お母さんの言葉は、ぐうの根も出ないほどの正論だった。この町に逃げてくる前のわたしが、「きっとお母さんはこう言うだろう」と想像したのと、ほぼ同じ。
ずっと、これが苦手だったはずなのに。お説教が大嫌いだったはずなのに。
自分でも不思議なんだ。叱られることが、今はこんなにも嬉しくて。
「ふふ……」
「な、なにを笑ってんの」
つい肩を揺らしたわたしに、お母さんが怪訝そうな顔をする。
「笑うとこじゃないでしょ、環!」
「ごめんなさい」
わたしは嬉し涙のにじむ目尻をぬぐった。そして、すうっと息を吸いこむと、両親の顔を交互に見た。
「お父さん、お母さん、本当にごめんなさい」
こうして向き合うのは初めてで、にわかに鼓動が速くなる。真剣な様子が伝わったのか、両親の顔にも緊張が走った。
「わたしね、言いたかったことがあるの……」
手のひらに汗がにじみ、口の中が乾いてくる。がんばれ、がんばれ、と自分を奮い立たせる。
この町でわたしは、みんなからたくさんのことを教わった。たくさん助けてもらった。
ここからは、自分ひとりだ――。
「本当はわたし、昔みたいに家族みんなで仲良くしたい。お父さんのことも、お母さんのことも、やっぱりわたしは大切だから……」
たとえ恥ずかしくても、素直な気持ちをぶつける勇気。これは、トモくんに教えてもらったこと。
「今までのわたしは、お父さんたちに背を向けてたと思う。でもそれは、嫌いとかどうでもいいとかじゃなくて、どうすればいいのかわからなかったから。本当は向き合いたいのに、怖くて、すねてたの」
相手や環境を責める前に、自分の気持ちは何なのか。向き合う大切さを教えてくれたのは、実里さんと旦那さんだ。
「でもやっぱり、もうあんなのは嫌だよ。笑い合える家族がいい。くだらないテレビで笑ったり、お父さんの寒いジョークに突っこんだり……そういう家に、もう一度わたしは帰りたい」
どんなに絡まってしまっても、親子の糸はつながっている。それを信じさせてくれたのは、おじいちゃんだった。
そして――。
「あのね、わたし……お父さんも、お母さんも、大好きだよ」
わたしの世界は愛しいものであふれている。
そう気づかせてくれたのは、ノア、君だったんだ。
木の葉がどこからか舞ってきて、わたしの肩にそっと降りた。真上にのぼった冬の太陽が、お父さんとお母さんの顔にやわらかい影を落としている。
「……じゃない……」
ふいに、お母さんが低く震える声で何かを言った。聞き取れず、「え?」と聞き返す。
「お母さんも、環のことが好きよ……っ、娘なんだから当たり前じゃない!」
涙を目にいっぱいためて、お母さんはそう言った。普段は気丈なお母さんの、初めて見るその表情に胸がぐっと詰まった。
「お父さんもだぞ。環のこと、大好きだ」
ああ、お父さんまで泣いちゃった。
そうだ、わたしのお父さんはとても涙もろくて、ドラマとか見ても真っ先に泣いてしまう、心やさしい人だった。
あんなにも苦手で逃げたかったのに。
今、目の前にいる両親は、わたしと同じひとりの人間だ。同じように悩んだり、立ち止まったりする、愛しい人たちだ。
そんな当たり前のことを、わたしは今、初めて心から感じられた。
「ごめんな、環……。子どもの方から言われて、やっと気づくなんてな。本当は僕たち親が、伝えなきゃいけない言葉だったのに」
「ううん……ううん、お父さん」
鼻水が出てきてしかたない。泣くつもりなんてなかったのに、ふたりの涙が伝染したんだ。
だって、わたしはふたりの子どもだから。
「環……お母さんね、自分の親とうまくいかなかった後悔を、娘のあなたにぶつけていたんだと思う。本当は、環がこうして元気でいてくれるだけで、幸せだったのにね」
ごめん。そうつぶやいたお母さんのまつ毛が揺れた。
「お母さん……」
「でもね。やっぱりわたしは環の親だから。教えなくちゃいけないことは、たとえ嫌がられても、首根っこつかんででも、あなたに教えていく。その気持ちは、間違いなんかじゃないと思ってるのよ」
「うん……っ、ありがとう」
今ならわかる。きっとわたしたち、お互いにねじれた世界を作っていたね。
大切な相手だからこそ、よけい頑なになっていたんだ。
ふと、お父さんとお母さんが、わたしを間にはさんだ距離で遠慮がちに目を合わせた。それからふたりとも眉を下げて、ほんの少し微笑んだ。
こんな両親を見るのは、いつぶりだろう。
わたしたち、今からやり直せるのかな。
時間をかけてもつれた糸は、簡単にはほどけないだろうけど。きっとまた、ぶつかってしまうだろうけれど。
もし、そうなってしまったときは、何度でも自分の心にたずねよう。
“わたしの本当の気持ちは何?”
