そう思ってから、そんなはずないな、と心の中で自分の考えを否定する。

だって、この前会ったとき、彼は歌っていた。

今にも消えてしまいそうなほど微かで儚い声だったけれど、わたしが今まで聞いた中でいちばん優しい歌。

思い出すだけで心がやわらかく解きほぐされるような歌声。

だから、天音はきっと声が出せないわけではないんだと思う。

なにか他の理由があって、彼は言葉を話さないのだ。

それが気にならないと言ったら嘘になるけれど、知らなくてもいいことだと思った。

そんな目に見えない理由よりも、今目の前にいる彼自身の瞳や表情のほうがずっと大事だ。

わたしはまっすぐに天音を見て、小さく微笑んで言う。

「名字、芹澤って言うんだね。わたしの名字はね……」

名乗ろうと思ったわたしの言葉の途中で、彼はペンをとった。

『ひろせ』

と書かれた文字を見て、わたしは目を丸くする。

「そう、広瀬。よく分かったね」

すると彼はまたペンを動かす。

『この前教えてくれた』

「ああ、そうか。名字まで覚えててくれたんだ。なんか嬉しいな」

『当然』

「そう?」

『衝撃の出会いだったから』

「衝撃?」

首を傾げると、天音は少しいたずらっぽく笑って、長い指を自分の目から頬へと滑らせた。

涙を流す様子を表しているのだと気づいて、頬が赤くなる。

「あ、そっか、泣いてたから……」

彼は唇を笑みの形にして、『号泣』と書いた。

わたしは思わずいじけたように言葉を返す。

「号泣って……まあ、確かにそうだったかも……。でも、天音だって泣いてたじゃん」

すると彼はまた何か書いてから、目を細めてわたしを見た。