「こら、そこで着替えるな」

「あれっ、もう行ったと思ってた」

「ゴミ捨ててきただけだよ、見えないとこ行け、ほら」



スカートのホックを留めようとしていた私をしっしっとバスルームに追いやると、健吾(けんご)くんはぴしゃりとドアを閉めた。

しまった、気を抜いちゃった。


スカートの中に手を入れて、Tシャツの収まり具合を直し、鏡で顔をチェックする。

学校で禁止されていなくても、メイクはしない。

健吾くんが嫌うからでもあり、別にいらないと私自身が感じているからでもある。


ドアが軽くノックされ、健吾くんの声がした。



「行ってくる、鍵よろしくな」

「待って、私も出る」

「あ、そうなの?」



そっと引き戸を開けると、行かずに待っていてくれている。


濃いネイビーのスーツに明るいブルーのネクタイ。

白い清潔なワイシャツ。

私を軽く見下ろす背の高さで、すなわち175㎝くらい。

"男女の理想の身長差は15㎝"が本当なら、私たちはまさしくそれだ。


顔は、本人もちょっと気にしていて、形容するなら"かわいい"と"かっこいい"の間。

の、限りなく"かわいい"寄り。

彼いわく、もっと男らしくなりたかったというか、なれると思っていたらしい。



『よく考えたら根拠なかった』



そう言って見せてくれたご両親の写真は、ふたりともやっぱり、かわいらしい顔立ちをしていた。

ぱっちりした二重の目に、形のいい鼻、涼しげに整った唇。


生島(いくしま)健吾くん。

24歳の社会人。

どういうわけか、女子高生であるこの私と、こうしてたまに同じベッドで寝たりする関係にある。
「どした?」



1階に下りたところで、健吾くんが不思議そうに私を振り返った。

エレベーターの中で、私がずっと、彼の後ろに隠れるようにしていたからだ。



「他に人がいたから」

「いたから、なんだよ」

「…まずいかなとか」



健吾くんはぽかんとして、それから楽しそうに笑った。



「いちいちそんな詮索するほど、みんな暇じゃねーよ」



バス停までの道を歩きながら、片手で私の頭をぐいとなでる。

私を安心させるように。


だけど私は知っている。

制服を着ている私とは、健吾くんは絶対にキスをしない。



「じゃな」

「うん、行ってらっしゃい」



片手をパンツのポケットに入れて、バス停の少し先の駅に向かうため、私と別れる。

手を振るのはいつも、私のほう。

彼はちらっと微笑むだけでそれに応える。


私たちは、こんな感じ。





「うん、正直、古浦(こうら)の成績ならもう少し冒険してもいいと思うけど」

「いろいろ事情がありまして」

「だよな。本番で力を出しきれるように、体調管理気をつけてな。奨学金の予約申請は、後期に手続きあるから」



担任の先生にお礼を言って、指導室を後にした。

日当たりのいい廊下は、初夏の熱気で蒸れている。

表向きは自習中の、要するに担任不在で大騒ぎの教室に戻り、次の出席番号である小瀧靖人(こたきやすと)の、寝ている頭を叩いた。
「いて」

「あんたの番だよ」

「今お前の夢見てた」



靖人が身体を起こし、伸びをする。



「教室で口説かれても困る」

「口説いてねーよ」



見慣れた顔が、腕の陰で小さくあくびをした。

億劫そうに立ち上がると、私をじっと見下ろす。



「昨日の夜、どこ行ってた」

「余計なお世話」

「またあのチャラいリーマンのとこか、絶対だまされてるよお前」



教室の、ほかの子たちには聞こえないよう声を低めて、バカにするみたいに笑う。

野球部で焼けた顔と腕が、男の子らしくて健康そうで、無性に腹が立った。

健吾くんはチャラくないし、"リーマン"なんて呼ばれたくない。

お前なんか健吾くんの足元にも及ばないよバカバカ。



「…どんな夢見てたの」

「口説いてほしくなった?」



蹴ろうとした脚を軽々よけて、机の間をぬって教室を出ていく。

白いシャツの背中は、いつの間にかずいぶんと頼もしい。



最近は夏の到来が早い。

早いうえに唐突だ。

まだ6月なのに、連日30度超えというのは、どういうことだ。

学校帰り、校門前のバス停を無視し、川沿いに少し歩く。

こぢんまりとしたお弁当屋さんをガラス戸越しにのぞくと、中の人影が私に気づき、にっこりした。
「バイトさせてもらえます?」

「助かるわあ、そろそろ来るかと思って待ってたのよ」



三角巾を頭に巻いたおばさんが、おいでおいでと手招きする。

私は店内に入り、カウンターの内側に回った。


2時間ほどレジやおかず詰めをやらせてもらい、時給720円×2=1,440円をその場でいただき、帰路につく。

