橘千歳という人間は、どうやら遠慮や気遣いという概念は持ち合わせていないらしい。
カランカラン、こげ茶の重たい扉を開けるとそんな風にレトロな鐘の音がして、あたたかいトーストと品のいいコーヒーのにおいが鼻をくすぐった。
鐘の音を聞きつけて奥からやってきた見た目40代半ばぐらいのふくよかな女性は、橘を見てとても明るい笑顔を見せた。その体系に緑色のエプロンをつけている。きっとこの店の人なのだろう。
「千歳ちゃん、久しぶりじゃない」
「やだ、ヒロさん、わたし一週間前にもきたよ?」
「あら、そうだったかしら。この年になると、一週間も随分と長く感じるものね」
「もー、そんなこと言って、まだまだ若いんだから、ヒロさんは」
「ふふ、まだまだ現役よ?」
ヒロさん———そう呼ばれた緑エプロンの彼女は、どうやら橘の知り合いらしい。ガールズトーク、と言っていい年齢かどうかは別として、ふたりの会話は止まることを知らないみたいだ。
しばらく経ってからふと、ヒロさんが僕の方を見た。元々丸い目をさらに大きく見開いてから、橘へと視線を戻す。どうやら、先に店内へと入った橘の姿しか視界に入っていなかったらしい。後ろにいる僕に気づかなかったのだろう。制服を着ているから、橘の知り合いだとすぐにわかったみたいだ。
「千歳ちゃん、あの子は?」
「あー、あれはね、クラスメイト。春瀬っていうの。すっごい頭いいんだよー?」
「あら、クラスメイト?」
春瀬くん、と呼ばれた僕はひどくぎこちない愛想笑いを並べておく。しゃべったこともない、ましてや今日初めて出会った他人と関わるなんてのは、僕にはハードルが高すぎる。