「ドタキャンすんなよ」

「あんたのせいで、夏のアバンチュールが消えたかも」

「卒業までねえんだろ?」

「嬉しそうだね」



否定も肯定もせず、薄く笑って頬杖をついている。

なにがそんなに楽しいんだ。



「しよ、ってかわいく言えばいいじゃん」

「いいんだって、健吾くんがもう、しないって言ってるんだから。てか教室でそういう話しないで」

「つまりは、ガキじゃ物足りないってことじゃね?」



私は身体ごと後ろを向くと、靖人の机の端を、ぐいと向こうに押すように持ち上げた。

傾いた机から、中身がざーっとこぼれ出る。



「てめ!」

「最低、ざまみろ」



教科書やらノートやらで足元を埋め尽くした靖人が、仕返しに椅子の脚を蹴ってきた。

拾うのを手伝いもせず、後ろから聞こえてくる悪態を無視した。

ふん。

と、そのとき携帯が震えた。





「健吾くん!」

「そんな走るなよ、まだ時間あるし」

「びっくりした、電話嬉しかったよ」

「そ?」



待ち合わせた、学校の近くの喫茶店のドアを開けながら、スーツ姿の健吾くんがにこりと微笑む。

たまたま仕事で近くまで来たからと、電話をくれたのだ。



『すぐ出てこられるんなら、なんかおごってやるよ』



靖人の教科書を踏んづけながら教室を飛び出したのは、言うまでもない。
「いらっしゃいませ、お煙草はお吸いになりますか」

「あ、いや…」

「喫煙席お願いします」



昔懐かしい感じの喫茶店で、きっぱり言った私に、店員さんが愛想よくうなずいた。



「制服、においつくぞ」

「帰ったらすぐ消臭するから大丈夫」

「俺、ほんとに吸うぞ?」

「いいよ」



ソファ席に着くと、ためらいがちに煙草を取り出す。

ワイシャツの胸ポケットに入れているので、取るときにスーツの胸元に指を入れるのが、ビジネスマンて感じでかっこいい。

パッケージの中に突っ込んでいる100円ライターを出して、机に置いて、一本指で抜き取る。

くわえる前に、再度私にちらっと目をやって、謝意を伝えてきた。


唇に煙草を挟んで、ライターを近づけて、一瞬で火をつける。

何度見ても、大人っぽくて男らしくて、ドキドキする儀式。

少し伏せた目の、長いまつげが見える。

健吾くんは、どれだけ恋しかったのって感じに深々と最初のひと吸いをすると、私にかからないよう、煙を横に吐いた。



「ケーキ頼んでもいい?」

「なんでも頼んでいいよ、俺もなにか甘いもの食お」

「なにかいいことあったの?」



煙草を吸いながら、健吾くんが問いかけるように眉を上げる。



「なんか機嫌いいもん」

「わかるか、今まさに、でかい発注をもらってきたとこでさ」



あ、これは放っといたら語るな。

普段はそんなに長々としゃべることのない彼だけれど、たまにスイッチが入ると、熱く語りだす。

たいていは仕事のことで、まれにプロ野球のことだったりする。

予想通り、健吾くんはご機嫌に、いかに今回の受注が難産だったかを話してくれた。



「で、最初は後輩の案件だったんだけど、途中からやばいってんで俺が代わって、先輩まで加わって」

「お祝いしようよ、ごちそうつくるよ」

「あ、悪い、今日はそれのお疲れ会で、飲みなんだ」



全然悪いと思っていない様子で、にこにこして言う。

私がむくれて黙ったのに気づいて、ようやくすまなそうに「ごめん」と言った。
「うちでは、学校で賞もらったりしたときには、夕食は好きなものでお祝いしたよ」