こういうウルトラ短期バイト先を、いくつか持っている。

少し先のケーキ屋さんに寄って、稼ぎたてのお金でシュークリームを3つ買い、もう一度大通りに戻ってバスに乗った。



【今日、夕食家で食べられる?】



健吾くんにメッセージを送ると、すぐに返事が来る。



【うん。8時には帰る】

【作っとく】

【サンキュ】



一度部屋に寄り、冷蔵庫の中身を確認してからスーパーに行こう。

窓の外を見ながら、そう決めた。





「なんだそいつ、完全に郁(いく)に惚れてんな」

「幼なじみだからね」

「で、同じクラスで?」

「そう」

「家がお隣さんで?」

「うん」

「野球部?」

「だね」

「恋に落ちるフラグ立ちすぎだろ」

「野球部、関係あった?」



家庭的な和食を好む健吾くんのために、夕食は焼き鮭、夏野菜の炒め物、小松菜のお浸し、お味噌汁、冷奴、みたいな感じだ。

帰るとすぐにTシャツとハーフパンツに着替えた健吾くんは、髪を上げないせいもあって、大学生くらいに見える。

会社に行くときも、自然に前髪を下ろしたままなので、固めたりしないのと以前聞いたところ、それをやるとがんばってる成人式の子みたいになってしまうらしい。

童顔というほどでもないけれど、小奇麗な顔立ちのせいで、実際の年齢よりは下に見える。
「妬ける?」

「社会人は、そんなのでいちいち妬いてる暇ない」

「暇もないのに妬いてくれてるんだ」



横からぎゅっと抱きつくと、「邪魔」と払いのけられる。

負けずにしがみついて口元にキスをした。



「食ってる最中はやめろ」

「健吾くんが食べてるときの口の感じ好き」

「変態くさいこと言うな」

「最近帰り早いね、お仕事ひと段落?」

「月末に向けて体力温存てとこ」



小気味よく全部のお皿を空にした健吾くんが、テレビをつけた。

食器を下げながら聞いてみる。



「営業って、どんなお仕事?」

「相手がいて、ノルマがあって、うまくやると会社も俺も儲かる」



ざっくりだなあ。

特に見たい番組があったわけではないらしく、しばらくポチポチとチャンネルを変えて、ニュースに落ち着いた。



「面白い?」

「俺は好きだし、向いてると思う。きついって言う奴も多いけど」



健吾くんの勤め先は、システム開発の会社だ。



「"飛び込み"とか、するんでしょ?」

「そりゃするけど、あれだってちゃんと頭使えば成果出せるんだぜ。文字通りただ飛び込んでるだけの奴だよな、苦行とか言って文句ばっかつけてんの」

「頭使うって?」

「事前に会社規模とか従業員数とか社風とか調べてさ、そうすると使うソフトのレベルがだいたいわかるだろ、で、主要取引先とかも開示してあれば見てみて、そこにメーカー系のシステム会社が並んでたりしたら、時間の無駄だからとりあえず次行く」



メーカー系に負けてられっか、というのが、あまり仕事の話をしない健吾くんの、唯一の口癖だ。

経営難には親会社である大手電機メーカーに助けてもらい、天下り先としていいように使われ、あげくそのメーカーのハードウェアでしか使えない商品をごり押しするだけの能無し。

彼から聞く限りでは、メーカー系というのはそんな感じ。
「飛び込みの成功率上げたきゃ、営業トークもテンプレばっかりじゃなくて、ていうか一種類のテンプレだけじゃなくて、いくつか用意しといてさ…」



缶コーヒーを開けながら、健吾くんがはっと口をつぐんだ。

みるみる照れくさそうな顔になり、目を泳がせる。



「わり、語った…」

「聞いてたのに。続けてよ」

「やだよ」

「シュークリームがあるよ」

「マジで!」



冷蔵庫から白い箱を出して見せると、予想以上の反応があった。



「また瞬間バイトしてきたの?」

「うん」

「小遣いももらってるんだろ?」



ふたつのシュークリームを小皿に乗せて部屋に戻ると、待ちかねたように手が伸びてくる。



「お兄ちゃんの稼いだお金は、もっと必要なことにだけ使うの」

「郁のそういうとこ好き」



隣に座って、私もひとつ取った。

はずみで腕が、健吾くんのむき出しの二の腕に触れた。

すらっと伸びて、でもやっぱりもう成長は終わってるんだなって感じの完成した形の腕。

腕一本ですら見とれるレベル。



「なに見てんだよ」

「かっこいいなあって」

「なにも出ないぞ」

「いいよーだ」



わかってますよ、とシュークリームをかじろうとしたところを、手で遮られる。



「なに?」

「嘘」

「なにが?」



「キスが出るよ」と聞こえたときには、もう目の前に顔があって、一瞬後に唇が重なった。