午前中の早い時間に待ち合せ、ふたりで電車に乗り、目的地の西武線の某駅に向かう。
ちょうど通勤ラッシュと重なってしまい、日暮里までの常磐線も、山手線内もぎゅうぎゅうに混雑していた。普段、通勤電車になど乗らない僕らはすっかりくたびれはて、池袋からは各停で座っていくことにした。

下り電車になった瞬間に車内はがらがらに空き、僕らはようやく息をつくことができた。
渡が文庫本を取り出す。

「それ何?」

「太宰、『走れメロス』」

「意外。もうとっくに読んでるかと思ってた」

渡を最初に見かけた頃、彼は芥川や太宰ばかりを読んでいたように見えた。それを思い出す。

「好きだから、何度も読み返してる。おまえ、そういうのない?」

「ある。僕は夏目漱石の『こころ』」

「はっ、さすがエセ文学青年」

「言い方あるだろ、感じワル」

渡が文庫の表紙を手で撫でる。愛着のある様子に、やはり渡が本を愛していることを感じ、僕の方が嬉しくなった。

「メロスは偉いよな」

ふと呟かれた言葉が耳に残って、僕は渡を見る。渡が自分からこんな話を振ってくるのは稀だ。

「なんで?」

「最後までやりきったから」

なんとも単純な回答だけど、何か真理をついていそうだった。僕は茶々を入れず、渡の言葉の続きを待つ。

「メロスは、一度走るのやめただろう?でもまたちゃんと走り出した。すごい、俺にはできない。俺はきっと途中でやめちまう」

どうも、渡は素直に本心でしゃべっているようだった。いつもシニカルに笑う渡にしては、珍しい称賛。
さらに珍しいことに渡が聞き返してきた。

「おまえだったら、どうする?」

「え?」