「そりゃ、学校はチームじゃないからなあ」

「会社はチームなの?」



営業は超個人主義だって、前に言ってたじゃないか。

二本目に火をつけながら、健吾くんが微笑んだ。



「チームだよ」

「サポーターは打ち上げには参加できないもんね」

「なにすねてんだよ」

「私だって健吾くんに嬉しいことあったら、一緒に喜びたいよ」



濃いオレンジジュースのクラッシュアイスをざくざくとストローでかき回しながら、ついふてくされた声を出した。

健吾くんが一瞬きょとんとして、それから笑う。



「俺もだよ。だから、こうして会ってんだろ」



ああ、ずるい、ずるい。

そんな一言で、ちょっと反抗的になっていた私の心は、雲の上まで浮上する。

仕事中に、私のことをちらっとでも考えてくれただけで嬉しいよ。

電話して呼び出してくれるなんて、熱が出そうなくらい嬉しい。



「あれ、ちょっと失礼」



胸ポケットから携帯を出すと、健吾くんは低めた声で素早い会話をし、「すぐ戻る」と簡潔に言ってまた携帯をしまった。

仕事の声、って感じだ。



「悪い、会社戻んないと」

「ううん、お疲れさま」

「今日は部屋来るなよ、遅くなるから」



伝票を取り上げて、きびきびした動作であっさり行ってしまう。

急に味気なくなったケーキをつついていると、頭の中に靖人の声が響いてきた。


──ガキじゃ物足りないってことじゃね?


バカ靖人。

よけいなお世話だよ。

それでも好きなんだよ、ほっといて。


物足りないだろうと思うよ、そりゃさぞかしいろいろ足りてないよ、こんなただの女子高生。


そんなのねえ。

私だって、痛いくらい感じてるよ。

健吾くんとの出会いは、居酒屋。

2年生のとき、私はちょっとやさぐれていて、自分に許される範囲で素行不良な子になってみようと試みたのだ。

ネットで繋がった女の子たちと飲みに行く、という当時思いつくことのできた中では最大の悪行をし、結果から言えば挫折した。


私を含め4人で、全員高校生だったんだけど、居酒屋に入るということで大学生を装って、会話もそれに合わせてなりきるといううすら寒いことをしていた。

もとが"学校に居場所ない子絡んでください"的な繋がりだったので、テレビとか漫画とか音楽なんかの話で十分盛り上がれたのだ。


するとお座敷の隣の席で飲んでいた、本物の大学生の男の人たちに目をつけられた。

私以外の子は、かわいくてきらきらした女子力満載の恰好をしていたため、先にそっちがターゲットになり、あぶれたひとりがやむなくという感じで私にまとわりつきはじめる。



『この後どっか行こうよ』

『や、帰ります』

『えー、そんなのつまんなくない? 俺けっこう楽しませるよ?』



うざいし、怖いよう。

やっぱりこんなことするんじゃなかった。

女の子たちとのおしゃべりは楽しかったけど、お酒はまずいしお金は出ていくし、社会勉強と割り切るにも高くつきすぎだ。

年齢を詐称している手前、店員さんに苦情として伝えることもできず、私たちのささやかな集いの場は大学生の蹂躙を許していた。



『ほかの子たち、もう酔っ払っちゃってるしさ、消えちゃお』

『いや、みんなで帰りますよ』

『なに言ってんの、見てみなよ』



見てみたら、ほんとにみんなベロンベロンだった。

というか、喜んでそうなっているように見えた。

めいめい気に入る相手を見つけ、しなだれかかっている。

おい!



