自分から出た大きな声に僕が一番驚いた。なんて幼稚なのだろう。
分かったような顔をする橘千歳に腹が立ったのと同時に、彼女の口から出た〝隼人〟という言葉は驚くほど僕の焦燥感をかきたてた。
ドクドクと脈打つ僕の心臓は激しく鳴っている。さっきまで照り付けていた太陽を灰色の薄汚れた雲が覆い、蒸し暑いような湿気を感じた。雨が降るのかもしれない。
橘がゆっくりと口を開いた。まるでスローモーションの動画を見ているのかと思ったほどだ。彼女が発した言葉は、僕の脳内に信じられないほど鈍く、響き渡った。
「……隼人はいつも、春瀬に憧れてたよ」
———憧れてた?
あいつが、僕に? まともな会話さえ交わしたことが無いのに? あいつは僕に、〝気づかなかった〟のに? ———憧れるわけがないじゃないか。
「勘弁してくれよ。そんな話聞きたくないって——」
「春瀬聞いて。ねえ、怒るのも無理ないってわかってる。でも、聞いてほしい」
「だから——」
「———さっき寝ちゃったとき、春瀬の前髪の下を見た」
僕の予想より遥か斜め上を行く答えが、隣から降ってきた。
ガツンと鈍器で頭を殴られたんじゃないかというような衝撃。脳内に走馬灯のように〝あいつ〟の顔が浮かんでくる。思い出したくもなければ、完全に僕の中でなかったことにしている記憶の一部が、薄い幻影のように呼び起こされていく。ごめんね、と呟いた橘の方へと視線をあげると、橘の瞳は今朝と同じようにゆらゆらとゆれていた。
「……私も、隼人も、春瀬だって……いろんなこと抱えて、生きてきたんだよ。ねえ春瀬。……ううん、———〝ハヤト〟。きみの目はとても、綺麗だったよ」
つま先から水分を吸い取られてしまったのかと思った。その声を聞いた瞬間僕の体から血の気が引いてゆく。心臓が一瞬止まるかと思うほど、落ち着いた声だった。僕は彼女から再び視線を外した。息がしずらく、目の前が今にも崩れてしまいそうだった。
「ごめんね。本当は知ってたんだ、私。春瀬と、隼人のこと」
ポツリ、一粒水面に雫が落ちた。灰色の空から降ってきたそれは綺麗な円を描いて段々と広がってゆく。やがて何度も落ちて来る雫を眺めながら、僕は止まらない心臓の音をどこか遠くで聞いていて、いっそのことこのまま死んでいまえたらよかったのに、と静かに目を閉じた。