景山さんは驚きながらも、すぐにメニューを開いた。
「私はこちらの、白桃とヨーグルトのタルトが好きです」
絶対それを選ぶと思った。
「へえー、どうしてですか?」
「え…」
突っ込むと、色白の頬を染めて、一生懸命説明してくれる。
「その、さっぱりしていてこの季節に合いますし、生クリームの代わりにヨーグルトを使っているので、カロリーも控えめで」
「でもそれだと、こっちのさくらんぼのムースもたいして変わらないですよね」
「えっと、あの…」
真っ赤になってうつむいてしまった。
「この桃のタルトは、は…治樹さんが考えたメニューなので…」
うん、知ってる、家で作ってたもん。
兄の目も怖いので、このへんで解放してあげよう。
「じゃ、食後にアイスティとそれお願いします」
「かしこまりました」
逃げるように去っていく姿を見てから、兄に視線を戻した。
こっちも赤い顔して、私をにらんでいる。
「お前、気づいてたな」
「つきあってるの? まだそこまでいってないの?」
「子供が首突っ込むな」
「景山なにさん?」
「…真由(まゆ)」
お、口調からして、普段はこっちで呼んでいるな、たぶん。
てことはもう、おつきあいしているんだろう。
なんだよー、やることやってんじゃん、お兄ちゃん。
「学生さん?」
「いや、調理学校を去年出て、今は見習いみたいなことしてる。キッチンにも入るし、経営の勉強してるから、メニュー作りとか仕入れのアシスタントもやるし」
「すごいね」
「すごいよ、吸収も早い」
そんな真由さんから見たら、独学でここまで来ている兄が、もしかしたらかえって憧れなのかもしれない。
照れくささを紛らすように水を飲む顔を、まじまじと見る。
別に特別ハンサムというわけじゃないけれど、清潔感があっていかにも頭がよさそうで、感じのいい顔。
背はたぶん健吾くんと同じくらいで、身体を使う仕事をしているせいか、兄のほうが若干たくましい。
そうかあ。
お兄ちゃん、幸せなのかあ。
私は無性に嬉しくなり、新しい携帯で靖人にメッセージを送ろうとして、メモリがすっからかんなのを思い出した。
■
土曜、日曜と大雨が続き、翌週にもつれ込んだ第二回戦は、先日の勢いを途切れさせることなく、快勝に終わった。
「三回戦はもう、夏休み直前だね」
「その前に模試だ」
日がかげっていたおかげでいくぶん楽だった応援から、学校に戻る足取りも軽い。
「はいなっちゃん、今日の靖人の見どころを」
「そうですね、6回裏で盗塁を刺したのが見事でした。あの2年生は俊足で有名なので、あそこで相手校の気持ちをくじいたのがのちの勝利に大きく貢献したと思います」
「なるほど。打者としてはいかがでしたか」
「7回以降は監督の方針で、点を取るというよりは好きに打たせていたようです。正直、そこまでの実力差はないのでどうかなと思いましたが、そんな中でも小瀧くんはやはり抜きんでて頭脳派で、相手の嫌がるタイミングで嫌がる打球を送るという容赦ない姿勢が」
オタク。
午後の授業をひとつ受けた後、職員室に行くために渡り廊下を歩いていると、野球部のバスが帰ってきているのが見えた。
グラウンドのほうに行ってみると、途中にある野球部の部室が開けっ放しになっていて、中ではもみくちゃになりながら部員が爆睡している。
何人かは部室の外で、地面に転がってバッグを枕に寝ていて、その中のひとりが靖人だった。
「お疲れ」
「ん」
そばに寄ってそっと声をかけると、顔を覆っていたキャップの陰から、眠そうな目がこちらを見上げる。
「おめでとう、今日はスカッと勝てたね」
「なんでパンツ見せてんの?」
「見せてないよ!」
黒パン履いてるし!