答えはきっと、いつも同じはず。
“この家族のことが大好きだ――”
「さあ、帰ろう」
お父さんがわたしの背中を、そっと車の方へと押す。お母さんがドアを開けてくれて、後部座席にわたしとお母さんは並んで座った。
「今夜は環の誕生日パーティーだな」
その言葉を合図に、エンジンをかけるお父さん。かすかな振動が体に伝わり、車がゆっくりと走り出す。
わたしはシートからお尻を浮かせ、後ろを振り返った。リアガラスの向こうで、三角屋根の家が徐々に小さくなっていった。
ばいばい。ありがとう。
わたしを乗せた車は、日常へと帰っていく。
たかが七日間――されど七日間。
わたしに起きた、やさしい奇跡。
世界は思い通りには変わらない。
だけどきっと、自分自身は変わっていけるんだ。
【願い】
年賀状の写真には、相変わらず明るい三人の笑顔がプリントされていた。
「実里さんからだ」
直筆のメッセージが入ったそのハガキを手に、わたしは頬をゆるませた。
『あけましておめでとう! タマちゃん、東京でも元気にしていますか? またいつでも遊びにきてね。みんなで待ってるよ。
PS:お腹の子の名前を“たまき”にしたいと、トモに熱烈希望されてます!』
思いがけない追伸に、わたしはひっくり返りそうになった。いきなり何を言い出すんだ、トモくん……。
でも、もし本当に赤ちゃんの名前が“たまき”になったなら。ちょっと恥ずかしいけれど、やっぱり嬉しくもある。
そして、その子が大きくなったとき、同じ名前であることを誇ってもらえるような人に、わたしはなりたい。
東京に戻って、早十日。わたしたち家族は、なんとかうまくやれていると思う。
正直かなりぎこちないし、ケンカしそうになることもあるけれど。
お父さんは相変わらず仕事の虫で、大みそかまで会社に行っていた。でも、わたしたちのために働いてくれているのだと思うと、素直に頭が下がる。
お母さんはやっぱり口うるさくて、わたしは最近、お手伝いを頻繁にやらされる。
苦手な料理を手伝っていると、毎日みんなのご飯を作るということが、どれほど大変なことかわかった。
考えてみれば、中学時代からお弁当も欠かさず作ってくれていたんだ。それって、すごいことじゃないだろうか。
両親とたくさん会話をする中で、驚きの事実もあった。
「実は、あの日の朝、おじいちゃんが夢に出てきたんだ」
ぽりぽりと頭をかきながら言ったのは、お父さんだった。
それは、両親がわたしを迎えに来てくれた日のこと。
あの日の明け方近く、お父さんの夢に勝也さん――おじいちゃんが現れて、「環が家にいて邪魔だからさっさと迎えに来い!」と怒鳴ったらしい。
人のことを邪魔って、ひどいなあ、おじいちゃん。