下げられた目線はそのままイチゴオレへ伸びて、橘の細い指先が濡れたコップの淵へと触れた。僕は何も言えないまま、彼女がストローに口をつけて薄いピンク色をした液体を体内に流し込む様子を見ていた。ゴクン、と喉が鳴った音でやっと現実に戻ってこれたような錯覚に陥る。
橘が笑っていない顔を、僕はもしかしたら初めて見たのかもしれなかった。放課中クラスメイトと雑談している時はもちろん、授業中も、体育で運動しているときも、橘はいつだって〝橘千歳〟の顔をしていた。
今、目の前にいる彼女が橘千歳じゃないだとか、そういうことではなくて。普段人には見せないような、一枚壁をめくったような、そんな言葉にし難い表情をしているんだ。今の、橘千歳は。
「……隼人もバナナジュース、好きだって言ったでしょ?」
イチゴミルクのグラスをコースターの上に戻すと、また口角を少し上げて橘が口を開いた。僕の心臓はドクリ、と重く動く。
「隼人さ、炭酸ダメだったんだ。だからいつも、オレンジジュース飲んでたの。……みんなの前で、は。」
みんなの前では、の「で」と「は」の間に十分すぎるほどの間をあけて、橘は僕を見た。まるで知っているでしょう、と言われているいたいで喉がカラカラに乾く。少しだけ震えた指先をテーブルの上には出さず、教室での唐沢隼人を僕は思い描いた。
確かに唐沢隼人は炭酸が飲めなかった。クラス内ピラミッドの頂点にいるようなグループでいつも笑っていた唐沢は、オレンジジュースばかり飲んでいることをいつも笑いのネタにされていた。
『こいつ、オレンジばっか飲んでんの、ほんとかわいいよな』と誰かが言うと、『何でもできるくせに炭酸飲めないとかギャップだよねー』と橘の周りの女子が騒ぎ立てる。そんなクラスメイトに唐沢はいつも笑顔を浮かべて、『うるせえなあ、しょうがないだろー』と言い出した男子に絡みに行く。
それはもう、僕たちのクラスの恒例行事のようなものだった。ピラミッドの頂点から段々と唐沢の笑顔は広がって、一番下の僕にその笑いが届くのはいつも決まって放課終了の鐘と同時。そういうわけだから、僕が彼のオレンジジュースに笑ったことは一度だってなかった。