恋愛とは程遠い関係だったけど、だからこそ隣にいられるのだと思ってた。翼はずっと、彼女なんかいらないんだと思ってた。
バカなわたし。現実はどんどん移り変わるって、知っていたはずなのに。
わたしだけが変われずに、取り残されていた。ひとりぼっちで、必死で、抵抗していた。
「そっか。タマちゃんはそれが辛かったんだね」
「うん……」
うなずいて、けれど、そうじゃないかも、とふと思った。
ああ、そうだ。やっと今、気づいた。
「ううん……本当は」
本当は。何よりも悔しかったのは。
「自分の気持ちを言えない自分が、一番嫌だった……っ」
伝える勇気もないくせに、心の中だけで絶望して。拗ねて、ごまかして、あげくの果てにこんなところまで逃げてきた。
そう――わたしは翼たちから逃げたかったわけじゃない。
大嫌いな自分から、逃げ出したかったんだ。
すとん、と胸の中心に収まったその答え。
認めてしまえば、それはずっと前からわかっていたことのように思えた。
自覚は、きっとあったんだ。だけど認めたくなかっただけ。
しばらく言葉もなく泣き続け、どのくらいの時間が経っただろう。
わたしは鼻をすすり、長い息を吐いた。
同時に涙を一粒こぼすと、まるで雨が止んだように、次の涙はもう出てこなかった。
「……なんか、ごめんね。ノアには関係ないことなのに、聞いてもらっちゃって」
幾分か落ち着いたわたしは、濡れた頬をふいて照れ笑いのような表情を浮かべた。
ノアは「ううん」と首を振り、そっとわたしの頭をなでる。
「関係なくないよ。もちろん、気持ち全部はわかんないけど、タマちゃんの辛かった想いが伝わってくるから」
……なんて、温かいんだろう。彼の手も、言葉も、瞳も。
わたしをわかってくれる人がいる。ただそれだけのことが、こんなにも温かい。
わたしはゆっくりと手を伸ばし、ノアのこめかみを伝う雫をぬぐった。
「ノア、髪まで濡れちゃったね」
「用水路の中で転んだから」
「わたしのこと言えないじゃん」
「ホントだな」
ぶるぶるぶるっ、といきなりノアが勢いよく頭を振り、水滴を四方八方に飛ばした。
「冷たい!」
わたしが叫ぶと、彼がへへっと笑う。屈託ないその表情に、心がほっこりした。
ああ、この温もりを、わたしは知ってる。
ひたすら幸福だった子どもの頃、いつも包まれていた感覚だ。
「そろそろ帰らなきゃ、宿の人が心配するよ」
そう言って立ち上がったノアから、すっと差し出された手。
そこに自分の手を重ねると、彼の体温が伝わってくる。わたしの体温も、同じように伝わっているだろうか。
つかんだ手を引き上げられ、わたしも立ち上がった。
自分より少し高い位置にある顔を見上げると、彼の瞳に外灯の光がゆらめいている。
ものすごく至近距離に立っていることに気づき、わたしは少し離れた。
なんだろう……耳たぶが熱い。
「タマちゃんってさ」
心地よい夜風の中、歩きながらノアが言う。
「案外、泣き虫だよな」
「な、なんでよ。ノアの前で泣いたの初めてじゃん」
「そっか。そうだね」
微笑む彼と目を合わすのがなぜか恥ずかしくて、わたしは反対側にそっぽを向いた。
空はもうすっかり暗くなり、ノアの髪みたいな金色の月が輝いている。
――今ここに、君がいてくれてよかった。
噛みしめるような気持ちで、そう思った。
【ほんとのきもち】
久しぶりだ。こんなに、すっきりとした気分で目が覚めたのは。
「んーっ」と鼻から声を出し、布団の中で伸びをする。昨日動きすぎたせいで筋肉痛があるけれど、それが妙に心地いい。
わたしはベッドから降りて、カーテンを開けた。鏡に反射したような光が射し込み、目を細める。
ゆっくりと瞼を持ち上げ、そして感嘆の声を漏らした。
夜中に降ったらしい雪が、外の景色を白銀に染め替えていた。
窓を開けると、冴え冴えとした冷気が入ってくる。寒いけれど不快ではなく、背筋がシャンとする空気。
この部屋は二階なので、遠くの方で雪遊びをする子どもたちの姿も見えた。
今、翼たちがいるスキー場は、毎日これ以上の雪に囲まれているんだろう……。
翼の名前を思い浮かべると、切なさをやっぱり感じるけれど、前までのような重苦しさは伴わない。きっと昨日、泣きまくって少なからず整理できたおかげだ。
「今日でもう、四日目か」
わたしが逃げ出してから、すでにそれだけの時間が過ぎていた。
