目の前の遠坂深空は口元に呼吸器をつけ、眠っている。

僕は耳を澄ませた。
どこからかあの少女の声が降ってくるのではないか。
もし、そうなら、僕に呼びかけていたのは彼女ということになる。眠り続ける深空が僕にだけ聞こえる声で渡を呼んでいるのだとしたら。

結局、何事も起こらず、僕はかすかに落胆した。
考えてみたら、彼女と僕に接点はない。彼女が僕を選んで、ファンタジーな力を使って話しかける理由はないのだ。
自意識過剰だ。やっぱり、僕は疲れて幻聴を聞いていたんだろうか。

僕がひとりで色々と考えを巡らせている間、渡は黙って深空の顔を見つめていた。

ものすごく静かに。
唇は彼女の名前を形作ろうとして、きゅっと結ばれてしまう。

渡は何度、こんな時間を過ごしてきたのだろう。

「渡、花瓶に花を活けてくるわ」

窓際のチェストに置かれた空の花瓶を手にする。
なんとなく、渡と彼女をふたりきりにしてあげたい気持ちになった。

近くのトイレで水を汲む。渡の無表情が浮かんだ。
彼女の名前を呼びたいはずなのに、音を発さなかった唇。鳶色の瞳の奥に見えるどうにもならない苦痛。

もしかすると、渡は……義姉のことが好きなのだろうか。
有り得ない話ではない。義理の関係は結婚ができるのだ。

すんと胸が空いたような感覚がした。
これはなんだろう。

渡はお義姉さんが好き。
別にいいじゃないか。僕は遠坂深空に横恋慕しているわけじゃない。断じて違う。そのはずだ。