「青井さんじゃないけど、気づいてなかったとは言わせないぜ。まさにお前は、気づいたら厄介だから、気づかないふりしてたんだ。さらに言うなら」



ペンダントをいじりながら続ける。



「お前は俺が、お前の気持ちを考えて絶対に口に出さないと踏んでた。だから安心してたんだろ。残念だったな」



挑発するみたいに笑って、靖人はぐいと私に顔を近づけた。



「これまで俺になにをしてきたか、よく考えろ」



とっさに身体を引いて、あっと思った。

首の後ろに、ブツッと切れる感触が走る。

はらりとTシャツの上をすべって地面に落ちた華奢なチェーンを、私も靖人も、手も出せずに見ていた。

なにもついていない喉に、無意識に手をやる。

やがて拾い上げたのは靖人のほうだった。



「…返して」

「嫌だ」



嘘。

健吾くんからもらった、大事なペンダント。

思わず掴みかかった。



「返してよ」

「こんなのがないと不安か。あれば安心なのかよ」

「靖人に関係ないでしょ、返して!」

「嫌だ」



握った手を、どうやっても開いてくれない。

私は苛立って、焦って、不安で、いつの間にか泣いていた。

靖人の手に爪を立てる、その指に涙が落ちた。


なんで、なんで、靖人。

厳しくても、いつだって私の味方だったのに。



「う──…」



ぼろぼろと涙をこぼしながら、靖人の手を握りしめた。

ふいに靖人の身体が近づいて、反対の手が私を抱き寄せた。

きつく抱きしめられて、肩越しに月の明かりが見える。



「ごめんな、俺、もうただのお隣さんには戻ってやれない」
初戦で勝利した、あの日。

あのときの腕の熱さと、全然違う。

靖人と自分の身体の間で、靖人の片手を握ったまま、私はなんの反応もできず、ただ靖人の腕の中にいた。



「好きだよ、郁実」



かろうじて聞こえるような、ささやかな声で。

感情を抑えきれないような、震えた音で。

「好きだ」ともう一度言われるのを、耳元で聞いて。

靖人の鼓動を、手に感じていた。





『へえ、俺らの頃、そんな施設なかったなあ』

「そうなんだ、クラス合宿もなかった?」

『あったよ。柔道場とかで雑魚寝してた。今思えば、男だけのクラスだからできたことだよな』



確かに。



『で、今はなんの時間?』

「みんなもう布団に入ってる」

『早いな』

「学校行事だもん。でも寝てはいないよ、しゃべってる」

『郁も輪に入っといで。大事な機会だろ』

「少ししたらね」



しんと静まったロビーのソファで、スリッパを足の先でぶらぶらさせた。



「美菜さんと、会社で会った?」

『うん、そりゃな。席向かいだし』

「なにか話した?」

『仕事以外のことはなにも。ちゃんと話したいけど、会社でできる話じゃないし、飲みに誘うのも変な話だし、正直どうしたらいいか、けっこう悩んでる…』

「美菜さんは、どんな感じ?」

『ざまあみろって顔してる』



力ない声に、笑ってしまった。

美菜さんらしい。



「じゃあ、そろそろ戻ろうかな」

『俺、来週、実家に泊まるんだ。その前に会えたら会おうな』

「海行きたいなあー、健吾くんだけ水着で」

『なんで俺だけなんだよ、ふざけんな』

「ケチ」



熱をもった携帯を握りしめて、膝を抱えた。


信じてるよ。

信じてる。
でも不安はあるよ、いつだって。

しょうがないじゃない、それとこれとは別なんだよ。

そんなこと言うなら、どうしたらいいのか教えてよ。


健吾くんに悟られないよう、手の甲で涙を拭いた。



『じゃ、おやすみ。ハメ外しすぎんなよ』

「うん、おやすみ」



…挨拶を交わした後も、なぜか向こうが切らない。

どうしたんだろうと首をひねっていると、案じるような声がする。



『郁、なにかあった?』

「え…」

『用もないのにかけてくるとか珍しいし、ちょっと元気ないし』



喉が詰まるほど涙が溢れた。



「…大丈夫、合宿で変なテンションになってるだけ」