『ほら、俺たちもいいとこ行こう』

『おうち帰ります…』

『初回限定で、俺おごるよ?』



なんの話ですか。

これもう、ついてっちゃったほうがいろいろ楽なのかなと半泣きになりながら負けそうになったとき、急に知らない声がした。



『"いく"、お待たせ』
ぐいと腕を引っ張られ、お座敷の上で転がりそうになる。

なおも容赦なく私を引っ張り、ピンク色の気配が漂いはじめた掘りごたつ席から私を引きずり出したのは、凛々しいスーツ姿の男の人だった。

テーブル席のほうにいたらしく、お座敷の上がり框に腰かけて、こちらに手を伸ばしている。

これが健吾くんだ。



『やっとこっち終わったから、行こう』

『え、あの…』



有無を言わさず私の手をとり、コートとバッグを持たせた。

無視された大学生が、ここでようやく『この人、知り合い?』と怪訝そうな目を私に向けてくる。

早く逃げようと必死で靴を履く私の横で、脚を組んで待つ健吾くんが、冷ややかに振り返った。



『え?』

『…なんでもないです』



相手はどう見ても社会人だ、完敗だろう。

お店を出ると、冬の空気に冷やされて、ほっとした。

慣れないことはするものじゃない。



『あれ? 私、お会計…』

『あ、大丈夫、大丈夫』



駅のほうに向かいながら、健吾くんがひらひらと手を振る。

なにが大丈夫なんだろう。

まさか代わりに払ってくれたのか。



『あの男の子たち、テーブルに財布出しっぱなしだったからさ。その中から支払っといた』

『え、私たちの分もですか』

『分を、だな。あいつらの会計なんか知らねーもん』



なんと…。

私はこの世慣れたサラリーマンのことが、気になりはじめていた。

見た感じ、あの学生さんたちとそう年齢も変わらなそうだけど、やっぱり社会に出ているせいなのか、すごく落ち着いて見える。



『あの、ありがとうございました』

『今度から気をつけなね、このへん連れ込む場所多いんだから、自衛しないとアウトだよ』
そう言って、ひょいと親指で指した先には、建物の入り口が、淡い紫色に光っていた。

そうか、このあたりはそういう場所だったのか。

壁に値段が書いてあったので、思わずまじまじと見て、それが高いのか安いのかよくわからず、とりあえずあの男の人はこれを初回無料にする気だったんだな、と納得した。



『なにチェックしてんの』

『いや、見慣れなくて』

『あ、使ったことないんだ?』



使ったことというか、そういう行為そのものもですね…とここで説明するのも気が引けて、こくんとうなずく。

健吾くんは、片手をポケットに入れた姿勢で、私を上から下までさっと見ると、なんのためらいもなく尋ねた。



『入ってみたい?』



…回想していて思ったんだけど、この健吾くんは、それはそれでなかなかなんというか、アレじゃないか?

