「どうするかな…」

「ごめんね、巻き込んじゃって…」



車に戻ると、ハンドルに手を置いて、健吾くんが深い息をついた。

つい謝った私のほうを、ぱっと見る。



「郁は謝らなくていいよ」

「でも、どうしよう、あの子」

「会社で、飼える奴探してみるよ」

「明日の迎えは?」

「俺、午前中の会議が終わったら外出だから、そこで抜け出す」



10台ほどが停まれる駐車場には、私たちの車しかいない。

病院の外壁についている、淡いライトが車内を照らす。

すぐに車を出す気にならないらしく、健吾くんはエンジンだけかけて、なんだかぼんやりしている。

私も動揺続きで、頭が妙に冴えているような空回りしているような、おかしな感じだ。

健吾くんに借りたTシャツが、慣れない着心地で落ち着かない。



「今気づいたんだけどさあ」

「うん?」



どこを見ているふうでもなく、前方に視線をやって、健吾くんがつぶやいた。



「俺、玄関でぶつかったとき、郁の携帯持ってたはずなんだ」

「あっ、そうだ、私、置いてっちゃって…」

「でも今、持ってないんだ」



沈黙が下りた。

あの後、犬を抱えて部屋に上がって、バスタオルとか出して、病院を調べて、シャツを借りて、まだ飲んでなくてよかったと言いながら車まで走って、もういろいろとてんやわんやで記憶がごちゃごちゃしている。

健吾くんがシフトレバーに手を置いた。



「とりあえず、早く帰ろう、頭整理したい」

「あの」



その手に、自分の手を乗せる。



「…ごめんなさい」

「謝らなくていいって」

「犬じゃなくて、その前…」
私はうつむいてしまったので、健吾くんがどんな顔をしているのかはわからない。

でも私の下にあった手がするりと逃げて、上下を入れ替えるみたいに、今度は私の手の上に重ねられた。

と思ったら、めいっぱい握られた。



「痛ーい!」

「ほんとごめんだよ、このバカ」



反射的に手を引っ込めようとしたものの、レバーごと握り込まれて動かせない。

健吾くんは不機嫌な顔で、私を見ていた。



「確かに、郁にしたい話じゃないなと思ったし、それは郁がまだ幼くて、いろいろ知らないからって理由も、あるにはあるけど」

「うん…」

「でもそれは、郁の言う"ガキだから"みたいな、そんな乱暴な意味じゃないよ、わかってるだろ」



涙が出てきた。

少しでも動いたらこぼれてしまいそうで、まばたきをこらえる。

健吾くんの手が、私の手を優しく握り直した。



「ガキだからって郁が言うのと同じで、俺は大人だから、郁より郁のこと、見えちゃう部分もあるんだよ」



うん。



「郁によくないって思ったらブレーキかけるし、それが今の俺の役目だと思ってるよ。でも俺は別に、そういうの嫌じゃない」



ダメだ。

こぼれた。


健吾くんが困ったように眉をひそめて、シートベルトを外すと、こちらに腕を伸ばして、頭を抱き寄せてくれた。

涙が健吾くんのシャツに吸い取られていく。



「事実、郁はまだ高校生で、子供なんだから、そこを嫌がっても仕方ないだろ」

「でもね…」

「お前がなんか気にしてるの、わかってるよ。そういうのやめていいから。俺別に、郁が高校生なことに不満とかないから」



嗚咽がもれて、自分でびっくりした。

どうやら私、自覚していたよりも不安だったみたい。
本格的に泣きはじめた私を、よしよしと頭をなでてあやして、柔らかいキスをくれる。

涙が移ったのか、ちらっと自分の唇を舐めてから、またくっつけてきてくれたのが、なんだかすごく印象に残った。



「私のこと、追っかけようとしてくれてた?」

「そうだよ、一服して落ち着いてからな」

「なんでそこで一服」



笑うと、シートベルトをまた締めながら、「あのなあ」と怒ったような声を出して私をにらむ。



「偉そうなこと言ったけど、ただ単に、彼女に昔の女の話なんかしたくねえって心理がほとんどだよ、このくらいわかれよ」



思わずぽかんとしてしまった。

あ…そういうこと?