様子を探るような間の後で、『そっか』と私の嘘を許してくれる。



『ちゃんと楽しめよ、じゃあな』

「うん」



大好きだよ、健吾くん。

でも靖人の言葉を否定できない。

健吾くんが本気なわけないって、私、確かにそう思っている。

優しいし、かわいがってくれるけど、じゃあ私に恋してるかって言ったら、それは違う気がしている。


でもそれでもいいんだよ。

私には十分。

そう思うのに、不安にはなるの。

ほんと勝手だ。


──ないと不安か。あれば安心なのかよ。


バカ靖人。

あったって不安だよ、決まってるでしょ。

でもないよりいいの。


なにがあれば安心できるんだろう。

どこまで欲しがるつもりなんだろう。



「健吾くん、ごめん…」



切れた携帯を握って、抱えた膝に顔を埋めて、いったいなにに謝っているのかもよくわからないまま、ごめんなさい、と何度もつぶやいた。



健吾くんが初めて”好き”と言ってくれたのは、けっこう前。

つきあうことになって、わりとすぐの頃だった。


その頃、私はまだ勢いがあって、怖いものなんてなかったので、しょっちゅう健吾くんに好き好き言っていた。

健吾くんはあきれつつ、でも楽しそうに笑って、いつも『はいはい』とか『ありがと』とか言いながら聞いてくれていた。



『はい、そこで着替えない』

『それ、なんでなの?』



始まりが始まりだっただけに、この人の前で隠すものなんかもうないだろうと考えていた私に対し、健吾くんは厳しかった。

堅物の女教師よろしく、肌を出すな、見えるところで着替えるな、風呂上がりには服を着てから出てこいと口うるさい。

ちょっと制服を脱いで、スエットをかぶろうと思っていただけの私は、このくらいいいじゃんと思いつつバスルームに向かった。



『当然の節度だろ』

『エッチしてない男女のってこと?』

『そう』

『じゃあ、そろそろしようよ』



着替えて部屋に戻ると、たまに買って帰ってくる漫画雑誌を読みながら、健吾くんが『ダメ』ときっぱり言う。

そのときはまだ、卒業まではしないというルールが明確じゃなかったので、私はいつそのときが来るのかなと正直、会うたび楽しみにしていたのだ。

当然、ほんとに私のこと好き? となる。

使ってみたかったんだね、そういうフレーズ。

背後から抱きつき、雑誌をのぞく。



『健吾くん、大好き』

『そっか』

『健吾くんは?』

『うん』

『うんじゃなくて』



体重をかけて、わかりやすくせがむ。

ずいぶん長いこと同じページを読んでるな、と思われた健吾くんは、やがて顔を上げ、私のほうを振り返り。



『好きだよ』



そう微笑んで、軽いキスをくれたのだった。

初めてもらった言葉に、私は舞い上がった。

今思えば、あの頃は素直に、いろんなことを信じられた。

ひたすら健吾くんだけ見ていれば、幸せだった。



【早く帰れるけど、来る?】



ある日の午後、勉強をしに図書館に行こうとしていたとき、そんな連絡が来た。

私は飛びついて、もちろん行く、と返事をしかけて、危ういところで思いとどまった。

会いたい、けど。



【夜まで勉強したいから、やめとく、ごめん】



泣きたい気持ちでそう返した。

健吾くんからはすぐに【そっか、お疲れ】と来た。

会いたい。

でも、ペンダントをしていない理由を説明できない。



「あら、郁実ちゃん」



玄関を出たところで、前庭を掃除していた靖人のおばさんに声をかけられた。

思わずぎくっとして、靖人がいないか確認してしまう。

いなかった。



「今日うちラーメンなのよ、来ない?」

「あ…」



靖人のおばさんは、絞めたばかりの烏骨鶏が手に入ると、スープからラーメンを作る。

これが絶品で、何杯でも飲み干せるくらいおいしいので、ラーメンの日にはお呼ばれすることが多い。



「あの、今日はちょっと用事があって」

「あらあ、残念」

「私も残念」



手を振ってから、バス停に走った。

合宿の後、靖人とは話していないし会ってもいない。