でも後から聞いたところによると、この時点では、下心はいっさいなかったんだって、ほんとに。

なんとなく面白そうだと思って、そう訊いてみただけ、らしい。


でもなあ、訊き方がもう、うますぎるよな。

もしこれが、『入ってみる?』だったら、私は『いや、いいです』と首を振っただろう。

でも、入ってみたいかと訊かれたら、そりゃあ興味はあるから、うん入ってみたい、となる。

そんなわけで、再度うなずくのに、なんの葛藤も必要なく、そんな私に健吾くんは、実に爽やかに笑いかけた。



『じゃ、コンビニ寄ってこ』





「この間のシュークリーム、どこの?」

「学校の裏のケーキ屋さん」

「イートインのあるとこ?」

「それ、ちょっと前ね。最近お店が入れ替わって、テイクアウトだけになったんだよ」



うわあーと兄が嘆いた。

お風呂上がりのタオルを首にかけて、冷蔵庫の中を眺めている。

やがて缶ビールをひとつ取り出すと、リビングにやってきてソファに身を沈めた。
「ダメだ、俺、最近リサーチ不足」

「忙しいもん、仕方ないよ」

「そんなことは言い訳にならないわけよ」

「大人の世界では」

「そう」



ビールをおいしそうに飲んで、ふあーと息をつく。

高校の頃からバイトをしていた飲食店に、卒業後そのまま勤め、二年前に調理師免許をとった。

母が生きていた頃は、兄がそんな道に進むとは想像もしなかった。

たぶん兄本人もそうに違いない。



「おいしかったでしょ」

「うん、素朴で」

「また持って帰ってくるよ」

「え、どこから?」



わわわ。

カーペットに座っている私は、見下ろされているのを感じながら、この焦りが伝わりませんようにと祈った。



「買って帰ってくるって意味」

「あ、そっか、よろしく」



ぽんぽんと頭を叩くついでに、私のやっているテキストをのぞき込んで「そこ間違ってるぞ」とすぐ指さした。



「えっ」

「awayは前置詞としては使わない、答えは副詞」

「あれ、じゃあその次は?」

「そこは合ってるよ、そのdownはbrokeにかかる副詞」

「…その次は?」

「それは…おい、基礎的なことがわかってない気配があるな」



うっ。

兄が私の隣に下りてきてくれる。



「英語は鬼門で…」

「今からなら間に合うから、1年のテキストから勉強し直せ。受験英語が中学英語と違うのは、勘と雰囲気じゃ太刀打ちできないってとこなんだから」



私の手からシャーペンを取って、テキストに書き込みはじめる。



「ほら、こうやって書き換えられるだろ、これが成立すれば副詞と考えてよくて…」
母が亡くなったのは、兄が高校1年のときだ。

その時点で彼は、もう自分が受験をすることはないとわかっていたに違いない。

まだ中学にも上がらない私を抱えて、家のこともお金のことも妹のことも考えなきゃならなくて、自分を後回しにすると決めた兄。


大学に行きたかったと思う。

私たちの父は銀行マンだった。

画用紙で作った鞄とネクタイで、その父の真似をして並んでいる小さな兄の写真が残っている。


卒業して4年もたつのに、こうやって高3の勉強を見ることができるなんて、当時どれだけ真面目にやっていたかの証拠だ。

受験という目的もなかったのに。

いったいどんな気持ちで、毎日高校に通っていたんだろう。



「でもこれは、目的語が名詞の場合のときだけで…っておい、聞いてるのか」

「聞き惚れてるよ」

「落ちるぞ」

「それだけは言わないでえ!」

「泣くくらいなら勉強!」

「してるって、ばっちりなんだって英語を除けば」

「それはばっちりとは言わない」

「鬼!」



半分くらい本気で罵る私を、兄は笑ってからかった。





「1年のときのサイドリーダーって持ってる?」

「いやー、捨てたなあ、なんで?」



昼休みにみんなとバスケに行こうとする靖人を引き止めて訊いた。



「そこからやり直せってお兄ちゃんに言われてさ、教科書とノートはあったんだけど、サイドリーダーがなくて」

「誰か持ってんじゃね? おーい」



ボールをぶつけ合いながら出て行こうとしていた男の子たちに、靖人が声をかけた。



「俺持ってるから、あげるよ」

「いやでもお前、英語できるじゃん? もっとバカな奴のほうが保存状態いいと思うんだよね、お前とかどう」

「お察しの通り、新品同様だったから売ったわ」

「売れんの、あれ?」
みんないろいろだ。

最終的に、ひとりが電子化してあると言いだし、そのpdfデータをもらえることになった。

デジタルネイティブ! という尊敬の声が飛び交う。

無線部のその子は、ボールを両手の中指の間でしゅるしゅると回しながら「後でなにかに使うかなーと思ってさ」と答えた。



「そこそこサイズあるから、USBメモリに入れて持ってくるよ」

「すごい、ありがとう、助かる」



するとやりとりを聞いていたほかの子が、はいと手をあげた。



「俺もそれ見せてもらっていい? 英語、行き詰まっててさ。1年のからやり直すって、ありかも」



教室内から、私も、俺も、という声が次々あがる。

無線部くんがざっと希望者の数を確認して、小さく息をついた。



「やっぱサーバに上げるわ。URLはアドレスわかる奴にだけ送るから、適当にみんなで共有して」



わーい、と拍手が出る。

のんびりして見えて、みんなやっぱり2年のときとは違う。

受験生であることを、いつだって意識して過ごしている。

上の中くらいのこの高校でさえ、こうなんだから。

トップクラスの高校に通っていた兄が、どんな思いで教室にいたのか、考えるだけで胸が痛くなった。





「お、やってんな受験生」

「受験生って呼ばないで」

「高校3年生」

「変わんないよ!」



健吾くんの部屋で勉強していたら、主が軽いお酒の気配と共に帰ってきた。

今日は兄が明日の昼まで帰ってこないので、泊まれるのだ。

ここに常備してある部屋着に着替え、前髪を全部ヘアバンドで上げて一心不乱に問題集を埋める私を、健吾くんがくすっと笑った。



「珍しいじゃん、俺んちでそこまで集中してるの」

「うー、終わった、え、なに?」

「試験前?」

「月イチで模試だもん、常になにかしらの試験前だよ」

「あー、そんなだったっけなあ」