今日みたいに天気のいい日に、この極上サンドイッチをわざわざ室内で食べる気はしない。やっぱりお散歩ランチは正解だった。でも、海辺の道は波立つ水面が陽光を照り返して、かなりまぶしかった。こうなるとサングラスが欲しくなる。
平日はさすがに、観光客の数もまばらだ。もともと私が住んでいるのは、鎌倉の中でも大仏や鶴岡八幡宮があるような〝ザ・観光地〟という場所からは少し離れている。それでもこのあたりにも、素敵なランチを出すフェがたくさんあって、外で美味しいものを探すのに困るということはない。
鎌倉にはカフェや軽食の喫茶店がたくさんある。たぶん、散策をするのに最高の街だからだ。観光客相手のわかりやすい立地の店から、江ノ電の線路をまたがないと入れないような店、古民家の庭先の「こんなところ入っていいのかな」と不安になるような場所でひっそり営業する店まで、それこそ無数に存在している。
会社を辞めるときに私が言い訳に使った友人も、鎌倉でカフェを開くのが夢だと言っていた。今もその夢が継続中なのかはわからないが、仮に彼女とお店を共同経営するとして……と、想像してみる。
まず、カフェ激戦区で新規開店して続けていくには、人一倍頑丈な心と健やかな身体が絶対に必要だ。でも、四年にわたる昼夜逆転のインドア生活で、私のメンタルはかなり弱っている。おまけに不摂生と運動不足で、確実に体力が足りない。
お店にまつわるのデザイン一式は、私が担当すれば経費削減になるんじゃないだろうか。カフェの責任者は彼女でも、私だって料理の腕にはまあまあ自信がある。
こうやって想像しているときが、一番楽しい。友人に連絡もしていないくせに、現実逃避の妄想ばかりがふくらんでいく。鎌倉で仕事をするなら、やっぱりお店だろうか。
たとえば、バーの店員にもあこがれる。でも私はお酒に強くないし、たばこの煙がとにかく苦手だ。
飲食店でないなら……手芸が好きだし、手作りの小物を売る雑貨屋さんもいいな。大学時代に突然、ハワイアンパッチワークにハマったことがあった。途中でピタッとマイブームが去ってしまったから、今も使っていない布地や糸がいっぱい残っているはずだ。あれは、どこに置いただろう。引っ越しのときに下宿先だった叔母の家から持ちだしたような気がするから、段ボールにつめて部屋のどこかにあるとは思う。ああ、そういえば、綺麗な色で絵つけをするアイシングクッキーに凝ったこともあった。そっちは会社の先輩同士の結婚パーティの引き出物に使ってもらって、みんなから褒められた記憶がある。それからすっかりクッキーづくりにハマってしまって、やたら焼いては配り歩いた時期もあったっけ。
でも、自分のことは自分が誰よりよく知っている。
お店が出せるほどの実力なんて私にはない。
私はほどほど手先が器用なだけの素人で、どんなものも無難にこなせるけれど、それが皆を惹きつける個性になったり、客寄せの材料になったりするプロではない。デザイナーとしてパッとしなかったのも、それが理由だ。
いつか特別な存在になりたいと思っていても、それを人前で堂々と宣言できるほどは、自分に自信がない。プライドは人一倍高いくせに臆病で、心の奥には劣等感が渦巻いていたりする。我ながら、すごく面倒くさい性格だ。
そんなことをつらつら考えながら歩いていたら、ショルダーバッグの中でスマホが震えて着信を知らせてきた。画面に〝おかあさん〟の表示が出ている。
「……なに?」
スワイプして通話を始めると、早口で高めの声が耳元に響いてきた。
『ナニじゃないでしょ、まずはあいさつでしょ? おはよう、潤香!』
「はいはい。おはよー、おかあさん」
『ちょっと、もー。つれないわねっ』
母親が呆れたようにため息をついた。相変わらず、この人はいつでもどこでも、やたらと元気だ。そして、まあどこの家でもそうだと思うけれど、実の親への電話対応は、だいたい雑になるものだ。私も外面はいいほうだが、母親相手には地が出てしまう。
「で、なによ?」
『あ、ほら、ねえ。名古屋の姉さんとこの亜由美ちゃん、覚えてる? 今度、結婚するんですって!』
「へー、それはおめでとうだねー」
亜由美ちゃんは母方の従姉妹だ。小さい頃はよく遊んだが、私が大学進学で上京してしまってからは、かれこれ数年会っていない。
『二十代で結婚するって、いつだったかのお正月にあの子、宣言してたのよねー。で、そのとおりになったわけよ』
「亜由美ちゃんて、いくつだっけ?」
『二十九。ギリギリ滑りこみだって、笑ってたわ』
