さて、僕はこの二十数年、本当に幸福に生きてこられた。
家族と海と山に囲まれた静かな暮らし。獣医院を開業した頃はとにかく忙しいしお金はないしで大変だったけれど、今はこの町に馴染み、スタッフ五人を抱え、それなりにうまくやっているね。
奥さんであるきみは、出会って随分経つというのにいまだ清らかで美しい。本当にそう思っているよ。
長男の亘は来年成人だ。

こんな順風満帆な僕の暮らしの中、わざわざ記録を残す理由は、みんな知っていること。僕の胃に見つかった癌が原因だ。
たぶん、取ってしまえば問題なく永らえられるだろう。ステージは二だけれど、進行性とは言われていないし、きっとこの手記を書いたことを恥ずかしくなるくらいあっさり日常に戻れると思う。

でも、万が一ということがある。

僕の胸にはひとつ、誰も立ち入ったことのない場所がある。
その場所には小さな箱が置いてあり、中には残像のようにかすかだけれど、鮮やかな色の断片を持つ世界が眠っている。
僕はもう何年もこの箱を開けていない。
そして誰一人として中身を見せることはないだろうと思っていた。墓場まで持っていくってやつだ。

しかしここにきて、僕の考えは変化しつつある。この思い出が僕の内側で泡のように消えていくのはあまりに悲しい。
あるいは“彼”はそれを望むかもしれない。
だけど命について考え直している僕は、それをこの世に残しておきたいと考えるようになった。
大袈裟ではあるけれど、それが僕の責務のように感じられるんだ。

四半世紀前のことをうまく文章にできるかはわからない。でも必ず書ききろう。

ちょうど同じ歳にさしかかった亘と亨とつむぎのため。
そして他ならぬきみのために。