「今のファームを辞められるというのは、本当ですか?」

「あれっ、聞いたんだ」


久人さんは革靴をシューズボックスに入れると、一度書斎に消え、鞄と上着を置いてまた廊下に出てきた。そのまま洗面所に入る。


「会社で噂になっていて…」

「そっか、早かったな。じゃあ明日にでも通達を出したほうがいいね。桃、次原と書面の準備をしてくれる?」


ワイシャツの袖をまくり、石けんで手を洗いながら、彼は私に微笑みかけた。


「はい、それはもちろん」

「助かる、ありがと」


それ以上、彼のほうから言葉はなかった。


「あの、久人さん」

「ん?」

「なぜ、私には、そのお話が知らされていなかったんでしょうか…」


言いながら、なんてみじめな台詞だろうと思った。久人さんが「え?」とまったく悪気のない表情で驚いてみせたので、ますますみじめになった。


「社内に告知するタイミングで、言おうと思ってたよ」

「でも一応、秘書ですし、事前に教えていただければ、お手伝いも…」

「桃は、あくまでファームに帰属する秘書だからさ。俺の専属っていうなら、当然もっと早く教えたと思うけど、そうはいかないじゃない?」


あまりに、予想と違う受け答えが返ってきたので、私は混乱し、次に聞くべきことを忘れてしまった。えっと、ええっと…。


「その、お義父さまの会社に入られるんですよね? でしたら、プライベートのほうでも、無関係ではないと思うんです」


久人さんはネクタイをクリーニングに出すことにしたらしい。ここでほどき、収納の中にあるクリーニングボックスの中にぽいと入れた。

それから、しつこい私に気を悪くした様子もなく、いつもの笑顔を浮かべる。


「うん、だからそれも、そのうち言おうと思ってたよ?」