まだ見ぬ春も、君のとなりで笑っていたい

わたしはぽかんと口を開いたまま彼を見つめた。

「がん、ばれ」

そう言って、天音は喉から手を話すと、嬉しそうに、何かから解放されたように、ふわりと微笑んだ。

冷たい冷たい雪が、温かい春の陽射しを浴びて、じわりと溶けていくように。

「――天音。声……」

彼が目を細めてわたしに頷きかけた。

その顔を見た瞬間、わたしの目からぶわっと涙が溢れ出してきた。

「よ……よかったね、天音……」

わたしは両手で顔を覆って、うめくように言う。

びっくりしすぎて、震えはすっかり止まっていた。

天音がくすりと笑って、わたしの頭にぽん、と手を置いた。そこから力が注ぎ込まれてくるような感覚。

よし、弾ける。弾こう。

わたしは前に向き直って、鍵盤に手を置いた。

ひとつめの音を鳴らした途端、ふっと肩が軽くなる。あんなに緊張していたのに、弾き始めてしまえば、身体が覚えているように指が勝手に動いていく。

やっぱり綺麗なメロディだな、とうっとりする。

曲の真ん中あたりまで来たとき、突然、天音がわたしの隣に腰を下ろした。長い指がすっと鍵盤に伸びてくる。

驚いているうちに、彼がわたしと同じ旋律を弾き始めた。

パッヘルベルのカノンは、同じ旋律が追いかけっこをするようにどんどん重なっていき、美しいハーモニーを奏でる曲だ。いくつものメロディが合わさってできあがる奇跡の調和なので、ピアノで弾くときは、独奏よりも連弾のほうがずっと綺麗に聴こえる。

