「はい、ウェットティッシュも使ってね」

「ほんと最高」



日差しは強いけど、風があって過ごしやすい。

バゲット2本使って、具もたっぷり挟んで、そこそこボリュームあると思っていたんだけど、気づいたら健吾くんが全部食べてしまっていた。



「うまかった」



満足そうに息をつくと、ジーンズのポケットから煙草を取り出す。

火をつける前に、ごみを片づけていた私の袖を引っ張って、自分の反対隣を指さした。

あ、風上。


バッグを抱えてそちらに移動する。

煙草を手で囲って火をつける姿が、いつ見てもかっこいい。

これであんなチャラ…いや、浮ついた格好してたら、もうモテてモテて困っただろうな。


私は当時…小学生か、もしかして。

改めて、7つの差って大きいなと考えていると、声がした。



「いく!」



私と健吾くんは、同時に同方向に顔を向けた。

女の人がひとり、バーベキューの群れから離れて、こちらに手を振っている。


…私じゃない。

てことは。

健吾くんは目を見開いて、くわえていた煙草を指に挟んだ。



「あおい」



あれ…。

これ、どういう事態?


女の人に手招きされて、健吾くんが一度私を振り返ってから、腰を上げた。

でもそれより先に、向こうがこちらにやってきた。



「やっぱりいくかあ、見覚えある奴いるなと思ったのよね」



飾り気のない白いTシャツとジーンズだけど、抜群のスタイルが、むしろそんな恰好を贅沢に見せている、きれいな人。

少し明るくした髪は顎の下までのボブで、さらさら揺れている。

健吾くんがまぶしそうに目をすがめて、そんな彼女を迎えた。
「よく見つけたな」

「いくは遠目にもわかるもんね、あっち来ない? 遠藤(えんどう)もいるのよ」

「え、会社のメンツ?」

「ううん、ほら私と彼、大学こっちだからさ、共通の友達多いの」

「へえ」

「…そちらは?」



健吾くんの陰に隠れるようにしてベンチに座ったままだった私を、不思議そうに見る。

私はバッグを抱いて、はっと立ち上がった。

健吾くんが、元気づけるようにそっと背中に手を置いてくれる。



「あ、この子は」

「あれ、まさか彼女かと思ったんだけど」



答えるより先に、"あおい"さんが苦笑いして続けた。



「違ったね、ごめんごめん。私、生島くんの同僚の青井美菜(みな)っていいます、こんにちは」

「あ、古浦郁実です、…こんにちは」

「なに繋がり? 地元とか?」



全然悪気がある感じじゃない。

むしろ、乱入してごめんねって空気も感じる。

なんだ、"あおい"って、苗字か、なんてほっとしつつ、私はとっさにうなずいた。



「はい、そんな感じです」



健吾くんが私を見る。


だって、仕方ないじゃない。

この状況でほかに答えよう、ないじゃない。

別に嘘ついてないし。


健吾くんがなにか言いだす前に話を繋ごうとしたら、青井さんの後ろから、「よお」と陽気に手を振りながら男の人が近づいてきた。



「遠藤、この子、いくのお友達だって、郁実ちゃん」

「なんだよめっちゃかわいいじゃん、遠藤です、どうも」



日に焼けた顔に短髪の遠藤さんが、にこっと笑いかけてくれる。

続いて健吾くんを肘で小突くと、にやっとした。



「お前、うらやましいなあ」

「変なことするんじゃないのよ、こんなかわいらしい子から見たら、あんたたちなんかおっさんなんだから」

「おっさんとか言うな」
青井さんとそう言って笑い合う。

健吾くんが、私と彼らの板挟みでなにも言えず、困っているのがわかった。


私はきっと、これから幾度となく直面する、こういう場面に慣れないといけないんだろうと思った。

制服を着ていようがいまいが、私は見るからに子供で、大人からしたら遊びで手を出すような、そんな世代の相手なのだ。

知ってたし。



