まだ見ぬ春も、君のとなりで笑っていたい



翌日から、天音と会えなくなった。

彼がわたしを置いて帰った日の夜、『今日はごめん』とメッセージが来た。

『遥が僕のために調べてくれたのは分かってる。それなのに、ごめん』

すぐに『わたしこそごめん』と送り返した。

『もうあの話はしないから。また明日あかりで待ってる』

早く仲直りをしないと取り返しのつかないことになると知っていたので、すぐに関係を修復したくてそう送ったけれど、彼からの返信はなかった。既読マークさえつかなかった。

もしかしたら寝てしまったのかもしれない、あとで返事が来るかもしれないと思って、翌日の学校でも一日中スマホを握りしめていたけれど、天音からのメッセージが入ることはなかった。

以来、ずっとそのままで、天音とは会うどころか連絡をとることさえできていない。

そんな状態で喫茶あかりに一人で行く気分にはどうしてもなれなくて、あかりさんに連絡して『しばらく行けません』と伝えた。

わたしが苦しくてつらくてたまらなかったときに助けてくれた彼に、何か恩返しがしたいと思ってとった行動だったのに、そのせいで大切な彼を失ってしまうなんて思いもしなかった。

毎日どうしようもなく気持ちが塞いで、食事もほとんど喉を通らない。

どうやったら天音に許してもらえるか、何をしたら前みたいに天音に笑いかけてもらえるか、そればかり考えていた。

学校では、みんなに気づかれないようにずっと気を張っていつも通りに振る舞っていたけれど、家に帰って自分の部屋に入ると、緊張の糸が切れて力尽きたように動けなくなる毎日だった。

