平日の昼間から散歩のできる私、竹林潤香は二十六歳。
住まいは海のすぐ近く――ここ、鎌倉だ。
出身は静岡の内陸部で、富士山が目の前にある。大学生の弟は関西方面の大学に進学して、実家には父と母と、マルチーズ二匹が暮らしている。
私は神奈川の大学に通っていたときと、それから就職して二年目までは、子どものいない叔母夫婦の家に下宿させてもらっていた。
わりあい年が近く昔から仲よくしていた叔母の家は快適だったが、デザインの仕事が本格的に増えてきたところで、私は鎌倉に引っ越すことに決めた。昔から海辺のレトロな街にあこがれがあったし、勤務時間が変則的になったことで、叔母夫婦の生活時間を乱してしまう気がしたからだ。
それから約二年、私は鎌倉でひとり暮らしをしている。
仕事場は横浜市内のデザイン事務所で、鎌倉から通うには多少遠いが、私はわりとこの環境を気に入っていた。でも、それも昨日までのこと。
もともと私の職場は、横浜にある取引先への対応に特化したチームだった。でも、長い不況でじわじわと業績が下がって、単独での維持がいよいよ難しくなり、去年の秋には東京本部との統合が発表された。
そこで私は、やんわりとリストラの対象になったのだ。
「竹林サン、まだ若いもんね。転職するにしても独立するにしても、ちょうどいいタイミングかもしれない」
部長の言葉の裏に、即戦力としてはちょっと足りないという意味があることぐらい、鈍い私にだってわかっていた。
その証拠に「なんなら転職活動、協力するよ」なんて軽口をたたいていた部長は、とうとう私に何の仕事もあっせんしてはくれなかった。期待していたわけじゃないけれど、ここまで放置されるとさすがにヘコむ。
これまでずっと、真面目に丁寧に仕事をしてきたつもりだったのに、フタを開けてみれば、私は誰からも必要とされていない。その厳粛な事実を、容赦なく目の前に突きつけられたような気がした。
私のほかにも今回の統合で、二十代のスタッフが五人辞めることになっていた。その中で、退職日まで次の仕事のあてがないのは私だけだ。同じく早期退職を決めた三十代デザイナーふたりのうち、ひとりは他社へ引き抜かれ、もうひとりは同業の友人と仕事場を借りて、独立するのだと言っていた。
本当は必死に交渉すれば、東京本部に移籍くらいはできたかもしれない。でも、都内に引っ越す経済的な余裕も、鎌倉から片道一時間半はかかりそうな長時間通勤に耐える体力も気力も、私にはなかった。
なにより、本部のある丸の内のオフィス街は、綺麗だけどちょっと怖い。入社式のときと、会議に出席する上司のアシスタントとしてついて行ったときの記憶したないけれど、建物もそこにいる人も、デザイン的に洗練されすぎている。それに、花形デザイナーが揃っている本部では、私程度の実力ではデザイナーとして使いようがないだろう。
でも私は自分が即戦力でないことを、同僚の前では認めたくなかった。だから他の退職メンバーのまねをして「親しい友人と一緒に仕事をすることになった」という理由をでっちあげ、早期退職の締め切り直前に、思いきって辞表を出した。
実は大学時代の友人で、そろそろ独立して店を持ちたいと言っている子は実際にいるのだ。
安田あかねという名の、同じゼミだった子だ。彼女はすでに飲食店へ修行に入っていて、ダブルワークでせっせと開業資金を貯めているのだと仲間内の噂で聞いた。ただそれだけだ。つまり開業に向けて、私から具体的に何か働きかけたわけではない。それどころか電話もメールもしていない。こちらが一方的に彼女を架空のパートナーに設定してみただけ。
知らないうちに共同経営者にでっちあげられてたなんて、本人が聞いたらさぞびっくりするだろう。
そんな嘘だらけの独立話でも、私から説明を受けた部長は、内心ホッとしているようにだった。転職活動に協力する必要がなくなって、開放的な気持ちになっていたのかもしれない。
「何をやるか具体的には決まってないって、どういうこと? あっもしかして、はやりの自分探しってやつ?」
夕べの合同送別会でも、「ま、がんばれよ」なんて、あっさり笑っていた。
たいして役にも立たない、辞めてもいくらでも代わりがいるような私の退職を、心から惜しんでくれる人なんて、誰もいなかった。
――くやしいけど、これが現実なんだ。