単に、そういうこと?



「あの、えーと…好奇心で訊いてごめんね?」

「まったくだ、ガキ!」



そんな言い方することないじゃん!

吐き捨てると健吾くんは、気持ちの余裕がなさすぎて鼻から突っ込んで停めた車を、いささか荒っぽくバックで出した。


横顔が、怒っている。

ように見えるけれど、きっとそうじゃなくて、照れている。

じいっと見る私に気づき、一瞬こちらを見てから、いかにも腹立たしそうに言った。



「いったい俺、ひとりで何役やればいいわけ?」



うん、ごめんね。

彼氏させたり保護者させたり、ほんとごめんね。



「今だけの辛抱だよ」

「ほんとだよ、早く大人になれ」

「うん」



でも私、初めて、もう少し子供でいたいなって思ってる。

この優しくて口の悪いお兄さんに、彼女扱いしてもらったりガキ扱いしてもらったりするのを、楽しみたいなって思ってるよ。


少しだけ煙草の匂いのする、健吾くんの車。

運転している姿を見るのが、実は大好きなので、じろじろと遠慮なく眺めていたら、いい加減気になったらしく、「見るな」と片手で視界をふさがれた。


その手のひらは、熱かった。


「でもね"早く大人になれ"なんて言ってもね、ガキなとこがかわいいよってもう声に書いてあってウフフ」

「声に書いてあんのか、すげえな」

「だから私、焦らないことにしたの。私の成長を待っててくれるって言ってくれたから、あれ、そんなこと言ってなくない?」

「ごめん、お前、気持ち悪い」



渋い顔をする靖人そっちのけで、しゃべりたいだけしゃべった。

私は基本お昼ご飯はひとりで食べるんだけど、今日ばかりは靖人を誘い、中庭のベンチで簡単なお弁当を広げている。

おにぎりと、タッパーに詰めた常備菜。

これが私のいつものお昼だ。



「まあ、お前の不安がなくなったんなら、よかったよ」

「靖人がそんなこと言ってくれるなんて、明日は雨かな」

「梅雨にその言い回しって意味あんの?」



靖人が食べているのは、おばさんの手作りのお弁当。

本当にいつもおいしそうで、崩れないようきっちり詰めてあって、彩りも綺麗だし、運動部の男の子が食べて嬉しいだろうなってものが入っている。



「それで、その犬どうすんの」

「健吾くんがもらい手を探してくれるって言ってる」

「にしたって、それまで飼うのも大変だろ、怪我してんだろ?」

「そうなんだよね…」



健康なときならまだしも、目を離せない子を健吾くんの部屋に置いておくことは、危なくてできない。

費用は痛いけど、シッターさんを頼むとか、考えないとダメかもねと健吾くんともゆうべ話した。

家におおむねシェパードのでっかいミックスのいる靖人が、うーんと膝の上で頬杖をついた。



「もしかしたらうちで預かれるかも」

「ほんと!?」

「うち母親、家にいるしさ。前にいたちっこいのの消耗品とか、まだあるし」

「え、ほんとにほんと? おばさんに訊いてみてもらえる?」

「いいよ、もちろん」



すぐ携帯を取り出して、その場で電話をかけてくれる。

うわあ、ありがとう、ありがとう。

持つべきものは靖人だって、今本気で思ってるよ。


隣で拝んでいると、私の携帯が震えた。

一瞬、靖人がかける先を間違ったのかと思ったんだけど、違った。



【助けて】



健吾くんだった。



「うわ…」

「どうしよう、郁」



前脚に白いテーピングを貼られた、小さくて茶色いむくむくしたものを膝に乗せ、健吾くんは「どうするよこれー」と見たこともないくらいデレデレしていた。

なんだこりゃ。



「やばい、動けない」

「会社どうしたの」

「離れらんないから午後休とった。明日死ぬけど仕方ない」



重症だ。

最後の授業が空き時間だったので、SOSもあったことだしと自習せずとっとと学校を後にしてきた私は、部屋に上がるなり目にした光景に言葉を失った。



「あの、健吾くん、動物飼ったことある?」

「ない。憧れてたけど」



危険…。

私はスクールバッグを隅に置いて、健吾くんの膝の上からくりっとした目をこちらに向けている犬に、そっと手を伸ばした。

小さな鼻の気が済むまで匂いをかがせてやる。

ぺろっと舐めてくれたところを見ると、合格したらしい。



「おいで」

「あー、脚が疲れた」



幸せそうに健吾くんが伸びをする。

ワンコは首回りのメガホンを邪魔そうにしながらも、おとなしく私に抱かれてくれた。



「ポメラニアンとパピヨンが入ってるって」

「なるほど。ほかにもなにか混ざってそうな感じだよね」

「保健所と警察も行ってきた。今のところ届け出はなし」

「お疲れさま、ありがとう」



捨てられちゃったのかね、お前。

かわいそうに。


病院でシャンプーと爪切りをしてくれたらしく、昨日よりだいぶ犬らしくなっている。

昨日はもう、ほぼ毛玉だった。


ちょっとくしゃっとした鼻面に、大きなリボンみたいな耳。

目の周りと耳と背中が濃い茶色で、そのほかは薄い茶色だ。
「かわいいなあ」



健吾くんが横から手を伸ばして、犬の顎の下をぐりぐりとなでる。

ここまでメロメロになるって、意外だなあ。



「あのね、もしかしたら靖人の家で預かってくれるかもって」

「え、ほんとか」

「大きな犬がいるんだけど、前に小型犬もいたの。飼い方わかってるから、安心だよね」

「だな」



ほっとしたように息をつく。

おばさんから、仕事中であるおじさんにも確認をしてくれているらしく、今はそれの返事待ちだ。

もしかしたらそろそろ連絡が来ている頃かも、とポケットを探ったら、ちょうど数分前にメッセージが届いていた。



「預かってくれるって!」



よかった、万歳!