「そうだ、いく、ワンちゃんの件、ありがとね。親がもう楽しみにしてて、名前まで考えてるの、まだ会ってもいないのに」



え…。



「いや、こっちこそ。信頼できる人に渡せて、安心してる」

「任せてよ、前の子だって、うちの両親に愛されて、17年も生きたんだよ」



会話するふたりを、すごく遠くから眺めている気がする。

"同僚"って、この人のことだったのか。

…女の人だったのか。

話題が私のことから逸れて、健吾くんはほっとしたんだろう、ようやく笑顔を見せて、楽しそうに話すようになった。



「17年てすげえな」

「いくもたまに会いに来たら? 合わせて私も実家に帰るから」

「実家ってどのへんなんだ?」

「バイパスのほうよ、庁舎のある」

「あ、じゃあお前んちとも近いんだな」



なにひとりで胸とか痛めてるの、私。

家の場所くらい知ってたって、いいじゃない。

そういうの、心狭いよ。

鬱陶しいよ。



「ダメだなああいうの、一度触れ合っちゃうと、かわいくて」



健吾くんが煙草を吸いながら、照れくさそうに笑った。

青井さんも自分の煙草を取り出して、親しげに、全部知ってるよ、って感じの優しい目で健吾くんを見る。



「あんたはけっこう、情が移りやすいのよね」



私のことを言われている気がした。


いやいや。

いくらなんでも、情だけで女子高生とつきあおうとは、すまい。


だけども。

あの時点で、情以外のなにが健吾くんのなかにあったというのだ。


とはいえ。

あれから半年たっているわけだし、その間に嫌になれば健吾くんはいくらでも、そういう態度をとれたわけだし。


なにより。

健吾くんは、かわいがってくれているじゃないか。

この私のことを、あんなにも。

そのくらい信じろよ、私。


お風呂に半分顔を沈めて、そんな問答を延々した。


すなわち。

気にする必要は、ない。


以上。



「あっ、しまった」



脱衣所に上がってから、着替えを忘れたことに気がついた。

しょうがないので取り込んだ洗濯物から下着だけ引っ張り出して履いて、首からバスタオルをかけて部屋に向かう。

ダイニングとリビングを突っ切って、階段のある玄関前の廊下へのドアを開けたところで、私は悲鳴をあげた。



「ぎゃー!」



靖人が、玄関で兄と話していたのだ。





「健吾くんにも見せたことないのに…」

「おかしな言い方すんな、どこも見てねえって言ってんだろ!」



ベッドに顔を伏せて、しくしくと嘘泣きする私を、靖人が怒る。



「じゃあなんでそんな顔赤いの!」

「お前がそういうこと言うからだよ!」



ふんだ。

見られたからには動揺させてやりたいという、この複雑な乙女心理がわからないのか。
「お兄ちゃんとなに話してたの」

「いや、犬の件で、治樹くんがわざわざうちに、店のテイクアウト料理を届けてくれたんだよ、今日」

「あっ、そうだ、話したら、お礼しなきゃなって言ってた」

「で、そのお返しにお菓子を預かってきたの」

「え、もしかしておばさんのケーキ?」

「そうだよ」

「早く言えバカ!」



部屋を飛び出して1階に駆け下り、キッチンに向かった。

兄がホールのベイクドチーズケーキを切っているところだった。



「あの、私、120度くらいで」

「チーズケーキってカロリーすごいぞ、言っとくけど」

「そのぶん靖人は15度くらいでいいから」

「それ、なんの帳尻も合ってないからな」



ため息をつきつつも、オーダー通り、私のお皿にはどっさり全体の1/3を、靖人には倒れそうなくらいの薄切りを載せてくれる。



「そういや、おばさんがすっごい浮かれてたんだけど」

「うん?」

「お前と一緒に犬を連れてきたイケメンて、誰のこと?」

「あー…」



やっぱりそう来るよね。

兄には、事故に遭った犬を拾って、困っていたら靖人の家が預かってくれた、というざっくりした説明しかしていなかったのだ。