急いでスカートを押さえる私を笑いながら、靖人が身体を起こした。
「カード、あれから復活したか」
「しない…もうあきらめた」
あぐらをかく靖人の隣にしゃがみ込む。
「俺と治樹くん以外の番号、入ってんのか?」
「私だって、クラスの女の子と連絡先くらい交換してます!」
今日は一日かけて、それを集めて回ったのだ。
「なっちゃんから、ピッチャーがショートに下がった直後にその横を抜けるえぐいライナーをぶっ放したのは、狙いだったのかって」
「有川ってなんなの、マニア?」
「たぶん」
帽子で顔をあおぎながら、ふうんとつぶやく。
「思ったよりうまくいったけど、まあ狙ったよ。ポジションチェンジ後ってどうしても浮つくし、そこで出鼻くじいてやれば、向こうも調子上がらないしな」
「えげつないねえ」
「俺らみたいに強くもないところは、できること全部やらないといい勝負できねーんだよ」
なんとなく、ぎくっとした。
できること、全部。
見透かしたように、靖人が頬杖をついてこちらを見る。
「健吾くんから連絡あったか」
「…ない」
「どーすんの?」
わかんないよ、そんなの…。
うつむいた私の頭に、帽子がかぶせられた。
「ま、別にいいけどね、俺は」
「汗くさい…」
「うるせー」
つばの陰で、涙が浮いた。
全然、別によくないよ、私は。
じゃあ、どうするの。
健吾くんが帰る可能性のある、一番早い時間に部屋のインタホンを鳴らしてみたけれど、応答はなかった。
思い立って裏の駐車場に行ってみると、やっぱり車がない。
今、7時。
近くのコンビニで夕食にパンを買って、部屋の前よりは目立たないだろうと、駐車場の輪留めに座って、食べながら待った。
11時に、私のほうにタイムリミットが来た。
兄が帰ってくるまでには、家にいないといけない。
最後にダメもとでもう一度インタホンを鳴らし、むなしく部屋に響くのをドア越しに聞いてから、なにか手紙でも残していこうかと考えた。
でも、しつこいかと思って、やめた。
私と会わない日は、こんなに遅くなるんだ。
本当はこのくらい仕事したいのに、私が部屋に行くって言えば、帰ってきてくれていたんだ。
なのに変なことで駄々こねて、ごめんなさい。
健吾くんにはどうにもできないことで疲れさせて、ごめんなさい。
会いたいよ。
会いたい。
届け、と願いながら、無機質なドアに、額をごつんとぶつけた。
■
三回戦で、靖人たちは負けた。
初回に取られた1点をどうしても返せず、つらい試合だった。
3年生は、これで引退。
バイトをしてから夕方に家に帰った私は、兄の部屋の雨戸を閉めようとして、家の前の通りを歩いてくる靖人を見つけた。
1階に駆け下りて、玄関を飛び出す。
「靖人!」
「うおっ、びっくりした」
部室で、みんなと泣いてきたんだろうなあって顔をしている。
試合が終わったときも、選手たちは泣いていて、靖人はしっかりしているほうだったけど、時折目元を指で拭っていたのを見た。
「…お疲れさま」
「うん」
「靖人が泣いてるの見たの、小学校以来くらいかも」
「泣いてるとかわざわざ言うな」
「恥ずかしいんだ」
からかうと、おでこを肘でぐいと押される。
「今日は勝ちたかったんだけどなあ」
「なんで?」
靖人がじっと私を見ながら微笑んで、それからふと気づいたように、ぶら下げていたコンビニの袋を差し出してきた。
「誕生日おめでと」
「え、明らかに今思いついた感じだったよね」
「いらないんなら俺が食う」
「いや、いただきます」
袋の中には棒アイスが入っている。
2個あるということは、もしかしたら本当に最初から、私にくれる気だったのかもしれない。