そうしているうちに、あっという間に時間は過ぎて、冬休みも目前になっていた。


「やっと二学期終わるね。長かったー」

昼休みの始まり、自販機に向かいながら四人で歩いているとき、香奈が嬉しそうに言った。

「ほんとそれ。明日は終業式だけだし、あとは午後の授業二時間受けたら、もう冬休みみたいなもんだよね」

菜々美が同意すると、香奈が「だよねー」と頷いてから、「いいこと思いついた」と顔を輝かせた。

「ねえねえ、今日さ、放課後マックでも行かない? 冬休み前祝い!」

菜々美は「冬休みのお祝いって」とおかしそうに笑いながらも、「いいね」と答える。

「遥と遠子は予定どう?」

香奈に訊ねられて、遠子はこくりと頷いた。

「うん、行く」

すると菜々美が意外そうに目を丸くする。

「いいの? 彼方くんは? いつも帰り一生懸命じゃん」

遠子はぽっと顔を赤らめて「別にいつもじゃないよ」と恥ずかしそうに答えた。

「今日は美術部休みなんだけど、陸上部はやるみたいだから、どっちにしろ時間合わないし」

その答えに、香奈がにやにやと笑いながら、

「ふーん、彼氏がだめなら友達ってか。いいねーラブラブカップルは」

と嫌みを言ってみせる。遠子は「からかわないでよ」と情けない顔をした。

「それに、私別に香奈たちより彼方くん優先してるつもりないよ……。もしそう見えるなら、ごめん」

素直に謝られて、彼方は困ったように顔をしかめた。

「あたしだってそんなつもりで言ったわけじゃないよ。まあでもラブラブなのは羨ましいけどね。あーいいな、あたしも彼氏欲しー! 高校生らしいきらきらした恋したーい!」

突然の叫びに、遠子と菜々美が笑った。

それを見て、わたしも笑わなきゃ、と思ったけれど、うまく頬が動かない。

そんなわたしをちらりと見て、香奈か「遥は行けそう?」と首を傾げた。

「あー、うん、行きたいけど、今日放課後に進路面談で呼び出されてて」

「あっ、そうなの? また?」

「うん……まだ志望が決まってないから」

「そっかあ。あの先生しつこいらしいもんね、がんば」

「うん、がんばる」

「てか、志望なんて適当に書いちゃえばいいのに」

「うん、そうなんだけどね。でも、そろそろ本気で考えなきゃいけないし」

「真面目だねえ」

香奈が感心したように言ったけれど、そんな偉いもんじゃないよ、と心の中で返す。

みんなが当たり前のように決めていることを決められずにいるから、せめて真面目に考えようと思っているだけだ。

「てか、面談終わるまで待ってようか? それから一緒に行こうよ」

「えっ、それは悪いからいいよ! どれくらい時間かかるか分かんないし」

「そっか、じゃあ、まあ仕方ないね」

香奈はあっさりと笑って、菜々美と話しながら廊下を歩いていく。

その後ろを追ってゆっくりと歩き出したとき、横にいた遠子が「遥」と小さな声でわたしを呼んだ。

「ん?」

「あのね……なんか、大丈夫?」

唐突に問われて、わたしは目を丸くした。

遠子はどこか心配そうな顔でわたしを見ている。

「もし違ってたらごめんね。遥、最近なんか悩んでたりしない?」

なんで? と訊ね返したけれど、うまく声にならなかった。

「うん……なんか、ちょっと、いつもと違うような気がして。いつも通り笑顔だし明るいけど、ちょっと、なんか空元気みたいな感じがして……」

うまく振る舞っているつもりだったのに、遠子に見抜かれていたことに気まずさを覚える。

「香奈たちも心配してたよ。元気ないねって。だから今日、遊びに誘ったんじゃないかな」

まさか香奈と菜々美にまでばれていたなんて。わたしの空元気はそんなに下手だったのか、と恥ずかしくなってきた。

「私なんかじゃ力になれないとは思うけど……もし悩んでたりつらいことがあるなら、いつでも言ってね」

遠子が控えめな口調で囁いてくる。

わたしは笑みを浮かべて「ありがと」と返した。

「でも、大丈夫。ちょっと色々……進路のこととか、考えてたせいで、夜あんまり寝れなかったりして。それで昼間眠かったりしていつもと違うように見えるのかも。全然大丈夫だよ」

言葉がするすると流れ出してくる。

誰かに弱音を吐くのも、心配されるのも苦手だ。だから、なんとかごまかしたかった。

遠子は、それに気づいているのかいないのか、にっこり笑って「そっか」と頷く。

「それならいいんだけど。私いつも遥に助けてもらってるから、たまには遥の力になりたいなって思ってるの。だから、もし何かあったら言ってね」

遠子がそんなふうに思ってくれていたなんて初めて聞いて、喉の奥がきゅっと絞られたようになった。

わたしはかすれた声で、また「ありがと」と囁き返した。




その日の放課後、進路面談ではやっぱりいつものようにたくさん厳しいことを言われた。天音のことで落ち込んでいる上に、一時間近くもお説教されて、さらに気落ちしてしまった。

でも、教室に戻ると、なんと遠子たちが揃ってわたしを待ってくれていた。おかげで少し浮上して、みんなで遊びに行っておしゃべりしているうちに、嫌な気分が薄れていった。

でも、久しぶりに軽い足取りで電車を降りて家路についたとき、喫茶あかりに続く道が目に入ってしまった。途端に、まだずぶずぶと心が沈んでいく。

ふうっとため息をついて、まるで癖のように、どうすれば天音に許してもらえるか、何をすればいいかを考え始める。

でも、本当は答えなんて分かりきっていた。とにかく謝るしかないのだ。それは分かっているけれど、どうやって謝ればいいか分からない。どうやれば会ってもらえるのかも分からない。