「…困ってたとき、助けてくれた人」



嘘はついていない、と自分に言い聞かせながらの返答だったものの、兄は納得したようで、ふうんとうなずく。



「お前、変な知り合い多いもんな」

「だてにバイトしてないからね」



ケーキ皿をフォークと一緒にトレイに載せて、グラスもふたつ置いて、冷蔵庫から牛乳パックを取り出して脇に挟んで逃げるように自室へ上がった。



「マジでそれ食うの?」



トレイを見て、靖人が信じられないという顔をした。
「健吾くんは、『ダイエット中だから』ってわざわざ口に出されるのが嫌いなんだって」

「まったくもって同感だけど、健吾くんいねーし、そもそもダイエットなんかしてねーだろ、お前」

「おいしい!」



まだ焼きたてだ。

冷やして二度おいしいのだ、明日が楽しみ。



「治樹くんに、健吾くんのこと突っ込まれなかったか?」

「今まさに突っ込まれてきた。でもぼやっと説明したら、なんとなくごまかせた…気がする」



ごまかすって言葉、嫌だなあ…。

そんな心情を察してか、靖人も複雑に表情を曇らせた。



「母さんに口止めしときゃよかったな」

「靖人って、健吾くんのこと気に入らないのかと思ってたよ。実は応援してくれてるの?」

「応援、は…」



ケーキのお皿をあぐらの脚に載せて、フォークでつつきながら靖人が、考え込むような声を出す。



「してない」

「あ、そう」

「俺もう、これ食い飽きた…」

「嫌々食べるくらいなら残しといて!」

「でもこれがお前の脂肪になると思うと、幼なじみの義務として」

「おいしいって思いながら食べれば栄養になるんです。あーこれダメやばいって罪悪感にまみれながら食べると脂肪になるの」

「そんなことはない」



薄情な発言を無視してお皿を引き取り、もりもりと食べる私を、失礼にも靖人は、薄気味悪そうに見ていた。





週明け、通りを歩いていると、控えめなクラクションが聞こえた。



「郁実ちゃーん」

「あ」



ちょっと行ったところに赤い車が停まっていて、運転席側に女の人が立ち、こちらに手を振っている。

青井さんだった。
「こんにちは」

「学校帰り? 暑いでしょ、乗りたまえよ」



くいと男前に親指で車を指して運転席に座ったので、私も歩道と車道を隔てている柵を乗り越えて助手席のドアを開ける。

青井さんが、座席の上にあった大きなバッグを後ろに置いた。



「すみません、あの私、食べてる途中で」

「見ればわかるよー、声かけたの、それが目的でもあるし」



私が持っていた大判焼きの紙袋を、にやりと笑って指さす。

私は吹き出し、「ツナと粒あん、どっちがいいですか」と聞いた。



「ツナ、お昼食べてないの!」

「車内で食べてもいいですか?」

「もちろん。あ、タダでもらったりはしないからね、はい」



大判焼きを受け取る代わりに、コンソールボックスから百円玉を3枚くれる。

乗り込みかけていた私は、一度歩道に戻って自販機まで行き、そのお金でコーヒーとジュースを買って戻った。



「はい、どうぞ」



青井さんはぽかんとして、それから笑った。



「郁実ちゃんの飲まないほうちょうだい」

「じゃ、ジュースいただきます」

「どこ行くところだったの?」

「図書館です」

「じゃ、そこまで行くね、出すよー」



車の中は、冷房が効いていて気持ちいい。

後部座席に置かれた、使いやすそうなバッグには、ファイルやPCが詰まっていて、いかにも仕事中って感じだ。

車内はなんとなく、大人の女の人の香りが満ちている。



「これ、ご自分の車ですか?」

「そう、うち営業車少ないから、各自がマイカー使ってもいいの。ガス代は会社から出るし」



健吾くんから聞いたところによると、青井さんは健吾くんと同い年ではあるけれど、関連会社からの"出向"で来ているので、同期ではないらしい。

