本当はあの男が追いかけてこないことを知っていた。
しかし、一刻も早くあの場から離れたかった。渡の苦しい顔をこれ以上見ていたくなかった。


「渡、平気か?」

振り向いてようやく渡の顔を見る。
うつむいた渡は僕より体力がないせいか、は、は、と短く息を吐き喘ぐ。
長い前髪の向こうにうつろな瞳が見える。

なんてひどい顔だ。
幽霊みたいに暗く、生気がない。

「俺は…」

渡が消え入りそうな声を突然発した。ひどく震えている。

「うん、どうした?」

僕は手を離し、渡の顔を覗き込んだ。
安心させてやりたくて、弟に接するみたいな気持ちで笑顔を作る。
僕は安心だ、渡の敵じゃないぞ、と言うように。

渡の表情がいっそう歪むのが見えた。

「俺は、恒……、おまえを殺したりなんか……しない……」

そう言って、渡は涙の滲んだ瞳を伏せた。

ぽつぽつと僕らにぶつかる雨粒は徐々に量が増えている。
うつむいた渡の前髪にぶつかり、ガラス玉のような雫が転がり落ちて行った。

その姿を見たら、僕の中途半端な同情なんかは吹っ飛んでしまった。

生半可な気持ちで兄貴ぶって、渡を安心させようとした自分が恥ずかしい。
がつんと頭を殴られたような気分だった。