連絡しても返事をくれないということは、わたしと会いたくないということだ。そんなふうに思われている相手にぶつかっていく勇気は、わたしにはなかった。

再び天音のことを考えて暗く沈んでいたところに追い討ちをかけるように、帰宅した瞬間にお母さんからの小言が始まった。

「ちょっと遥、遅かったわね。また寄り道してたの? ほんっとお気楽ねえ。さっき先生から電話があったわよ。進路のこと、まだぐずぐずしてるんですって? 一人では決められないようだから冬休みの間にご家族で話し合ってくださいって言われちゃったわよ。もうお母さん情けなくって! お兄ちゃんは私たちがなんにも言わなくても自分で考えて自分の目標を決められたのに、どうして遥はだめなのかしら。悠の妹とは思えないわ」

まだ玄関で靴を脱いでもいないわたしに、お母さんは怒濤のようにたたみかけてきた。早口すぎる言葉は、きんきんうるさいのに耳に入ってこずにどんどん通り抜けていく。

「お母さんは仕事があって忙しいって分かってるでしょうに、あんたはどうしてそう面倒をかけてくるのかしらね。少しはお母さんの身にもなってよ」

「……ごめんなさい。自分で考えて決めるから……」

「そんなこと言って、またどうせ決められないんでしょ? そしたらお母さんまで先生に呆れられちゃうじゃないの。しょうがないから一緒に考えてあげるわよ」

お母さんは心底呆れた顔つきで言った。

苛立ちを隠しきれない眼差しに、身体が固くなる。わたしはうつむいて、次々と飛んでくる矢のような言葉に耐えた。

「全く、どうして自分のことも自分で決められないんだか……そんなふうに育てたつもりはないんだけどね。どこで間違っちゃったのかしら。困ったわね、はあ……」

これみよがしに大きなため息が聞こえてきて、ぐさりと胸に突き刺さった。

わたしだって自分で決めたい。でも、どうやったら決められるか分からないのだ。

みんなが当たり前のようにできていることをできないわたしは、とんでもない欠陥品なんだろう。お母さんだってそう思っている、そういう顔をしている。

こんなんなら、わたしここにいる意味ないな。そう思った。

わたしは決してお母さんの期待には応えられないし、お兄ちゃんさえいればお母さんは満足だろう。むしろいないほうが仕事の邪魔をされずにすんで清々するに違いない。

わたしは存在価値も存在意義とない。本当に生きている意味ない。

お母さんが小言を言いながらリビングに入ったので、わたしも後を追う。

自分の部屋に逃げたかったけれど、そんなことをしたらどうなるか、考えただけで恐ろしい。

「あのね、お母さん別に、怒りたくて怒ってるわけじゃないのよ? 遥のためを思って言ってるの。夢っていいものよ、夢があるだけで人生に張りが出るの。夢がないと生き甲斐もなくて、ただ毎日をやり過ごすだけのつまらない人間になっちゃうのよ。目標がある人はきらきら輝いてるわ、目を見れば分かる。夢がない人の目は曇ってるのよ」

それなら、わたしの目はどんよりと重苦しい灰色をしているだろう。だから、こんなに世界が暗く見えるのだろうか。

「お母さん、夢がない人は嫌いだわ。やりたいことがないって、つまり怠慢でしょ。自分探しを怠って、ただぼーっと生きてきたのが目に見えてる。くだらない人間よ。趣味も目標もない人生なんて、何が楽しくて生きてるか分からないじゃない。そんな貧困な精神の持ち主にはなって欲しくないわね」

お母さんは、わたしみたいな人間は大嫌いってことでしょ。それは分かってる。分かってるから、もう言わないで欲しい。

「お兄ちゃんを見てごらんなさい。小さい頃からしっかりした夢を持って、ちゃんと目標を立てて自分で努力して、どんどん夢に近づいてるのよ。どこに出したって恥ずかしくないわ。遥にもあんなふうになっねほしいのよ、お兄ちゃんを見習いなさい」