遠藤さんのほうは健吾くんと同期入社。

出向ってなに? って訊いたんだけど、いくら説明してもらってもよくわからなかった。
同期っていうのも、なんとなくしか雰囲気が掴めない。

要するに同じ学年でしょ、というのはわかるんだけど、たぶんそれだけじゃないんだろう。

健吾くんが日々のほとんどを費やしている仕事というものは、私にはこんなふうに、想像力も届かないくらいの、ぼんやりした遠い世界でしかない。



「その制服、いくと同じ高校だね」

「あ、はい、たまたまですけど。青井さんはどちらでした?」

「美菜でいいよ、もしくは青菜とか。ずっとそう呼ばれてた」

「あはは、じゃあ、美菜さんで」

「私は二高。郁実ちゃんたちのセーラーに憧れたなあ」

「二高のブレザー、かわいいじゃないですか」

「セーラーは永遠の憧れなわけよ!」



言いながら、大判焼きをむしるようにかじる。

そ、そうですか。

きれいなのに、気取らない人だな。


そのとき、カーナビのあたりにくっついている携帯が軽快なメロディを発した。

【着信:生島健吾】とある。



「あら、いいタイミング」



美菜さんは私に向かって人差し指を口に当て、いたずらっぽく微笑んでみせると、ちょんと指で操作して通話に切り替えた。

薄いピンクオレンジに塗られた爪が、清潔感もあってきれいで、思わず目が吸い寄せられる。



「はいはい」

『お疲れ、なあN企画さんの更新ていつ? それによってはライセンスをひとつ、こっちに融通してほしいんだけど』

「9月末よ、できないこともないけど、なんで?」

『俺のお客さんが、けっこう近々の入れ替えを検討しててさ、もともと提案してたハードが、S社のだったんだ』



スピーカーから聞こえてくる健吾くんの声は、なんとなくいつもより、鋭い気がする。

仕事中の声。



「あー、生産終了」

『そう。だいぶ先の話だけどさ。だからってもう永久には使えないってわかってるもんを納入するとか、できないだろ』

「真面目ねえ」

『お前も今外だよな? 後で調整させてもらってもいい?』

「いいわよ、私はあんたの大切なお姫様ともう少しおしゃべりしてから戻るから」



健吾くんが黙った。

やがて困惑ぎみの声が聞こえてくる。
『…え、どういう意味? 俺の、なんだって?』

「不用心に一人歩きしてるから、思わず拉致しちゃった」

『誰を?』

「あんたって、そんなにいっぱいお姫様いるの?」



戸惑っている様子が目に見えるようだ。

ためらいがちに、健吾くんが問いかけた。



『…郁?』



なんだかわからないけれど、私はやけにドキッとした。

健吾くんが、私じゃない人に向けて、私に聞かれているともたぶん思っていないときに私の名前を呼ぶと、あんな声になるんだ。

さっきまでより響きが優しいなんて思うのは、うぬぼれだろうか。


運転しながら、美菜さんが愉快そうに笑う。



「正解ー」

『なに、郁がお前といるの? なんで?』



健吾くんの声は、困惑を深めていた。



「偶然会ったの」

『変な話聞かせるなよ』

「変な話ってなによ。ちなみにこっちは車で、郁実ちゃんも聞いてるからね、これ」

『えっ』



美菜さんが、促すように携帯を指さしてみせる。

えっ、どうしよう、えーと、えーと…。



「…もしもし」

『郁…』



お互い、人前でなにをしゃべっていいのかわからず、次の言葉が出てこない。

こちらの雰囲気がわからないぶん、健吾くんのほうがより困っているだろうなあと気の毒になった。



「あの、お仕事お疲れさま」

『…おう』



今日何時頃終わる? とか訊ける場面でもないし…ええと。

私、健吾くんとのこと、なんて美菜さんに説明したんだっけ。

地元の繋がり?

それってどんな距離よ。

参ったな、なにを話しても不自然になりそう。