「あー、うん、行きたいけど、今日放課後に進路面談で呼び出されてて」
「あっ、そうなの? また?」
「うん……まだ志望が決まってないから」
「そっかあ。あの先生しつこいらしいもんね、がんば」
「うん、がんばる」
「てか、志望なんて適当に書いちゃえばいいのに」
「うん、そうなんだけどね。でも、そろそろ本気で考えなきゃいけないし」
「真面目だねえ」
香奈が感心したように言ったけれど、そんな偉いもんじゃないよ、と心の中で返す。
みんなが当たり前のように決めていることを決められずにいるから、せめて真面目に考えようと思っているだけだ。
「てか、面談終わるまで待ってようか? それから一緒に行こうよ」
「えっ、それは悪いからいいよ! どれくらい時間かかるか分かんないし」
「そっか、じゃあ、まあ仕方ないね」
香奈はあっさりと笑って、菜々美と話しながら廊下を歩いていく。
その後ろを追ってゆっくりと歩き出したとき、横にいた遠子が「遥」と小さな声でわたしを呼んだ。
「ん?」
「あのね……なんか、大丈夫?」
唐突に問われて、わたしは目を丸くした。
遠子はどこか心配そうな顔でわたしを見ている。
「もし違ってたらごめんね。遥、最近なんか悩んでたりしない?」
なんで? と訊ね返したけれど、うまく声にならなかった。
「うん……なんか、ちょっと、いつもと違うような気がして。いつも通り笑顔だし明るいけど、ちょっと、なんか空元気みたいな感じがして……」
うまく振る舞っているつもりだったのに、遠子に見抜かれていたことに気まずさを覚える。
「香奈たちも心配してたよ。元気ないねって。だから今日、遊びに誘ったんじゃないかな」
まさか香奈と菜々美にまでばれていたなんて。わたしの空元気はそんなに下手だったのか、と恥ずかしくなってきた。
「私なんかじゃ力になれないとは思うけど……もし悩んでたりつらいことがあるなら、いつでも言ってね」
遠子が控えめな口調で囁いてくる。
わたしは笑みを浮かべて「ありがと」と返した。
「でも、大丈夫。ちょっと色々……進路のこととか、考えてたせいで、夜あんまり寝れなかったりして。それで昼間眠かったりしていつもと違うように見えるのかも。全然大丈夫だよ」
言葉がするすると流れ出してくる。
誰かに弱音を吐くのも、心配されるのも苦手だ。だから、なんとかごまかしたかった。
遠子は、それに気づいているのかいないのか、にっこり笑って「そっか」と頷く。
「それならいいんだけど。私いつも遥に助けてもらってるから、たまには遥の力になりたいなって思ってるの。だから、もし何かあったら言ってね」
遠子がそんなふうに思ってくれていたなんて初めて聞いて、喉の奥がきゅっと絞られたようになった。
わたしはかすれた声で、また「ありがと」と囁き返した。
*
その日の放課後、進路面談ではやっぱりいつものようにたくさん厳しいことを言われた。天音のことで落ち込んでいる上に、一時間近くもお説教されて、さらに気落ちしてしまった。
でも、教室に戻ると、なんと遠子たちが揃ってわたしを待ってくれていた。おかげで少し浮上して、みんなで遊びに行っておしゃべりしているうちに、嫌な気分が薄れていった。
でも、久しぶりに軽い足取りで電車を降りて家路についたとき、喫茶あかりに続く道が目に入ってしまった。途端に、まだずぶずぶと心が沈んでいく。
ふうっとため息をついて、まるで癖のように、どうすれば天音に許してもらえるか、何をすればいいかを考え始める。
でも、本当は答えなんて分かりきっていた。とにかく謝るしかないのだ。それは分かっているけれど、どうやって謝ればいいか分からない。どうやれば会ってもらえるのかも分からない。
連絡しても返事をくれないということは、わたしと会いたくないということだ。そんなふうに思われている相手にぶつかっていく勇気は、わたしにはなかった。
再び天音のことを考えて暗く沈んでいたところに追い討ちをかけるように、帰宅した瞬間にお母さんからの小言が始まった。
「ちょっと遥、遅かったわね。また寄り道してたの? ほんっとお気楽ねえ。さっき先生から電話があったわよ。進路のこと、まだぐずぐずしてるんですって? 一人では決められないようだから冬休みの間にご家族で話し合ってくださいって言われちゃったわよ。もうお母さん情けなくって! お兄ちゃんは私たちがなんにも言わなくても自分で考えて自分の目標を決められたのに、どうして遥はだめなのかしら。悠の妹とは思えないわ」
まだ玄関で靴を脱いでもいないわたしに、お母さんは怒濤のようにたたみかけてきた。早口すぎる言葉は、きんきんうるさいのに耳に入ってこずにどんどん通り抜けていく。
「お母さんは仕事があって忙しいって分かってるでしょうに、あんたはどうしてそう面倒をかけてくるのかしらね。少しはお母さんの身にもなってよ」
「……ごめんなさい。自分で考えて決めるから……」
