その時、わたしの心になにかが引っかかった。

凪はゆきさんの旦那さんの手紙の思いを読んだ。
ということは……もうなにかを忘れてしまったってこと?

「おじいちゃん、凪、なにか忘れてしまったの?」

わたしの言葉に、おじいちゃんは一瞬悲しげな顔をした。
でもできるだけ、なんでもないことを言うようにおじいちゃんは語った。

「ああ、そうだね。でも、今回はまだよかったんだ。忘れたのは人間じゃないから」

「人間じゃない?」

「ああ。凪がかわいがっていた野良猫を知っているよね?」

その言葉にわたしは衝撃を受けた。

「……ぶっちー?」

「ああ、そうだ。そのぶっちーのことを凪はすっかり忘れてしまったんだ」

嘘でしょう? あんなにかわいがっていたのに?
わたしがやきもちを焼いてしまうくらい、気にかけて面倒をみてあげていたのに?

「いつも夕飯を出してやる時間になっても、なんの準備もしないから。珍しいと思って聞いたんだ。『猫のご飯はいいのかい?』って」

心なしか、おじいちゃんは続きを話す前に少し震えた。その時の衝撃を思い出したんだろう。

「そしたら、凪は本当になんのことかわからないって顔をしたんだ。わたしが『ぶっちーがお腹すかしてるんじゃないのか?』って言ったら、『おじいちゃん、大丈夫? 僕たちふたり家族だよ』って逆に心配されたよ」

わたしは全身に鳥肌が立つようだった。
おじいちゃんの話を聞いているだけでも、十分怖かったけれど、本当に凪がぶっちーの存在すら覚えていないのだとしたら、それはもう恐怖でしかなかった。

「誰かとの関係っていうのは、積み重ねてきた記憶でできてるんだ。泣いたり笑ったり、いいことも悪いことも全部共に過ごしたって事実が絆を作るし、自分がなにかをどれくらい大切にして思いを与えてきたという記憶が愛情を強固にしていく。でも、その記憶をなくしたら、愛情もゼロになる。しかも、忘れた凪は自分がどれほどそれを大事にしていたかすらわからない。まず、存在を知るところから始めなくちゃいけない。記憶をなくすってことは本当に、とてもとても残酷な恐ろしいことだよ」

途端に凪が儚(はかな)い存在のように思えた。
いつも穏やかに笑っている凪の足元が、実はもろくか弱いということを知って、わたしは大きな不安に包まれた。