お兄ちゃんの話は聞き飽きた。どうせわたしはお兄ちゃんの妹とは思えないだめな人間だ。

でも、どうして家に帰ってきてまで、毎日こんなに居心地の悪い思いしないといけないの。ああもう、嫌だ……。

「――いい加減にしないか」

突然、後ろから声がした。わたしとお母さんはびっくりして同時に振り向く。

廊下に立ってこちらを見ているのは、いつの間に帰ってきたのか、お父さんだった。

「母さん、言い過ぎだよ」

お父さんが通勤鞄を床に置きネクタイを緩めながら、お母さんをまっすぐに見据えて低く言った。

「つまらないとかくだらないとか貧困とか……そんなことを言われて遥がどう思うか、少し考えれば分かるだろう」

お父さんがお母さんに反論をするのを初めて見た。驚きのあまり、わたしは瞬きすら忘れてお父さんを凝視する。

お母さんは眉根を寄せて、くっと唇を噛んでから大きく息を吐いた。

「私は別に何も遥のこと言ってたわけじゃないわよ。一般論よ、一般論」

「それでも、遠回しに遥に対する批判になってるのは同じだろう」

「批判なんて! 自分の子どもに批判なんてするわけないじゃない。ただちょっと叱ってただけよ」

「頭ごなしに自分の意見を押しつけて相手の非をあげつらうことは、叱るとは言えないよ」

苛立ちをぶつけるようなお母さんの声に対して、お父さんの声は落ち着いていて冷静だった。

お父さんはこういう時こんなふうに話す人なのか、と驚いた。とても静かな口調だけれど、淡々としているからこそ相手に反論をさせないような、独特の強さがあった。

お父さんは無口でいつも穏やかに笑みを浮かべている人、というイメージだった。人をいさめたりするお父さんを見た記憶がない。

でも、もしかしたら会社で仕事をしているときも、部下の人をこういうふうに諭しているのかな、となんとなく思う。生まれた時から一緒に暮らしているのに、お父さんのことを本当の意味では見ていなかったのかもしれない。

「それに、悠と比べるのは遥に失礼だよ。悠は真面目でしっかり目標を持って頑張っていて偉いやつだ。遥は周りをよく見ていて気づかいができて、自分よりも他人を大事にできる本当に優しい子だよ。いくら兄妹っていったって、二人とも別々の人間なんだ。一面だけ見て比べてどうこう言うのはよくないよ」

お父さんの言葉を聞いているうちに、目頭が熱くなってきた。

あまり会話をしないお父さんが、それでもわたしを見てくれていて、そんな優しいことを言ってくれたのが嬉しかった。

お母さんは、お父さんが話している間ずっと唇を噛みながら聞いていて、しばらくするといきなり踵を返してリビングを飛び出していった。

その後ろ姿をしばらく見ていたお父さんが、今度はわたしに向き直る。

「ごめんな、遥。今まで何も言ってやれなくて。ずっと我慢していて苦しかっただろう」

お父さんの大きな手が、わたしの頭をゆっくりと撫でた。小さい頃を思い出して懐かしくなる。

「父さんは仕事でいつも帰りが遅くて、家のことは母さんに任せっぱなしになってしまっているから、母さんが言うことに父さんが文句をつけるのはいけないと思っていて、ずっと何も言えなかった」

お父さんが申し訳なさそうに言った。

「でも、さっきのはさすがに聞いていて耐えられなくなってな、思わず止めに入ってしまった。遥は、お母さんからいつもあんなことを言われていたのか? つらかっただろう、ごめんな」

お父さんの静かな声を聞いていると、ぽろりと涙がこぼれた。制服のシャツの袖でそれを拭う。

「母さんも悪気があるわけじゃないんだ……。遥のためを思っているっていうのは本当だよ。ただ、言い方がよくないよな。父さんからも言っておくから」

その言葉に、わたしは思わず首を振った。

「いい、大丈夫。それに、お母さんそんなこと言われたら傷つくだろうし……いいよ、わたしは平気だから」

わたしのことでお父さんとお母さんの空気が悪くなったりしたら嫌だ。

そう思って答えたけれど、お父さんは「よくないものはよくないから」と微笑んだ。