「……名前」
え? と顔をあげたら、カマタさんがもう一度、「名前、なんだっけ」と言った。
しまった。カマタさんに名前を教えられたところですっかり安心してしまって、自分の名前を告げていなかった。これではただの失礼な人だ。
「すみません! 潤香です。竹林、潤香」
「じゃあ、ジュンカさん。誰かを傷つけようとして、嘘ついたことある?」
改めて訊かれて、私は思い返す。
他人を傷つける意志なんて、あるわけがない。私の嘘は自分の心を守るためだ。
上司が去りゆく私の心配をしないように。母や沙紀に電話のやりとりがイヤだと悟られないように。
「傷つけるつもりはないです。でも私が無意識に言ったことで、誰かが傷ついているかもしれないし……」
「そうやって先回りして気を遣うから、疲れちゃうんじゃないの」
マタさんの声はとてもやわらかくて、私の中にストンと落ちてくる。
おしゃべりしながらゆっくり歩いていたら、いつのまにか鎌倉駅の近くまで来ていた。
駅前の、私もよく知っている路地を通る。そこからまた少し歩いて住宅地を抜け、今度は毛糸で編んだ靴下の専門店の横の、ごく細い脇道へ入った。
――こんな道、あったっけ?
知っているはずの街が、まるで出口のわからない迷路のように思えてきた。
知らない道に来てしまったけれど、カマタさんは悪い人には思えないし、ここまで来ると好奇心が勝って、今さら逃げる気もなくなっている。
花をつけた雑草に気をとられながら、民家の間の舗装されていない小径を歩く。するといきなりぽっかりと目の前が開けた。
先ほどより少し広い、なんとか自動車一台程度なら通れそうな幅の道路に、すすけた板塀の古民家が現れたのだ。家の前には使いこまれた感じの縄のれんがかかっていて、そのすぐ傍らに出された木製の看板には、濃淡のある墨色で「かまくら大仏」という文字が書かれている。
「この古民家、もしかしてお店ですか? でも、かまくらだいぶつ……って、長谷には遠いですよね、ここ」
鎌倉といえば大仏、大仏といえば鎌倉、と連想するくらいの鉄板名所だし、鎌倉で営業する限りは番地がどこであろうが「大仏」を名乗っていいのかもしれない。でも、感覚的には違和感がある。この店の作りこまれた渋さと、メジャーな名所に丸乗りするイージーさが、なんとなくうまく繋がらないのだ。
私の質問を聞いているのかいないのか、カマタさんは押してきた自転車をさっさと古民家の前へ駐めると、野菜袋を抱えて店の中へ入った。