「そんなこと言って、またどうせ決められないんでしょ? そしたらお母さんまで先生に呆れられちゃうじゃないの。しょうがないから一緒に考えてあげるわよ」
お母さんは心底呆れた顔つきで言った。
苛立ちを隠しきれない眼差しに、身体が固くなる。わたしはうつむいて、次々と飛んでくる矢のような言葉に耐えた。
「全く、どうして自分のことも自分で決められないんだか……そんなふうに育てたつもりはないんだけどね。どこで間違っちゃったのかしら。困ったわね、はあ……」
これみよがしに大きなため息が聞こえてきて、ぐさりと胸に突き刺さった。
わたしだって自分で決めたい。でも、どうやったら決められるか分からないのだ。
みんなが当たり前のようにできていることをできないわたしは、とんでもない欠陥品なんだろう。お母さんだってそう思っている、そういう顔をしている。
こんなんなら、わたしここにいる意味ないな。そう思った。
わたしは決してお母さんの期待には応えられないし、お兄ちゃんさえいればお母さんは満足だろう。むしろいないほうが仕事の邪魔をされずにすんで清々するに違いない。
わたしは存在価値も存在意義とない。本当に生きている意味ない。
お母さんが小言を言いながらリビングに入ったので、わたしも後を追う。
自分の部屋に逃げたかったけれど、そんなことをしたらどうなるか、考えただけで恐ろしい。
「あのね、お母さん別に、怒りたくて怒ってるわけじゃないのよ? 遥のためを思って言ってるの。夢っていいものよ、夢があるだけで人生に張りが出るの。夢がないと生き甲斐もなくて、ただ毎日をやり過ごすだけのつまらない人間になっちゃうのよ。目標がある人はきらきら輝いてるわ、目を見れば分かる。夢がない人の目は曇ってるのよ」
それなら、わたしの目はどんよりと重苦しい灰色をしているだろう。だから、こんなに世界が暗く見えるのだろうか。
「お母さん、夢がない人は嫌いだわ。やりたいことがないって、つまり怠慢でしょ。自分探しを怠って、ただぼーっと生きてきたのが目に見えてる。くだらない人間よ。趣味も目標もない人生なんて、何が楽しくて生きてるか分からないじゃない。そんな貧困な精神の持ち主にはなって欲しくないわね」
お母さんは、わたしみたいな人間は大嫌いってことでしょ。それは分かってる。分かってるから、もう言わないで欲しい。
「お兄ちゃんを見てごらんなさい。小さい頃からしっかりした夢を持って、ちゃんと目標を立てて自分で努力して、どんどん夢に近づいてるのよ。どこに出したって恥ずかしくないわ。遥にもあんなふうになっねほしいのよ、お兄ちゃんを見習いなさい」
お兄ちゃんの話は聞き飽きた。どうせわたしはお兄ちゃんの妹とは思えないだめな人間だ。
でも、どうして家に帰ってきてまで、毎日こんなに居心地の悪い思いしないといけないの。ああもう、嫌だ……。
「――いい加減にしないか」
突然、後ろから声がした。わたしとお母さんはびっくりして同時に振り向く。
廊下に立ってこちらを見ているのは、いつの間に帰ってきたのか、お父さんだった。
「母さん、言い過ぎだよ」
お父さんが通勤鞄を床に置きネクタイを緩めながら、お母さんをまっすぐに見据えて低く言った。
「つまらないとかくだらないとか貧困とか……そんなことを言われて遥がどう思うか、少し考えれば分かるだろう」
お父さんがお母さんに反論をするのを初めて見た。驚きのあまり、わたしは瞬きすら忘れてお父さんを凝視する。
お母さんは眉根を寄せて、くっと唇を噛んでから大きく息を吐いた。
「私は別に何も遥のこと言ってたわけじゃないわよ。一般論よ、一般論」
「それでも、遠回しに遥に対する批判になってるのは同じだろう」
「批判なんて! 自分の子どもに批判なんてするわけないじゃない。ただちょっと叱ってただけよ」
「頭ごなしに自分の意見を押しつけて相手の非をあげつらうことは、叱るとは言えないよ」
苛立ちをぶつけるようなお母さんの声に対して、お父さんの声は落ち着いていて冷静だった。
お父さんはこういう時こんなふうに話す人なのか、と驚いた。とても静かな口調だけれど、淡々としているからこそ相手に反論をさせないような、独特の強さがあった。
お父さんは無口でいつも穏やかに笑みを浮かべている人、というイメージだった。人をいさめたりするお父さんを見た記憶がない。
でも、もしかしたら会社で仕事をしているときも、部下の人をこういうふうに諭しているのかな、となんとなく思う。生まれた時から一緒に暮らしているのに、お父さんのことを本当の意味では見ていなかったのかもしれない。
「それに、悠と比べるのは遥に失礼だよ。悠は真面目でしっかり目標を持って頑張っていて偉いやつだ。遥は周りをよく見ていて気づかいができて、自分よりも他人を大事にできる本当に優しい子だよ。いくら兄妹っていったって、二人とも別々の人間なんだ。一面だけ見て比べてどうこう言うのはよくないよ」
お父さんの言葉を聞いているうちに、目頭が熱くなってきた。