犬がカツカツとメガホンをぶつけてくるのをよけながら、お礼の返信をしようとして、気がついた。

健吾くんが無言だ。

見ればなにやら、深刻な表情で固まっている。

まさか、手放したくないとか言いださないよね…。



「大丈夫ですか」



顔の前で手をひらひらさせると、はっとしたように「あ、うん」と背筋を伸ばす。

そして意を決したように言った。



「そうと決まれば、俺はもうそいつを抱かない」

「えっ、そんな極端な。抱っこくらいいいと思うよ、ほら」

「やめろ、こんな臨時の飼い主、懐かせたってかわいそうだろ」



ぎゅっと目を閉じて、犬を突っ返してくる。

どんな真面目さなの。

これは、早めに靖人の家に連れていってあげたほうが、本人にも健吾くんにもいいかもしれない。



「今日中に預けていいか、訊いてみるね」

「頼む。ケージとかひと通りそろってるから」

「健吾くんが買ったの?」

「だって病院で、必要だって言われたからさ。一気に全部そろえると、けっこうするな、やっぱり」
そういえば、手術代だって健吾くんが出したんだ。

10万じゃきかなかったはずだ。



「あの」

「そこは気にすんな」

「まだなにも言ってないんだけど」



健吾くんの膝に移りたがる犬をよしよしと引き止めていると、ふわふわした顔まわりの毛並を、健吾くんが指でくすぐった。

そうしながら私を見て、ふんと鼻を鳴らす。



「顔見りゃわかる」



最近これ言われたの、二回目。



「ほんと巻き込んじゃった…」

「大丈夫だよ、それなりに貯めてるし。さいわい郁も、金かかんない子だし」

「…金がかかったケースというのを、訊いたらダメ?」

「ダメ」



ちぇっ。

ふくれる私を、ちょっと微笑みながら、横目で見てくる。

こういう顔、かっこよくてずるい。



「そうだ、あのね、卒アル見たんだ」

「え、俺の?」

「うん」

「マジかよ」



恥ずかしそうに、頬杖の手で口元を隠す。



「陸上部だったんだね、種目なに?」

「短距離」



靖人、正解だ。



「中学のときも陸上?」

「そうだよ、球技とか好きじゃなかったから」

「なんで?」

「人と身体がぶつかるのが、なんか鬱で」



そういう理由で陸上選ぶ人っているんだ。
「審判へのアピールが必要だったりとか、相手との駆け引きで勝敗が決まるとか、そういうのも嫌で」

「なるほど」

「でも、体操は採点競技だろ、人の主観入るじゃん」

「自分の力で、自分の記録と戦う、みたいのがよかったんだ」

「そう言うとかっこよすぎるけど」



健吾くんの走るとこ、見たいなあ。

私がこれまで、健吾くんに部活や学校生活のことをあまり訊かなかったのには理由がある。

そういう話をすると、すごく自分に近いところでしか会話できないような、世界の狭さをさらしてしまいそうで嫌だったのだ。


ほんとはしたかった。

もうできる。

