デスクについた久人さんは、出先でのメモなどに使うPCを鞄から取り出し、なにか打っている。数種類の仕事をしている彼は、決して連携させてはいけない機密情報が混ざるのを防ぐため、会社のPCは持ち歩かない。

私はその様子を見守りながら、声をかけるタイミングをはかった。


「退職の時期を遅らせるんですか?」

「そうだな、それも視野に入れてる」

「突然、なぜ」


しつこい私に閉口したのか、久人さんが苦笑し、手を止める。


「桃も感じたと思うけど、見合いからこっち、本当に急ぎ足で、やっぱりあちこちに弊害が出てる。しこりを残していきたくないんだ。だから少し落ち着いて準備をすることにした」


彼の目の奥に、なにかを偽っている色はない。

そのことが悲しかった。こうやって無自覚に、自分も周りも納得する理屈を見つけて、軌道修正してしまう人なんだ。

ねえ久人さん、その考えも嘘ではないでしょうけれど、本音のすべてではないですよね。

商社に行く必要がなくなるかもしれない。

あなたはその可能性を、考えているんですよね。

久人さんがおさまるはずだったポジションには、お義父さまたちの本当の息子さんが立つ。つまり自分は不要になると、そう思っているんですよね。

正面から尋ねたところで、「それはまだわからないよ」とか、そういう曖昧な返事しか来ないに違いない。久人さんの思考は、考えられない部分をごく自然に迂回する。


「そう、ですか…」

「今後のスケジュールの入れかたも変わってくるから、あとでイメージを共有するね。ごめん、言うのが遅れて」

「いえ」


私は身体の前で組み合わせた手を、ぎゅっと握った。


「お話をお待ちしております」

「うん」


久人さんの笑顔には、なんの曇りもない。私ばかりが痛くて、悲しくて、泣きたい気持ちに駆られたけれど。

泣いても、涙の理由がわからなくて久人さんが困るだけ、ということもわかっていた。