「郁」



健吾くんの手が、おしぼりを外させる。

涙で煙った視界の中、想像と同じ微笑みが、私に向けられている。



「がんばろうな、俺たち」



もう、こんなときに。

こんなときに、こんなに好きにさせて、どうする気だ。


健吾くん、私、やってみるね。

これが正解かなんてわからないけど、私以外の誰だって、そんなのわからないわけだし。

とにかくやってみる。


お店の前で、私はバス停へ、向こうは駅へと別れることになった。

ふと手を取って、顔を寄せた健吾くんが、「やーめた」とまた離れていく。

当然ながらキスを待っていた私は、えっ、と慌てた。

これから当分できないのに。

そんな思いは、くっきりと顔に書かれているんだろう、健吾くんが私をじろじろと見て、ふんと鼻で笑う。



「半年、俺とのキス恋しがってろ、バァカ」

「なにその気の長い焦らし!」



ほがらかな声をあげて笑い、健吾くんは駅のほうに足を向けた。

夏の夜の始まりの、まだ昼の熱さを残した街並みの中。

片手に鞄、もう片方の手はポケット。

嫌になるほど、いつもの健吾くん。



「またな」



一度だけ振り返って、そう言ってくれる。

私が手を振ると、にこっと笑う。


その姿は、やがて角を曲がって見えなくなった。

私もバス停に向けて歩きだした。


さて、これからだね、郁。


空の端っこに、まだ夕方の名残の紫色が揺らめいている。

足取りは次第に早まり、気がつくと私は走っていた。

バス停を無視して、そのまま走った。


土手の階段を駆け上がって、バス通りと平行して走る、川べりの道にのぼる。

バスが追いついてくるまで走ろう。


足元にはきらきらした水面。

見渡す限り、あたりには私しかいない。

むくむくと言葉が、胸から喉を通って湧き上がってきた。


健吾くん、好きだ。

私、がんばる。

がんばるよ、郁。


──がんばるよ!