あんなにも苦手で逃げたかったのに。
今、目の前にいる両親は、わたしと同じひとりの人間だ。同じように悩んだり、立ち止まったりする、愛しい人たちだ。
そんな当たり前のことを、わたしは今、初めて心から感じられた。
「ごめんな、環……。子どもの方から言われて、やっと気づくなんてな。本当は僕たち親が、伝えなきゃいけない言葉だったのに」
「ううん……ううん、お父さん」
鼻水が出てきてしかたない。泣くつもりなんてなかったのに、ふたりの涙が伝染したんだ。
だって、わたしはふたりの子どもだから。
「環……お母さんね、自分の親とうまくいかなかった後悔を、娘のあなたにぶつけていたんだと思う。本当は、環がこうして元気でいてくれるだけで、幸せだったのにね」
ごめん。そうつぶやいたお母さんのまつ毛が揺れた。
「お母さん……」
「でもね。やっぱりわたしは環の親だから。教えなくちゃいけないことは、たとえ嫌がられても、首根っこつかんででも、あなたに教えていく。その気持ちは、間違いなんかじゃないと思ってるのよ」
「うん……っ、ありがとう」
今ならわかる。きっとわたしたち、お互いにねじれた世界を作っていたね。
大切な相手だからこそ、よけい頑なになっていたんだ。
ふと、お父さんとお母さんが、わたしを間にはさんだ距離で遠慮がちに目を合わせた。それからふたりとも眉を下げて、ほんの少し微笑んだ。
こんな両親を見るのは、いつぶりだろう。
わたしたち、今からやり直せるのかな。
時間をかけてもつれた糸は、簡単にはほどけないだろうけど。きっとまた、ぶつかってしまうだろうけれど。
もし、そうなってしまったときは、何度でも自分の心にたずねよう。
“わたしの本当の気持ちは何?”
答えはきっと、いつも同じはず。
“この家族のことが大好きだ――”
「さあ、帰ろう」
お父さんがわたしの背中を、そっと車の方へと押す。お母さんがドアを開けてくれて、後部座席にわたしとお母さんは並んで座った。
「今夜は環の誕生日パーティーだな」
その言葉を合図に、エンジンをかけるお父さん。かすかな振動が体に伝わり、車がゆっくりと走り出す。
わたしはシートからお尻を浮かせ、後ろを振り返った。リアガラスの向こうで、三角屋根の家が徐々に小さくなっていった。
ばいばい。ありがとう。
わたしを乗せた車は、日常へと帰っていく。
たかが七日間――されど七日間。
わたしに起きた、やさしい奇跡。
世界は思い通りには変わらない。
だけどきっと、自分自身は変わっていけるんだ。
【願い】
年賀状の写真には、相変わらず明るい三人の笑顔がプリントされていた。
「実里さんからだ」
直筆のメッセージが入ったそのハガキを手に、わたしは頬をゆるませた。
『あけましておめでとう! タマちゃん、東京でも元気にしていますか? またいつでも遊びにきてね。みんなで待ってるよ。
PS:お腹の子の名前を“たまき”にしたいと、トモに熱烈希望されてます!』
思いがけない追伸に、わたしはひっくり返りそうになった。いきなり何を言い出すんだ、トモくん……。
でも、もし本当に赤ちゃんの名前が“たまき”になったなら。ちょっと恥ずかしいけれど、やっぱり嬉しくもある。
そして、その子が大きくなったとき、同じ名前であることを誇ってもらえるような人に、わたしはなりたい。
東京に戻って、早十日。わたしたち家族は、なんとかうまくやれていると思う。
正直かなりぎこちないし、ケンカしそうになることもあるけれど。
お父さんは相変わらず仕事の虫で、大みそかまで会社に行っていた。でも、わたしたちのために働いてくれているのだと思うと、素直に頭が下がる。
お母さんはやっぱり口うるさくて、わたしは最近、お手伝いを頻繁にやらされる。