そんなになるのか……と思ってから、私は軽く頭を振った。
私だってもう二十六歳だ。少し年上のお姉ちゃんだった亜由美ちゃんが、二十九歳なのは当然のことで、何も驚くようなことじゃない。
「……ふーん。有言実行か、すごいね」
『ふーん、て。潤香は、亜由美ちゃんの相手がどんな人とか、気にならないの?』
「べつに。たぶんいい人なんでしょ」
そっけなく答えたので、そりゃそうだけど、と母は不満げだ。
『――あ、ねえ、あなたはどうなのよ』
「どうって?」
『だからー。この先、どうするの?』
母の声のトーンが落ちる。探られるように言われて、こちらの気持ちもしゅるしゅるとしぼんでしまう。
「どうするって……」
だいたい「この先」って何だろう。彼氏とか結婚の話? それとも次の仕事の話? どっちにしろ私の「この先」は、今はノープランで、そこをツッコまれても答えようがない。
「……ごめん、ちょっと。今はそんな気分じゃないし、時間ない」
『え、具合悪いの? どうしたの。今どこ? 病院?』
「なんで病院なの、違うよ。電池切れそうだから、もうおしまいね。またね!」
『ちょっと、潤香』
まだ何か言いたそうな母親の声をさえぎって、私は強引に通話を切った。
「あーーーーー、もうっ」
ショルダーの外ポケットにスマホを投げ入れてから、心のモヤモヤを追い出すように、声をあげてみる。
だいたい、母からの電話はいつもタイミングが悪い。精神的にヘコんでいるとき、急ぎの電話連絡を待っているとき、そうでなければ打ち合わせの最中、はたまた電車移動中、工事現場の側道を歩いているとき、スマホの電池切れ直前、などなど。
たぶん娘が弱っていたりピンチに陥っていたりすると、そのマイナス電波が母のアンテナに引っかかってくるんだろう。それでいつも、いきなり微妙すぎるタイミングで電話をかけてくる。母親パワー恐るべしだ。
実際、母の勘は鋭くて、私が真剣に助けを求めているとき、幾度となくタイムリーな救い手になってくれるのも間違いなく、この母なのだ。
……でも、今日はごめん。
まだ、背中を押してほしいタイミングじゃない。次の行動に移るにしても、私にはまだ準備が足りない。簡単に言うと、すっかり疲れてしまったのだ。心のバネが伸びきっていて、次のジャンプに移れない。だから今はまずバネをよく拭いて、ぎゅっと丸めてジャンプの準備をする時間がほしい。
しばらく、そっとしておいてほしい。
平日はさすがに、観光客の数もまばらだ。もともと私が住んでいるのは、鎌倉の中でも大仏や鶴岡八幡宮があるような〝ザ・観光地〟という場所からは少し離れている。それでもこのあたりにも、素敵なランチを出すフェがたくさんあって、外で美味しいものを探すのに困るということはない。
鎌倉にはカフェや軽食の喫茶店がたくさんある。たぶん、散策をするのに最高の街だからだ。観光客相手のわかりやすい立地の店から、江ノ電の線路をまたがないと入れないような店、古民家の庭先の「こんなところ入っていいのかな」と不安になるような場所でひっそり営業する店まで、それこそ無数に存在している。
会社を辞めるときに私が言い訳に使った友人も、鎌倉でカフェを開くのが夢だと言っていた。今もその夢が継続中なのかはわからないが、仮に彼女とお店を共同経営するとして……と、想像してみる。
まず、カフェ激戦区で新規開店して続けていくには、人一倍頑丈な心と健やかな身体が絶対に必要だ。でも、四年にわたる昼夜逆転のインドア生活で、私のメンタルはかなり弱っている。おまけに不摂生と運動不足で、確実に体力が足りない。
お店にまつわるのデザイン一式は、私が担当すれば経費削減になるんじゃないだろうか。カフェの責任者は彼女でも、私だって料理の腕にはまあまあ自信がある。
こうやって想像しているときが、一番楽しい。友人に連絡もしていないくせに、現実逃避の妄想ばかりがふくらんでいく。鎌倉で仕事をするなら、やっぱりお店だろうか。
たとえば、バーの店員にもあこがれる。でも私はお酒に強くないし、たばこの煙がとにかく苦手だ。
飲食店でないなら……手芸が好きだし、手作りの小物を売る雑貨屋さんもいいな。大学時代に突然、ハワイアンパッチワークにハマったことがあった。途中でピタッとマイブームが去ってしまったから、今も使っていない布地や糸がいっぱい残っているはずだ。あれは、どこに置いただろう。引っ越しのときに下宿先だった叔母の家から持ちだしたような気がするから、段ボールにつめて部屋のどこかにあるとは思う。ああ、そういえば、綺麗な色で絵つけをするアイシングクッキーに凝ったこともあった。そっちは会社の先輩同士の結婚パーティの引き出物に使ってもらって、みんなから褒められた記憶がある。それからすっかりクッキーづくりにハマってしまって、やたら焼いては配り歩いた時期もあったっけ。