靖人がまだ家に入りたくないと言うので、家の前の空き地に行き、物心つく前から置いてある、漫画のような土管に腰かけた。
「なんで家に入りたくないの?」
「入ったら、そこでほんとに終わる気がするだろ」
そんな感傷が、靖人にもあったことに驚いた。
帰ってユニフォームを脱いだら、二度とそれを着ることはない。
確かにそれは、確実すぎる"終わり"なのかもしれない。
「大学では野球しないの?」
「しないだろうなあ。野球そのものってより、部活の空気が好きなんだよな、俺」
「なるほど」
わかる気もする。
暮れてきた空を見上げながら、ソーダ味のアイスを舐める。
「野球してる靖人が見られなくなるのは、寂しいな」
「"右が一塁"レベルのくせに」
「合ってるんだから、いいでしょ」
ついに今年、なっちゃんの実況中継のおかげでだいぶ野球に詳しくなった気がしているのに、水を差すな。
さっさと食べ終わった靖人が、棒をくわえて笑う。
「どこから見て右だよ」
「靖人に決まってるじゃん」
「え?」
ぽかんとする靖人に、手振りで教える。
「試合中、靖人はこう、前向いてるでしょ、その右」
なんでか靖人は、戸惑ったような顔で私を見て、黙ってしまった。
あれ…まさか間違えてないよな。
不安になった頃、靖人が口を開く。
「…あのさ、俺」
けどすぐに、なにかに気がついた様子で、私の背後にはっと視線を投げると、バッグを持って腰を上げた。
「帰るわ。じゃあな」
「え、ちょっと」
いきなり?
追いかけるタイミングも逃し、アイスも食べかけだしでおたおたしていると、ポケットで携帯が震える。
知らない番号。
もう、誰だよこんなときに。
「はい」
一瞬間があって、確かめるような声がする。
『郁?』
えっ…。
頭がついていかず、思わず意味もなく立ち上がった。
嘘、嘘。
健吾くんだ。
「け、健吾くん…」
『さっきの、すげえよそよそしい声、なに?』
「え、違、あの、携帯壊してね、メモリ全部消えちゃって」
『マジか』
同情しているような、あきれているような声。
『なあ今、家? 一瞬出てこられないか』
「え、健吾くん、どこにいるの?」
言いながら家のほうを振り向いて、どうして靖人が急にいなくなったのか、わかった。
家の前に、健吾くんの車が停まっている。
「健吾くん!」
運転席にいた健吾くんが、私の声に反応して顔を上げ、きょろきょろしてからこちらに気づいた。
すぐに車を降りて、空き地を横切ってきてくれる。
「健吾くん…」
「なんでこんなとこで、ひとりでアイス食ってんの?」
困惑まじりの突っ込みに、だよね…と自分の間抜けさを思った。
目の前に来た健吾くんが、じっと私を見る。
二週間近く会わなかった。
いつものスーツ姿で、手にはまだ車のキーを持っている。
思い出したように内ポケットを探ると、小さな四角い紙の箱を取り出して、こちらに差し出した。
「誕生日、おめでとう」
ためらいながら手を出すと、その上に載せてくれる。
白い箱に白いリボンの、きれいな包み。
ありがとう、って。
言いたかったんだけど、先にいろんなものが溢れて喉をふさいでしまったので、声にならなかった。
手にプレゼントを載せたまま、無言で立ち尽くす私を、健吾くんが戸惑ったように見て、やがて静かに言った。
「ごめんな」
「ううん…」
「ごめん、もっと早く来てやればよかったな」
アイスを持った手の甲で、こぼれそうな涙を拭く。
ひと口残っていたアイスが、棒から外れて地面に落ちた。
「私こそ、ごめんなさい、意味ないこと言った…」
「郁…」
片手で頭を抱いてくれる。
「意味ないとか言うな。郁が不安なの、わかったから」
「でも、あんなこと、言われたってどうしようもないよね」