あまり会話をしないお父さんが、それでもわたしを見てくれていて、そんな優しいことを言ってくれたのが嬉しかった。
お母さんは、お父さんが話している間ずっと唇を噛みながら聞いていて、しばらくするといきなり踵を返してリビングを飛び出していった。
その後ろ姿をしばらく見ていたお父さんが、今度はわたしに向き直る。
「ごめんな、遥。今まで何も言ってやれなくて。ずっと我慢していて苦しかっただろう」
お父さんの大きな手が、わたしの頭をゆっくりと撫でた。小さい頃を思い出して懐かしくなる。
「父さんは仕事でいつも帰りが遅くて、家のことは母さんに任せっぱなしになってしまっているから、母さんが言うことに父さんが文句をつけるのはいけないと思っていて、ずっと何も言えなかった」
お父さんが申し訳なさそうに言った。
「でも、さっきのはさすがに聞いていて耐えられなくなってな、思わず止めに入ってしまった。遥は、お母さんからいつもあんなことを言われていたのか? つらかっただろう、ごめんな」
お父さんの静かな声を聞いていると、ぽろりと涙がこぼれた。制服のシャツの袖でそれを拭う。
「母さんも悪気があるわけじゃないんだ……。遥のためを思っているっていうのは本当だよ。ただ、言い方がよくないよな。父さんからも言っておくから」
その言葉に、わたしは思わず首を振った。
「いい、大丈夫。それに、お母さんそんなこと言われたら傷つくだろうし……いいよ、わたしは平気だから」
わたしのことでお父さんとお母さんの空気が悪くなったりしたら嫌だ。
そう思って答えたけれど、お父さんは「よくないものはよくないから」と微笑んだ。
「母さんの言い方がきついのは申し訳なかったし、父さんからも言っておくけど、母さんの気持ちも少しだけ分かっていて欲しいんだ。母さんはね、学生の頃、家の事情で家事の手伝いばかりしていて、思うように勉強する時間がなくて、受験に失敗してしまって行きたい学校に行けなかったらしいんだ」
お母さんは母子家庭で育って家計が大変だったというのは知っていたけれど、勉強や受験のことは初めて聞いた話だったので、わたしは目を丸くして続きを待った。
「母さんは勉強が好きだったから、上の学校に行きたかったけど、だめだったって。そのせいで就きたい職業にも就けなくて、今でもそのことを後悔してるから、自分の子どもには絶対に同じ思いはさせたくないって、お前たちがまだ小さかった頃に言ってたよ」
「……そうだったんだ……」
わたしにとってお母さんは、何も悩んだことがない完璧な人間だった。だから出来の悪いわたしが許せないんだろうと思っていた。
でも、違ったんだ。わたしが見ていたのは、お母さんの一面に過ぎなかった。
お母さんは『お母さん』という存在だと思っていたけれど、本当は色んな過去があって色んなことを考えているひとりの人間なんだ。
それは、お父さんも同じ。お父さんも『お父さん』じゃなくて、ひとりの人間。
そんな当たり前のことに、今初めて気がついた。
「だからお母さんは、遥たちには夢を持って欲しい、努力してその夢を叶えて欲しいって思ってるんだ。でもな、遥。父さんは思うんだけど、将来の夢なんてそんなに大事なものじゃないよ」
えっ、と思わず声を上げた。予想もしなかった言葉だった。
お父さんは微笑みながら続ける。
「夢なんてものは、別になくてもいい。夢なんて見つからなくてもいいんだよ。みんながみんな夢を持って大人になるわけじゃないし、夢を叶えてその仕事をしてるわけじゃない」
わたしは唖然としてお父さんを見た。
「社会には色んな大人がいるけど、ほとんどの人が夢も希望もなくなんとなく働いてるよ。昔からやりたかった仕事をしてるとか、この仕事が自分の生き甲斐だと思ってる人は、少数派だ。ほとんどの人は、ただ生きていくためにお金を稼いでいるだけだ。まあ、父さんも正直そうだしな」
お父さんがいたずらっぽく笑って言う。
「今の仕事じゃないとだめ、なんてことは全然ない。家族四人が暮らしていけるお金が稼げるなら、どんな仕事でもいいと思ってるよ。仕事に生き甲斐なんか全然、これっぽっちも感じてない」
そこまで言い切られると、そういうものなのかという気がしてくる。
確かに、いくら夢を持っていたって、その夢を叶えられる人はほんの一握りだろう。それは分かっていた。だから、みんな仕方がなく、夢に破れて自分の希望とは違う仕事をしているのだと思っていた。
でも、どうやら違うらしい。もともと夢なんてなくて、なんの仕事でもいいと思っていて、生活のために働いている人がほとんど、ということか。
「どうして今の仕事をしているかって訊かれたら、就職試験を受けたら合格して採用してもらえたから、ってだけだよ。そして、耐えられないほど自分に向いていない仕事ってわけでもないし、今のところクビにもなってないから、幸いにも続けられてるってだけだ」
お父さんはおどけた調子で言って、おかしそうに笑った。こんなお父さんを見るのは初めてだった。