家族は、檻に似ている。
天地がひっくり返るくらいのことがなければ、眼に見えないくせに体中にまとわりつく家族という名の檻から子供は抜け出せない。
羽を動かすことも出来ないほど狭く窮屈な鳥かごに入れられた蝶々のようだ。
もしくは、水がなみなみと注がれた水槽の中でじっとしていることしか許されていない魚になったような。
尾ひれひとつ自分の意志で動かすことができない。そんなことをしたら水が溢れてしまう。
耳を塞いで、目を閉じて、ただじっとそこにいるだけ。
中学生まではそれが当たり前に出来ていた。
自分自身もこの家の形が当然なのだと信じていた。
けれど今は。
取り敢えず、見かけだけでもそうしてやり過ごせばいい。心の中を隠して、耐えればいい。いや、耐えなくちゃいけない。
一年半後の自由のために。
家族でダイニングテーブルを囲みご飯を一緒に食べる姿、それは一見〝幸せな家族〟のように映るだろう。
たとえば今日の晩ご飯。鱧の天ぷらに抹茶塩、お味噌汁にオクラの胡麻和え、ポテトサラダなど、並べられる献立からも母が料理上手なこともわかるはずだ。
けれど実際のところ、そこにいるのは偉そうにふんぞり返りながらご飯を食べる父親と、子供の生活に〝心配〟を理由に口うるさく干渉する母親。そして、場を壊さないように細心の注意を払って言葉を紡ぐ子供。
なにが家族だ。
こんな作られた家族の姿は吐き気がする。
そんなことを思っているだなんてこのくだらない父と母という肩書を持つ大人は気づいているのだろうか。
どろりと体中にまとわりつく嫌悪感が拭えない。
母の手料理を口にすると、両親の歪んだ支配欲に蝕まれる気がする。引きつる笑顔となくなる食欲。貼り付けにされた標本にでもなった気分だ。
当たり障りない会話を交わしながらご飯を食べ終えて、勉強を理由に部屋に戻るとドアのすぐ隣にある姿見に自分の顔が映った。
死んだ魚のような虚ろな瞳に、食いしばるように、余計なことを口走ることのないように固く閉じられた口。
その姿は、公園で見かけた観月の表情とよく似ていた。
あいつはいつまで公園で時間を過ごすのだろう。
いつも、どれくらいの間、あの場所からたったひとりで世界を見つめているのだろう。
そして、なにを考えているのだろう。
日付がわかっても、周りの家から灯りが消えても観月はあそこに佇んでいるような気がした。