「そうだけど、それは言っても意味ないのとは違う。俺も勝手なこと言ってごめんな、あれ、俺が言っちゃいけなかったな」
片手にそれぞれ棒と箱を持ったまま、腕でしがみついた。
健吾くんも両手で抱きしめ返してくれる。
と、すぐに腕時計を見て、「あ!」と叫んだ。
「わり、俺、会社戻らないと」
「え、戻るの? 今から?」
「先週からめちゃくちゃ忙しくて、今も実は二徹に近い状態で、もう吐きそう…」
「ええ!? そんなんで運転して大丈夫?」
「逆、運転でもしてないと正気保てない」
「無理しないでね…」
って、もうしているよね、どう見ても。
身体を離した健吾くんが、優しく微笑む。
「言い訳にもならないけど、そんな状態だったから、連絡する余裕もなくて、ごめん」
「ううん…」
「実は一度電話したんだけど、つながらなくてさ」
うわ、やっぱりくれてたんだ。
ちょうど携帯がダメになっていたときだろう。
こうしている間にも暮れていく日を、気がかりそうにちらっと見て、健吾くんがうかがうように訊いてきた。
「今日、予定ってどんな感じ? その、兄貴のとか」
「えっ? えーと、朝まで帰らないよ、確か」
「じゃあ、この後、うち来られる?」
「え?」
一緒に車に戻りながら、思わず聞き返した。
健吾くんが慌ただしくドアノブに手をかける。
「日付が変わる前に絶対帰るから。改めてちゃんと、おめでとうって言うから。ついでに言うと昼間のうちにケーキ買ってある」
「でも、疲れてるんじゃないの…?」
押し寄せる嬉しさに混乱して、おろおろとそんなことを言う私を振り返り、開けたドアに腕を乗せて、健吾くんは厳しい声を出した。
「誕生日くらい、聞き分けとかいいから、わがまま言え」
言ってるよ、いつだって。
健吾くんが聞いてくれるから。
私、普段から十分わがままだよ。
止まったと思っていた涙がまた、ひと筋こぼれる。
「…じゃあ、部屋で待ってる」
「うん」
「泊まる」
「いいよ、明日の朝も俺、早いけど」
手の中の箱を、ぎゅっと握りしめた。
「キスしたい」
制服だけど。
健吾くんが困ったことになるの、わかってるけど。
でも、今ここで、してほしい。
それだけはダメだ、といつもの通り言うかと思った健吾くんは、迫ってくる夕闇の中で、柔らかく微笑んで。
私の髪を梳くように、耳の後ろに流して、唇を重ねてくれた。
時間を気にしているのを忘れたような、丁寧で温かいキス。
何度も何度も食んで、角度を変えて、また重なる。
健吾くんて、こういうキス、得意だよね。
"郁が大事だよ"って。
そうささやいてくれているみたいな、そんなキス。
「本気でやばい、行かないと」
「気をつけて、がんばってね」
「後でな」
キスが済むなり健吾くんは、車に飛び乗って行ってしまった。
見送るまでもなく、すぐに車も見えなくなる。
後で会えたら、もう一度謝りたい。
それで、思っていること、ちゃんと話したい。
部屋に上がって、プレゼントを開けると、ピンク色のビロードの台座に、ピンクゴールドのペンダントが輝いていた。
小さなオープンハートのトップの中に、ダイヤが揺れている。
「かわいい…」
ため息が出るほどきれいでかわいい。
一緒に見た中に、こんなのなかった。
もう一度、自分で選び直してくれたんだ。
あんなに忙しそうにしていて、どこにそんな時間があったの?
もっと信じないとダメだよ、私。
健吾くんのこと、信じないと。
自分が弱いせいで、大事な人を信じられないなんて、ダメだよ。
信じられるくらい、強くならなきゃ。
誰かを好きすぎると、泣けるものらしい。
ベッドに顔を埋めて、ひとしきり泣いて。
それから鏡の前でペンダントをつけて、また泣いた。