でも、自分のことは自分が誰よりよく知っている。
お店が出せるほどの実力なんて私にはない。
私はほどほど手先が器用なだけの素人で、どんなものも無難にこなせるけれど、それが皆を惹きつける個性になったり、客寄せの材料になったりするプロではない。デザイナーとしてパッとしなかったのも、それが理由だ。
いつか特別な存在になりたいと思っていても、それを人前で堂々と宣言できるほどは、自分に自信がない。プライドは人一倍高いくせに臆病で、心の奥には劣等感が渦巻いていたりする。我ながら、すごく面倒くさい性格だ。
そんなことをつらつら考えながら歩いていたら、ショルダーバッグの中でスマホが震えて着信を知らせてきた。画面に〝おかあさん〟の表示が出ている。
「……なに?」
スワイプして通話を始めると、早口で高めの声が耳元に響いてきた。
『ナニじゃないでしょ、まずはあいさつでしょ? おはよう、潤香!』
「はいはい。おはよー、おかあさん」
『ちょっと、もー。つれないわねっ』
母親が呆れたようにため息をついた。相変わらず、この人はいつでもどこでも、やたらと元気だ。そして、まあどこの家でもそうだと思うけれど、実の親への電話対応は、だいたい雑になるものだ。私も外面はいいほうだが、母親相手には地が出てしまう。
「で、なによ?」
『あ、ほら、ねえ。名古屋の姉さんとこの亜由美ちゃん、覚えてる? 今度、結婚するんですって!』
「へー、それはおめでとうだねー」
亜由美ちゃんは母方の従姉妹だ。小さい頃はよく遊んだが、私が大学進学で上京してしまってからは、かれこれ数年会っていない。
『二十代で結婚するって、いつだったかのお正月にあの子、宣言してたのよねー。で、そのとおりになったわけよ』
「亜由美ちゃんて、いくつだっけ?」
『二十九。ギリギリ滑りこみだって、笑ってたわ』
そんなになるのか……と思ってから、私は軽く頭を振った。
私だってもう二十六歳だ。少し年上のお姉ちゃんだった亜由美ちゃんが、二十九歳なのは当然のことで、何も驚くようなことじゃない。
「……ふーん。有言実行か、すごいね」
『ふーん、て。潤香は、亜由美ちゃんの相手がどんな人とか、気にならないの?』
「べつに。たぶんいい人なんでしょ」
そっけなく答えたので、そりゃそうだけど、と母は不満げだ。
『――あ、ねえ、あなたはどうなのよ』
「どうって?」
『だからー。この先、どうするの?』
母の声のトーンが落ちる。探られるように言われて、こちらの気持ちもしゅるしゅるとしぼんでしまう。
「どうするって……」
だいたい「この先」って何だろう。彼氏とか結婚の話? それとも次の仕事の話? どっちにしろ私の「この先」は、今はノープランで、そこをツッコまれても答えようがない。
「……ごめん、ちょっと。今はそんな気分じゃないし、時間ない」
『え、具合悪いの? どうしたの。今どこ? 病院?』
「なんで病院なの、違うよ。電池切れそうだから、もうおしまいね。またね!」
『ちょっと、潤香』
まだ何か言いたそうな母親の声をさえぎって、私は強引に通話を切った。
「あーーーーー、もうっ」
ショルダーの外ポケットにスマホを投げ入れてから、心のモヤモヤを追い出すように、声をあげてみる。
だいたい、母からの電話はいつもタイミングが悪い。精神的にヘコんでいるとき、急ぎの電話連絡を待っているとき、そうでなければ打ち合わせの最中、はたまた電車移動中、工事現場の側道を歩いているとき、スマホの電池切れ直前、などなど。
たぶん娘が弱っていたりピンチに陥っていたりすると、そのマイナス電波が母のアンテナに引っかかってくるんだろう。それでいつも、いきなり微妙すぎるタイミングで電話をかけてくる。母親パワー恐るべしだ。
実際、母の勘は鋭くて、私が真剣に助けを求めているとき、幾度となくタイムリーな救い手になってくれるのも間違いなく、この母なのだ。
……でも、今日はごめん。
まだ、背中を押してほしいタイミングじゃない。次の行動に移るにしても、私にはまだ準備が足りない。簡単に言うと、すっかり疲れてしまったのだ。心のバネが伸びきっていて、次のジャンプに移れない。だから今はまずバネをよく拭いて、ぎゅっと丸めてジャンプの準備をする時間がほしい。
しばらく、そっとしておいてほしい。