夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく

なんでそんなこと言われなきゃいけないの。

そう思って、眉根を寄せて青磁を見る。


すると彼は、いまいましげに舌打ちをした。


「なんで顔には出せて、口には出せねえんだよ?」


焦れたように、苛々したように言う。


当たり前でしょ。

思ったことをなんでも口に出していいのは、ほんの小さい子供の時だけ。

人を傷つけることでも平気で口にするあんたと、私は違うの。


そんな言葉をぶつけてやりたいけれど、ドアの向こうの教室にいるクラスメイトたちのことをかんがえると、言えない。

せっかくやる気になってくれているのに、ここで私と青磁がもめたら、水を差すことになってしまう。


激情を堪えている私を、青磁は冷ややかに見つめていた。


「そうやって、黙って耐えてたら」


そう言った声もまた冷ややかだった。


「何も言わずに我慢してたら、いつか誰かが気づいてくれると思ってるのか」


青磁は右の口角を少しあげて、小馬鹿にするように小さく笑って言う。


「いつか誰かが自分のつらさに気づいてくれて、協力したり助けてくれたりするとでも思ってんのか」


冷たい言葉だった。

その視線よりも、声よりも、何よりもその言葉の内容が、冷たく私の胸に突き刺さった。


青磁が私の手を引き寄せ、傷だらけの指をぐっと握りしめた。

いたっ、と小さく声が出てしまったけれど、容赦なく力を込められる。


「私一人で頑張ってるの、偉いでしょ、でもこんなに頑張ってるのに誰も気づいてくれない、ひどい、私はこんなにつらいのよ、ほらこの傷がその証拠、ってか」


頭から大量の氷水をかけられたような気がした。

あまりにも残酷な言葉だった。


「悲劇のヒロイン気取ってんじゃねえぞ」


追い討ちをかけるように、青磁は冷たく言い放った。


心の周りを囲んだ守りの壁が、がたがたと崩れていく気がした。


なんでこんなこと言われなきゃいけないの。

なんでここまで言われなきゃいけないの。


いくら私のことが嫌いだからって、ここまで言うなんて、ひどすぎる。

私の傷つく言葉を選んで選んでぶつけてくる。


どうして青磁は、こんなにも私に。


「お前になんか、お前の気持ちになんか、みんな興味ねえんだよ」


吐き捨てるように青磁が言った。


「誰だって自分のことしか考えてないんだ、他人のことなんか本気で考えてなんかいないんだよ。誰もお前のことなんかちゃんと見てないし、お前がいくら我慢したって苦しくたって、誰もお前のつらさになんか気づいてくれないんだよ。黙って耐えてたって、耐え損だ、耐え損」


