ダメだ。

彼が出ていったあとも、私はしばらく、呆然と洗面所に佇んでいた。

あれ…私が変なの? べつに、なんでも一番先に知りたいと言っているわけじゃない。でも、公の通達よりは先に知っていたい。知る権利もある、と思う…。

それって、こんなに伝わらないほど、おかしいこと?

震えるほど怖い。

これだけずれがあっても、久人さんが、まったく冷たくないことが。

私の欲しがっているものを、理解すらできないみたいなのに、変わらず優しく、暖かく、包み込んでくれていることが。

久人さん。

私は、あなたの、なんですか…?


* * *


樹生さんが予約してくれたのは、落ち着きすぎず、程よく賑わいのあるダイニングバーだった。店内はダークなライティングで、私はさっそく、入ってすぐの段差を踏み外しそうになった。


「おっと」


まるで読んでいたかのように、久人さんが腕を取り、支えてくれる。


「す、すみません。ありがとうございます」

「やると思ったー」


あはは、と笑う顔には、一点の曇りもない。数日前の、私とのやりとりなんて、彼の中ではただの問い合わせと返答くらいの認識なのかもしれない。

あれから久人さんの離脱が社内に告知されると、『一緒に辞めちゃうんですか?』と私は方々から尋ねられた。

久人さんとセットのように思ってもらえるのは嬉しくもあり、だけど『いいえ』と答えるたび、久人さんとの会話を思い出し、気が滅入った。

今日もファームには顔を見せなかった彼は、『あのバーは入り口がわかりにくいから』と言って、わざわざ私と駅で待ち合わせてくれた。

その優しさは、あるのに。


「久人、桃子ちゃん、こっち」


奥のゆったりとしたテーブル席から、樹生さんが手を振っている。久人さんも手を振り返し、私の手を引いてそちらへ向かった。