健吾くんが、私は高校生でいいんだって言ってくれたからね。



「大学のときの写真、ないの?」

「えー? あったかなあ…」



くしゃくしゃと髪をかきながら、携帯の中を探してくれる。

別にどんな話題だって、健吾くんが私をバカにしたりすることなんて、なかっただろうに。

私は結局、ひとりで意固地になっていただけだ。

ねえ、と心の中で犬に話しかけた。

犬、犬というのも殺風景なので、仮の名前くらいはあげたいけれど、健吾くんが嫌がるに違いない。



「あっ…」

「あった?」

「いや」



のぞき込んだ私から、あからさまに一度、画面を背けた。

どう考えてもわざと、さっと違う写真に切り替わった画面を前にして、お互い黙る。



「…なんで隠すの?」

「隠してない」

「あのね、嘘つくならもっと本気でついてよ」



これ以上渋るのも大人げないと思ったのか、写真をスライドさせて戻す私を、健吾くんは止めなかった。

出てきた写真を見ても、あれ健吾くんいないじゃん、となりかけて、いやいや、と気がつく。


飲み会かなあ?

3人の男の子が大笑いしながら写っている、真ん中が健吾くんだ。

一瞬、全然わからなかった。

髪の色が明るいし、今では絶対つけないようなバングルとか手首にはめてるし、そもそも全体になんていうか…。
「…あの」

「別に遊んでなかったし、普通だったし、みんなこんなもんだし」



なにその言い訳の勢い。

健吾くんて、大学は東京だったんだよね。

確かにみんなこんなものと言われれば、そうなのかもしれない。

でも…とりあえず、これは靖人には見せられない。



「4人"くらい"の謎の答えがここに…」

「違うって、見た目ちょっと浮ついてるけど、真面目だったよ」



なら、なんでそんな必死なの?

ごまかしている感じでもないので、たぶん本当なんだろうと思いつつ、そんな健吾くんが珍しくて、じろじろ見てしまう。



「これ、飲み会?」

「バイト終わりに店で遊んでるとこ」



ふうん…。

気を抜くと引っ込めようとしたがる健吾くんの手ごと携帯を握りしめて、じっくり見た。

うん、今とだいぶ雰囲気は違うけど、やっぱりかっこいいよ、これはこれで。



「…なに?」

「ん? かっこいいなあって」

「あ、そう」

「なんで信じないの? かっこいいと思うからこういう恰好してたんじゃないの? どう見てもモテたでしょ、これ?」

「…まだ人生に黒歴史のない奴って、残酷だよな」

「私にだって恥ずかしい過去くらいありますー」



言い争いが始まりかけたところで、いきなり犬がキャンと吠えた。



「わっ、びっくりした、よしよし」

「あ、腹減ったのかな」

「無視されて腹立ったんじゃない?」

「そういうこともあんの?」



あるよお。

私は自分で飼ったこそないけれど、靖人の家の犬と一緒に育ったので、彼らの心理についてはちょっとくらいならわかる。