駄目だ、もう無理だ。

勝手に込み上げてくる涙を、もう抑えることはできない。


視界が滲み、嗚咽が洩れる。


「言いたいことがあるなら、言えよ。黙ってたって誰も分かってなんかくれねえよ」


そんなこと、知ってる。

誰かに分かってほしいなんて思わないから、何も言わないだけなの。


「ほら、言えよ。叫べ。言いたいことは叫べ!」


言いながら青磁が私の両肩をつかみ、教室に向かって立たせる。


「伝えたいことは口に出さなきゃ伝わらねえんだよ。黙ってたら一生伝わらねえままなんだよ。だから、言うべきことは言え! 叫べ! ほら、今すぐここで、叫べ!」


青磁がどんっと私の背中を叩いた。

叫べ、と何度も言いながら。


私は涙を流しながら首を横に振った。


言えない。言えるわけがない。


だって、思ったことを言ったら、言うべきことを言ったら、またああいうふうになるかもしれない。

あのときみたいに、なるかもしれない。


きっと、なる。


だから言えない。

言いたくても、飲み込んで、我慢するしかない。


「……いて」


あえぐような吐息とともに唇から洩れた声は、掠れて震えていた。


青磁が「あ?」と不機嫌そうに訊き返してくる。


あんたみたいなやつに、私の気持ちが分かるわけない。

あんたみたいに好き勝手なことばっかりやってるやつに、好き勝手なことばっかりできるやつに、分かるわけない。


「……ほっといて!!」


叩きつけるように言って、私は青磁を押し退けて駆け出した。


もうこれ以上、ここにはいられなかった。

いたくなかった。


























ステージ上で行われているリハーサルをぼんやりと眺めながら、もう明日が文化祭か、と思った。


こめかみを汗が伝う。

九月になったとはいえ、まだまだ暑い日が続いていた。

上方の窓と出入り口の扉を全開にしてもほとんど風が通らない体育館の中は、むっとした湿気がこもっている。


「動きはだいたいオッケーだな」


少し離れたところで私と同じようにリハーサルの様子を見ていた青磁が呟いた。

それからステージ上の役者たちに向かって声を張り上げる。


「あとは台詞! 声ちっさすぎて聞こえねえから、腹から声出せ、お前ら!」


はーい、と口を揃えて答える彼らを見ていると、くらりと目眩がする気がした。


クラスの出し物が、どんどん私の手から離れていく。

私の存在が、どんどん希薄になっていく。


たぶん私は今ここにいなくてもいい。

いなくてもクラスは成立するし、きっと劇は上手くいく。


いる必要がないということが、誰にも存在を求められていないということが、私には分かっていた。


でも、すがるように私はここにいる。

ただ、いるだけ。立っているだけ。

それでも、ここから立ち去ることができない。


いなくなればたぶん、私は本当にクラスにおける存在意義も居場所も失ってしまう。


ポケットの中でスマホが震えた。

見ると、『今日もお迎えできないの?』というお母さんからのメッセージ。


無理に決まってるでしょ、何回言ったら分かってくれるの。

そう返したい気持ちをなんとか抑えて、『ごめん、忙しくて無理そう』と打った。


本当は忙しくなんてないけれど。

青磁の横で間抜けに突っ立っているだけだけれど。


でも、ここから立ち去るわけにはいかない。


「おー、やってるなあ」


いきなり背後から声がして、振り向くと担任がいた。


「いやー、夏休み中はどうなることかと内心はらはらしてたけど、なんとかなりそうだな」


リハーサル風景を見ながら先生は満足げに笑っている。

私は曖昧に「そうですね」と頷いた。


「さすがだな、丹羽。お前が委員長で良かったよ」


ずきんと胸が痛む。


私はゆっくりと目をあげて、「違います」と言った。

でも、その声は小さすぎて、ステージから先生を呼ぶ主役二人の声にかき消されてしまった。


違います、私じゃなくて青磁がみんなを動かしてくれたんです。


そう言わなければいけなかったのに、先生は私に背を見せながらステージの方へ行ってしまった。


体育館の外から蝉の声が入り込んでくる。

耳許で鳴いているんじゃないかと思うくらい、うるさい。


くらりと視界が揺れるような感覚がして、私はゆっくりとしゃがみこんだ。


「茜」


目の前に影が差す。

青磁だ。


頭上の窓から射し込む目映い光の中で、その髪はむかつくくらい綺麗に白く透き通る。


「……なに」


低く返すと、青磁はくっと眉をあげた。


「何怒ってんだよ」

「怒ってないし」

「怒ってんだろ。分かるわ、馬鹿」


うるさい。

蝉も、青磁も、リハーサルの声も、全部うるさい。


「……ほっといて」


声を抑えて返し、膝を抱えて俯く。

マスクの縁に汗がたまって湿り、気持ちが悪かった。


「気分が悪いのか」


青磁は無感情な声でそう訊ねてきた。


私は「違う」とだけ短く返したけれど、それ以上しゃべる気力がなかった。


「ふうん。ならいいけど」


とすっと音がして、隣に青磁が座り込んだのが気配で分かった。


「お前、リハちゃんと見てた?」

「……見てたよ」

「どうだった? なんか言うことないのか、委員長的に」

「……ないよ、そんなの」


マスクを通った声は、どうしてもくぐもってしまう。


「青磁に任せるよ。あんたが良いと思うなら良いんじゃない」


青磁が「あ?」と不機嫌そうな声をあげた。

でも、彼のそういう声音も聞き慣れすぎたせいか、もうなんとも思わない。


「なんだよ、それ。ここまで来てほっぽり出すつもりか」


責めるような口調で言われて、思わずため息が洩れる。


「そんなんじゃない。ただ、……今はみんな、私よりも青磁に頼ってるでしょ。青磁の言うことならみんな聞くんだから、好きなようにやればいいよ」


考えのままを口に出すと、青磁は苛々したように爪の先で床を弾いた。


「ったく、お前、なんでそんなんなの」


挑発されても、やっぱりなんとも思わない。


最近は心が妙に穏やかで、何を言われても腹が立ったりしないし、何があっても悲しくなったりしない。

同じように、楽しくなったり嬉しくなったりすることもない。


凪いだ海のように、平坦で静かな気持ち。


でも、気がついたら指先を傷つける癖だけはなかなか治らなかった。

青磁に見つかると何かと馬鹿にされたりしてうるさそうなので、学校ではあまりやらずに済んでいるけれど。


ぼんやりと眺めているうちにリハーサルは終わり、みんながぞろぞろとステージから降りてくるのを確かめると、私はそっと体育館を出た。


「茜」


呼ばれて、振り向く。


渡り廊下の真ん中に青磁が立っていた。

いつものように妙に透き通った硝子玉の瞳で、私をじっと見つめている。


「なに」


ぶっきらぼうに答えながら、ふとあることに気がついた。

青磁の着ているシャツの裾に、真紅の染み。


血のように見えて、思わず一歩近寄って確かめる。

よく見たら絵の具らしく、なんだ、と肩の力が抜けた。


それから、青磁が美術部だということを思い出した。

夏休み、彼がクラスの手伝いをまだやっていない頃にも、彼が学校に来ていたことも。


「……美術部って、文化祭で、何かやるの」


訊きながら、やるに決まってる、と心の中で思った。

文化部にとっては、文化祭は年に一回の活動発表の場だ。

そんな貴重な機会を見送ることはないだろう。


「画廊」


青磁が私をまっすぐに見つめたまま、はっきりと答えた。


「画廊をやる。旧館一階の奥、美術室の前の廊下で」


そう、と答えるしかなかった。

美術には興味がないし、青磁の絵にも別に興味はない。


でも、自分で訊いたわけだし、流すのもおかしいかと思い、「がんばってね」とだけ言って、逃げるように立ち去った。


青磁と向かい合っているのは、つらい。


あの綺麗すぎる顔も、銀色に輝く髪も、まっすぐすぎる瞳も。

人を惹きつけて動かす強さも。


私にはないものばかりで、つらい。