苦手な料理を手伝っていると、毎日みんなのご飯を作るということが、どれほど大変なことかわかった。
考えてみれば、中学時代からお弁当も欠かさず作ってくれていたんだ。それって、すごいことじゃないだろうか。
両親とたくさん会話をする中で、驚きの事実もあった。
「実は、あの日の朝、おじいちゃんが夢に出てきたんだ」
ぽりぽりと頭をかきながら言ったのは、お父さんだった。
それは、両親がわたしを迎えに来てくれた日のこと。
あの日の明け方近く、お父さんの夢に勝也さん――おじいちゃんが現れて、「環が家にいて邪魔だからさっさと迎えに来い!」と怒鳴ったらしい。
人のことを邪魔って、ひどいなあ、おじいちゃん。
「おじいちゃんが僕の夢に出てくるなんて初めてだったし、ただの夢とは思えなくてさ。気になって仕方なかったから、会社を早退してN県へ向かったんだ」
そっか……だからあの日、やけに到着するのが早かったんだ。
それにわたしは電話で「森」としか言わなかったのに、あの家まで迎えに来てくれたことを不思議に思っていたのも、やっと合点がいった。
「どうせなら、わたしの夢に出てくれればいいのにね」
お母さんがすねたようにぼやき、わたしは思わず笑った。あまのじゃくな、おじいちゃんらしいなって思ったから。
そして、わたしの方からも、あの七日間の出来事を思いきって打ち明けた。
現実にはありえない不思議な話を、両親とも疑うことなく信じてくれた。
「そっか……ノアとおじいちゃんがね」
すべてを聞いたお父さんは、目をうるうるさせていた。やっぱりお父さんは家族一、涙もろい人だ。
「あの家はおじいちゃんの死後、わたしが引き継いだの。だからこれからは、時々みんなで遊びに行きましょう。ノアも喜ぶはずよ」
お母さんの言葉に、わたしは静かにうなずいた。
うん、そうだね。また行こう。ノアのお墓がある場所に、おじいちゃんが愛した葵の花を植えよう。
それはきっと、とても美しく咲き誇るはずだ。
***
――そして、わたしは今。少しの緊張を感じながら、受話器を握っている。
お母さんが横から番号を押してくれてると、プップッと電子音が続いたあと、先方につながった。
『もしもし。長瀬です』
六年ぶりに聞いた、ほがらかなその声には、かすかに聞き覚えがあった。
「突然すみません。小林 葵の娘の、環です。わかりますか?」
『えっ! 環ちゃんって、あの環ちゃん!? まああ、どうしたの?』
受話器の向こうで目を丸くして驚いている姿が浮かぶ。
無理もない。六年も前に会ったきりの、旧友の娘からいきなり連絡がきたのだから。
電話の相手はサユリさん。あの町の近くに住む、お母さんの幼なじみ――そう、ノアを十歳のときに引き取ってくれた女性だ。
「実はサユりさんに、お話があって……」
わたしは彼女に、ノアのことを話した。
不思議な体験については、さすがに話せなかったけど、あの町でノアと過ごしたこと、そして天国へ見送ったことを、何度も言葉に詰まりながら伝えた。
「そう……あの子、ひとりで隣町に……」
電話ごしに聞こえる、鼻をすする音。
「急にいなくなったから心配してたけど、今、環ちゃんから聞いて安心したわ。……あの子、大好きな人に会いに行ったのね」
寂しさと嬉しさの混じった声で、サユリさんが言う。わたしは受話器をぎゅっと握った。
「サユリさん。わたしだけがノアの最期を見届けて、すみませんでした」
「ううん、どうしてあやまるの? それがノアの幸せだったのよ。きっとあの子、今頃は満足して、直太朗と天国で遊んでるわね」
「直太朗?」
「ええ、ノアの双子のお兄ちゃん。すっごく仲良しだったから」