隣の家といっても、学校もない今、偶然顔を合わせることもなく、でも部屋の窓から、靖人の部屋が見える。

カーテン越しに、電気がついたり消えたりするのがわかる。

当たり前のように思っていたその距離を、初めて近すぎると感じた。



「お…おお?」

「わっ、郁実ちゃん…」



図書館で、仲よく勉強しているカップルがいるなと思ったら。

女の子のほうはなっちゃんで、男の子のほうは、まさかの…。
「番場くん」

「あ、郁実ちゃん、なんか飲もうよ、あっちで」



私が番場くんと会話を交わす前に、なっちゃんが引きずるようにして休憩スペースへと連れていった。



「ごめんね、くじ交換してもらっときながら!」

「いやいや、謝られることひとつもないし」



なぜかおごってくれたヨーグルトドリンクを飲みながら、手を合わせるなっちゃんを慌ててやめさせる。



「つきあってるの? よかったじゃん、番場くん面白いし」

「ううん、まだそこまではいってないんだけど」



なっちゃんは赤い顔を上げ、恥ずかしそうに笑う。



「1年生のときから好きだったって言ってくれて、でも私好きな人がいるって言ったら、それでもいいから、休み中も会いたいって」



番場くん、積極的!

バレー部と落語研究会を兼部、というわけのわからないステータスそのままに、爽やかで愉快なムードメーカーだ。



「小瀧くんは望みないってわかってたし、ちょっと、一緒に過ごしてみようかなって」

「え、望みないって、なんで?」

「だって小瀧くん、郁実ちゃんのこと好きでしょ」

「え!」



私は焦った。



「あれ、な、なんで、聞こえてた?」

「えっ、なにが?」



なっちゃんがきょとんとする。

あれ?



「あの…誰がそう言ってたの?」

「誰も言ってないけど、一目瞭然だよ。小瀧くんがあんなふうにかまうの、郁実ちゃんだけだもん」



そ、そうだった…?

私、靖人のなにを見ていたんだろう。



「片想いでもよかったんだけどね。番場くんの一生懸命なの見てたら、想われるのっていいなあって、やっぱり思って」
恥ずかしそうにそう言って笑うのを、心底うらやましく思った。

自分の気持ちに素直になれて、相手のことも信じられて。

それが一番幸せだよ、絶対。

どっちもできない私は、どうしたらいいんだろう。



「郁実ちゃんは、小瀧くんとつきあわないの?」

「え…」

「あんなに仲いいのに」



本心から不思議なんだろう、首をかしげてそう訊いてくる。

どう答えたものか迷い、ドリンクを一口すすった。



「私…好きな人がいて」

「そうなんだ! え、クラス内?」

「いや、全然違うとこ、校内ですらない…」

「他校の子かあ」



予備校も行っていない私に、どこで他校との出会いがあるんだと自分で突っ込みつつ、それ以上否定もできなくて、曖昧に濁した。

なっちゃんは腕を組んで、うんうんとひとりで納得している。



「そうかあ、小瀧くんは失恋かあ」

「ええっと…」

「まあ、なんでもうまくいくわけじゃないもんね、郁実ちゃんは自分の恋をがんばらないと。微力ながら応援するよ!」



ばしばしと私の背中を叩いて、なっちゃんは番場くんのもとへと戻っていった。

残りのドリンクを飲みながら、どこで勉強しようか悩んだ。

そんなに大きくない図書館なので、どこにいようと彼らの邪魔をしてしまいそうで気をつかう。

用事があると靖人のお母さんに言ってしまった以上、家にいるわけにもいかないし、勉強を理由に健吾くんの誘いを断った以上、バイトするのも気が引ける。


なんだこれ、と悲しくなった。

どこにも居場所がない。

私が悪いのか。

喉の奥が熱くなって、ドリンクが苦く感じる。


私が悪いのか。





バス停からの道を、家まで走った。

小雨がむき出しの腕を濡らす。

ゆっくりしていたら本降りになりそうな、そんな予感のする雨だ。
結局、ノートを広げていても怒られない喫茶店やファミレスを渡り歩き、ドリンクでおなかをがぼがぼにした一日だった。