天音はわたしが独奏用の演奏をするのに合わせて、高音と低音をうまく補うようにメロディを重ねてくれる。

夢のように美しい音の波に身を委ねていると、ふいにピアノとは違う音が耳に忍び込んできた。

隣に目を向ける。――天音が歌っていた。

唇を薄く開けて、目を閉じ、睫毛をかすかに揺らしながら、歌っている。

細いけれど、ピアノの音にも決してかき消されない、よく通る声。

そっと柔らかく肌を濡らす霧雨のような、穏やかに降り注ぐ春の木洩れ陽のような、優しい優しい歌声。

きっと天使の歌声ってこういう声なんだろうな、と思った。

久しぶりに声を出したからか、時々かすれてしまうけれど、天音はとても幸せそうに微笑みながら歌っている。

よかったね、と心の中で語りかける。大好きな歌とピアノにもう一度ちゃんと出会えてよかったね。

また涙が込み上げてくる。

こらえるために、わたしは上を向いた。

渦を巻くようにして天へと昇っていくような、完璧な音楽。

震えがくるほど綺麗で、わたしは目を閉じて、天から降り注ぐ音の雨を全身に浴びた。

春の陽射しような優しく美しい音の向こうに、まばゆい光が見えた気がした。

わたしたちの未来を明るく柔らかく照らし出してくれる、希望の光。




冬枯れの桜の木の上から、枝の隙間を縫うように降り注ぐ光が、わたしと天音の全身を包み込むように照らしている。

冬の陽射しは透明で静かで優しい。

演奏を終えたわたしたちは、あかりさんに断って店を抜け出し、出会った公園に来ていた。

「なつかしい」

天音が今にも消えそうなかすれて声で言った。急に声を取り戻して、いきなり歌ったせいで、喉に負担がかかっているんだろうと思う。

「いきなりたくさんしゃべったら、喉痛めちゃうよ。筆談にしよう」

天音がにこりと笑ってノートとペンを取り出した。

『声が出るようになったら、筆談よりたくさん話せるから、遥とたくさんしゃべれるようになると思ったけど、今はまだ書いたほうが早い』

「そりゃあね、何年もだんまり決め込んでたんだから、急にぺらぺらはしゃべれないでしょ」

わたしの言葉に、ははっと天音が笑う。

『最近遥が毒舌だ』

「本当はわたし、心の中では毒ばっかり吐いてたから」

口には出さないだけで、家族に対しても友達に対しても、嫌なことをたくさん思っていた。

「でも、毒って溜め込むとよくないらしいし、適度に吐き出していこうかなと。まあ、そう言いつつも家族の前でも友達の前でもやっぱりいい顔しちゃうんだけどね」

『じゃあ、僕の前でだけ?』

「まあ、今のところは」

わたしが苦笑しながら頷くと、天音はふふっと笑みを洩らして、『嬉しい』と書いた。

衝撃と動揺で固まってしまったわたしをよそに、天音がふいに真面目な顔になって、ペンを動かし始めた。

『最初に会ったとき、僕が歌ってたの覚えてる?』

わたしはまだ動揺から抜け出せないまま、こくりと頷いた。

実はずっと気になっていたのだ。何年も前から声が出なかったはずなのに、あのときはどうして歌ったいたのだろう、と。

『この公園は、翔希が怪我をした公園なんだ』

わたしは驚きに目を見開いた。

「え……、そっか、そうだったんだ……」

『僕は定期的にここに来ることにしていた。自分の罪を忘れないために』

天音はゆっくりと瞬きをしながら書き続ける。

『でも、あの日、木の上から、子どもみたいに大声で泣いてる遥を見て、あんまり悲しそうだから、慰めたくなった』

誰もいないと思って遠慮なく泣きじゃくる姿を、上からずっと見られていたのかと思うと、今さらながらに恥ずかしくなってきた。

『どうやったら泣き止んでくれるかな、少しでも悲しみを忘れさせてあげられるかな、って必死に考えて、気がついたら歌ってたんだよ』

わたしは言葉もなく天音を見つめる。彼はちらりと顔を上げてわたしに微笑んでから、また下を向いた。

『再会した日に、あかりさんの店でピアノを弾けたのも、遥が演奏を頼まれて震えてたから助けたくなって、だから弾けた。今日の演奏会もそうだよ』

頭上から降り注ぐ光が、天音のノートを、そこに書かれていく文字を明るく照らし出す。

『遥には特別な力があるみたいだ』

「特別……」

思わず読み上げると、天音が頷いてくれた。

特別、という言葉を人からかけてもらったのは、初めてだった。自分のことをずっと平凡でつまらない人間だと思っていたから、彼に特別だと言ってもらえたことが、泣きそうなほど嬉しい。

『僕は遥のおかげで少しずつ前を向けるようになってる気がする。遥は僕にとってすごく特別だよ』

そこまで書くと、天音はペンを置いた。

そしてこちらを向き、雪解け水のような透明な笑みを浮かべた。

「ありがとう」

初めて会ったとき、わたしの涙を乾かしてくれた、優しい声。

わたしは両手で顔を覆って、溢れる涙を拭う。

「わたしこそありがとう。わたしにとっても天音は特別だよ」

そう伝えようとしたけれど、涙に滲んだ声ではひとつも言葉を紡げなくて、

「やっぱり、なきむし」

と天音に笑われてしまった。おかしくなって、わたしも涙を流しながら笑う。

わたしにとって、天音は特別だ。

今まででいちばん悲しくて苦しくて、もうどうしようもなくなっていたときに、わたしを救って癒してくれた。

そしてわたしは天音に出会って初めて、誰かのことを救いたい、少しでも力になりたい、そのためなら自分にできることはなんでもする、と心から思えた。

生きていたら、わたしたちはこれからも何度も苦しい思いをしたり悲しいことを経験したりするだろう。自分の力ではどうにもからないことにも出会うだろう。

進路のことだってまだあいまいで、これからたくさんたくさん悩むことになるだろうと思う。

でも、そのときには、わたしの隣にもしも天音がいてくれたら、きっと乗り越えられるような気がした。

そして、天音が苦しんでいるときには、わたしが隣にいてあげたい。できる限りのことをしてあげたい。

ふたり肩を寄せ合って、もしもどちらかがよろけてしまっても、すぐに支えてあげられるように、いつも隣を歩いていたい。

わたしは生まれて初めて、そういうふうに思える人と出会えたのだ。

わたしたちはそうやって、少しずつゆっくりと、まばゆい希望の光が射すほうへと歩んでいくだろう。


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