スマホが壊れているのを言い訳に、いまだ誰とも連絡をとっていない。一昨日の夜、家に嘘の留守電を入れたきりだ。
実里さんに電話を借りてもう一度家に連絡してみようか。そんな考えが浮かぶものの、まだ踏み出せない自分がいた。
理由は、至極単純なもの。
親に連絡すれば、連れ戻されるのが目に見えているから。
けれどそこには、“家に帰りたくない”という当初の気持ち以外に、もうひとつ“新しい気持ち”が芽生え始めているのを、わたしは自覚していた。
朝焼けを映して淡いピンクに色づく雪をながめながら、わたしは白い息をはーっと吐き出した。
……東京に帰ったら、もう会えないのかな。
チリチリと胸が焦げるような焦燥感。この感情は何だろう。
……せめて七日間が終わるまで、この町にいたい。
揺れる金色の髪を、無意識に思い描いていたわたしは、無理やりその映像をシャットアウトした。
***
「手首をネンザしたのよ!?」
階段を下りていくと、玄関の方から聞き覚えのない金切り声が聞こえてきた。
「昨夜から様子が変だと思っていたら、朝になってこんなに腫れてきて……! サトシに問い詰めたら、お宅のトモくんに突き飛ばされたって言うじゃないの!」
なんだろう、ただ事じゃない様子だ。わたしは柱に隠れ、そろりと玄関を窺った。
実里さんの背中ごしに、女性が鬼の剣幕でまくしたてているのが見える。
その隣では、左手に包帯を巻いた男の子がうつむき加減で佇んでいた。
「いくら子ども同士のケンカとは言え、突き飛ばすなんてどうかしてるわ!」
「本当に、その通りです……申し訳ありません」
「謝って終わりの問題じゃないでしょう!? これだから若い親はダメなのよ! お宅、どういう教育されてるの!? 肝心の息子さんを早く連れて来なさいよ! わたしがルールを教えてあげるから!」
何なんだ、あのオバサン。詳しい事情はわからないけど、横暴すぎる口ぶりにムカムカしてくる。
部外者のわたしでもこうなのだから、きっと実里さんの心中は吹き荒んでいるだろう。
けれど、実里さん本人は至って冷静に頭を下げると、静かな口調で返した。
「息子には、わたしからよく言って聞かせます。そして本人から必ず、サトシくんにきちんと謝罪をさせます。……今日は主人が留守にしておりますので、後日改めてお詫びに伺わせてください」
「な、何よ、その態度っ――」
「サトシくん、本当にごめんね」
食い下がるオバサンから視線を移し、実里さんがやさしい声で言った。
ビクンと肩を一瞬震わせた男の子は、今にも泣きそうな表情で首をブンブン振ると、オバサンの腕を引っ張る。
「ママ、もう行こうよ。こんなの嫌だよ、俺」
息子に懇願されると、さすがのオバサンもひるんでしまうらしい。彼女は歯軋りを数回すると、ふんっ! と大きな鼻息を置き土産にして帰って行った。
玄関のドアが閉まったとたん、実里さんの背中から力が抜けたのがわかった。
ほぼ同時に、わたしの足元で床板が小さく軋み、実里さんがこちらを振り向く。
「あ、タマちゃん。おはよ」
「おはようございます。……あの、大丈夫ですか?」
「見られちゃった?」
「すみません、見ちゃいました」
「あはは。恥ずかしー」
けたけた笑う顔は、いつも通りだ。
わたしの心配そうな気配が伝わったのか、実里さんは簡潔に説明してくれた。
昨日の夕方、トモくんは友達のサトシくんという子とケンカになり、突き飛ばした拍子にケガを負わせてしまったらしい。普段はとても仲がいい友達だから、こんなことは初めてだそうだ。
昨日の夕方と言えば、わたしも、トモくんが女の子と遊んでいたのを見かけたんだ。
話の様子からすると、ケンカはあの後に起きたと思われる。たぶん、帰り道の途中でその友達に会い、何かトラブルが起きたんだろう。
そういえば夕飯のときも、トモくんは少し元気がなかったっけ。
「よりによって、こんなときに旦那がいないんだもん。まいっちゃうよ~」
実里さんがおどけたように舌を出した。
今朝の早くから、旦那さんは地元青年団の忘年会旅行に出掛けているのだ。
旦那さんがいない中、突然の出来事で実里さんも怖かっただろう。わたしだったら、オロオロして何もしゃべれないかもしれない。
「ところで実里さん、トモくんは?」
「まだフテ寝してる。とりあえず、朝ごはんにしよっか。匂いにつられてトモが起きてくるかもしんないし」