歯車がうまく噛み合わない、そんな日。

ようやく家の門をくぐったとき、入れ違いのように隣の家の玄関が開いた。



「どこだって?」



ぎくっとした。

靖人だった。

もう暗い前庭に、家の中の明かりで影ができる。



「あっち? 一番高いやつ?」



たぶんおばさんだろう、会話の相手の声は聞こえない。

家の中とちょっとやりとりしてから、靖人は雨で濡れた前庭を突っ切ると、道路と敷地を隔てる塀によじ登り、そこから庭に枝を張っているセンダンの木に飛び移った。

薄闇の中、葉っぱががさがさと揺れる。

なにをしているのかと、家に入るのも忘れて思わず見守った。

やがておばさんが玄関から顔を出し、それと同時に靖人がひらりと枝から飛び降りるのが見えた。

手になにかを持っている。



「あー助かったわあ、風強かったねえ、今日」

「俺のじゃん、これ」

「そうよ、だからそのままじゃ恥ずかしいと思って」

「先に言えよ!」



おばさんがぺろんと広げて見せたのは、トランクスだった。

靖人が慌ててそれを取り上げる。



「ねえ、後でスープとチャーシューの残り、郁実ちゃんに届けてあげてくれない?」

「用事があるって言ってたんだろ? 食ってくるんじゃねえの」

「明日だっておいしく食べられるもの」



はいはい、と靖人が言ったような気がしたけれど、もうふたりが家の中に入ってしまった後で、よく聞こえなかった。

靖人はたぶん、私が健吾くんの家に行ったと思っている。

こんなところで、雨に濡れてこそこそ身を隠しているなんて、思いもしていないに違いない。


家にいたら、靖人が来てしまう。

部屋に入ったらすぐ、そのことが向こうにわかってしまう。


靖人の家の玄関が閉まったのを確認して、その場を離れた。


──想われるのって、いいなあって
わかるよなっちゃん、私も憧れる。

でも今、すっごくつらい。

なんで私、靖人から逃げなきゃいけないんだろう。

会いたいのに。


でも私が会いたい靖人は、これまでの靖人なんだよ。

もう戻ってこない、私がなにも知らなかったときの靖人。


今の靖人には、会えない。

それがさみしい。





インタホンに指をかけて、引っ込めた。

そんなことを何度か繰り返し、やっぱり帰ろうと思い直す。


せっかく早く帰ってきたんなら、たまにはゆっくり休んでほしい。

部屋の中は明かりがついていて、健吾くんがいるのがわかる。

なにもない喉元に手をやって、冬だったら服で隠しようがあったのにと、しょうもないことを考えた。


そのとき、ドアが開いた。

出てきた健吾くんが、目の前にいた私に気づき、ぎょっとして足を止める。



「びっくりした、なんだ、郁か!」



本気で驚いたらしく、スーツ姿の胸を押さえている。

帰ってきたばかりなんだろうか。



「上がれよ、どうした?」

「あの…でも、どこか行くとこだった?」

「コンビニ行ってくるだけだよ。煙草切らしてんの忘れてて。お前、濡れてんじゃん、上がってシャワー浴びてろよ」



頭をくしゃっとされて、そのなじみのある感触にほっとして。

安心したら、泣けてきた。



「おい…郁?」

「ごめん、あの、やっぱり帰る」

「郁」



腕を掴んで引き戻される。

健吾くんが私の顔をのぞき込んで、優しく笑う。



「勉強、うまくいかなかったか?」